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健康・医療・福祉 総合情報

「三重県におけるハンセン病問題の歴史断片」
2001年三重県人権大学講座自由研究論文

三重県生活部  吉村 利男

はじめに

 2001年5月11日、「『らい予防法』違憲国家賠償請求訴訟」について熊本地裁の判決があった。判決の要旨は、遅くとも1960年以降には「らい予防法」による隔離政策の必要性がなく、過度に人権を制限した同法の隔離規定の違憲性は明らかだったとし、早期に政策を見直さなかった旧厚生省と、1996年に至るまで同法を廃止しなかった国会議員の立法不作為について国家賠償上の違法性を認め、原告に対する慰謝料の支払いを国に命ずるというものであった。
 この判決に対して、5月23日、政府は控訴を断念し、「我が国においてかつて採られたハンセン病患者に対する施設入所政策が、多くの患者の人権に対する大きな制限、制約となったこと、また、一般社会において極めて厳しい偏見、差別が存在してきた事実を深刻に受け止め、患者・元患者が強いられてきた苦痛と苦難に対し、政府として深く反省し、おわび申し上げる……」という声明を出した。そして、6月7日には衆院本会議で「ハンセン病問題に関する決議」が可決され、「深く反省し謝罪の意」が表明された。
 以上、ハンセン病問題をめぐる本年の全国的な動きは、テレビや新聞紙上でも大きく報道され、記憶に新しいところである。また、インターネットでも1世紀に及ぶハンセン病問題の経緯を知ることができる。しかしながら、三重県という地域を限ってハンセン病問題を記述した資料は、調査不足かもしれないが、見当たらない。そこで、今回の人権大学「自由研究」テーマとして、三重県におけるハンセン病問題の歴史を取り上げてみた。全国的な流れを概観しながら、三重県の状況を見てみようと思うが、戦前には「癩予防法の秘密厳守の精神」と言われており、関係する資料は非常に数少なく、一部を垣間見る程度であることを最初に断っておく。

ハンセン病について

 ハンセン病は、1873年にノルウェーのマルマウェル・ハンセンが発見した「癩(レプラ)菌」による慢性伝染病で、癩腫型(結節癩)と類結核型(斑紋癩・神経癩)の二病型がある。癩種型は、顔面や四肢に褐色の結節(癩種)を生じ、眉毛が抜けて頭毛も少なくなる。結節が崩れて特異な顔貌を呈し、皮膚のほか粘膜・神経をも冒される。類結核型は、皮膚に赤色斑を生じ知覚麻痺を伴う。
以上がハンセン病の概要であるが、同病に対する誤解が多くの偏見や差別を生んできたので、本論に入る前に、伝染力などについて、もう少し詳しく次に整理しておく。

  1. 伝染病と言っても伝染力は極めて弱い。癩菌は結核菌とよく似ているが、結核菌に比べて問題にならないほど弱い。
  2. 乳幼児のときに繰り返し接触して初めて感染する。それも癩菌に対する免疫の働きが弱い場合に限られる。したがって、幼児期の感染以外はほとんど発病の危険性はない。
  3. 遺伝病ではない。ただ、感染して発病するまでの潜伏期間が数年ないし十数年と長く、いつどこで誰から感染したのかわからないことが多く、そのために遺伝病のように思われてきた。
  4. 不治の病気ではなく、結核と同じように治癒する病気である。特に1943年のプロミン(サルファ剤)開発をはじめ治療法の進歩で、早期に診断されれば決して恐ろしい病気ではない。現在、全国の新発生患者数は十数人以下で、その多くは在宅のまま治療を受けているという。しかし、感染の恐れがないように軽快させることは容易でも、知覚麻痺のような末梢神経の障がいを防ぐことは困難なこともある。また、病気が進行してからの治療では顔面・手足など何らかの変形(後遺症)を残すことがある。

法律「癩予防ニ関スル件」の制定まで

 病菌の発見は19世紀であるが、ハンセン病は紀元前から世界中に存在したらしく、著名な『論語』にも記述されているという。日本の古代では「天刑(天が下す刑罰)病」とも言われ、厳しい規制が課せられ、中世には、「起請文」の決まった文言として、誓約に背いた場合「現世ニハ受白癩黒癩之病」、後生では堕地獄の罰を受けると記されるほど恐れられた。また、近世でも「宗門改帳」の誓詞などに同様の記述が見られ、三重県域の紀州藩領のほとんどの「宗門改帳」で確認できる。それは、取りも直さずハンセン病者が周辺にかなり存在したわけであるが、ハンセン病は「かったい」とも呼ばれ、社会から締め出された病者は霊場や寺院などを浮浪・徘徊していたようである。
 明治期になって外交が盛んになると、政府はハンセン病者を含む浮浪者を取り締まる手立てを講じた。特にハンセン病は外見にあらわれるため、外国人の眼に触れさせないようにしたという。1872年のことで、ロシア皇太子の来日を控えて200人の浮浪者を旧加賀藩邸に収容した。これが公的隔離の最初であったとされる。1889年にはキリスト教宣教師の努力により初のハンセン病療養所も設立された。そして、1897年ベルリンの「第1回国際らい会議」で「らいの予防には隔離」の方向が出され、10年後の1907には日本でも法律「癩予防ニ関スル件」が公布され、療養所入所の方策が定められた。ただし、この法律では、「癩患者ニシテ療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノハ行政官庁ニ於テ命令ノ定ムル所ニ従ヒ療養所ニ入ラシメ之ヲ救護スヘシ」とあり、ハンセン病者すべてを入所対象とはしておらず、「扶養義務者」が引き取ることもあった。また、療養所も府県連合の公立療養所で、1909年には全国に5箇所が設置された。
三重県の様相は、法律の制定もあって1909年以降『三重県統計書』に患者数などのデータが載せられ、統計的にはわかるようになった。表1にまとめてみたが、1909年には67人の「新発見患者」があり、うち8人が療養所に入所している。それにしても、統計書では「療養所ヘ送致シタル」と記しており、「送致」とは「(法律で)一件書類・被告人を他の場所に送る」意味であることを考えると、ハンセン病者の人権を全く無視した当時の状況がうかがえる。

「癩予防法」と三重県の「無癩県運動」

 表1に掲げた三重県の療養所入所数は、1938年及び1940年の42人を最高とするが、1931年以降随分多くなっている。この背景には、法律の改正と各県が競って展開した「無癩県運動」がある。
 まず法律の改正であるが、1931年4月「癩予防ニ関スル法律」が「癩予防法」として改正され、その内容も一段と厳しいものになった。すなわち、「行政官庁ハ癩予防上必要ト認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ従ヒ癩患者ニシテ病毒伝播ノ虞アルモノヲ国立療養所又ハ第4条ノ規定スル療養所ニ入所セシムベシ」と、すべてのハンセン病者が隔離の対象となった。さらに、「病毒伝播ノ虞アル職業ニ従事スルヲ禁止」され、三重県でも1932年8月の「癩予防法施行細則」によって従事を禁止する職業を細かく定めた。例えば、接客業、飲食物の製造・販売業、飲食器具の調製・販売業、貸本・古着販売業などである。
 なお、療養所については、法律改正の前年1930年11月に日本初の国立療養所である長島愛生園(岡山県)が発足し、1931年1月には「国立癩療養所患者懲戒検束規定」も定めらていた。「懲戒検束」とは「療養」という言葉からほど遠く、「譴責、謹慎、減食、監禁、謹慎及減食、監禁及減食」の6種もの処罰方法があって刑務所的色彩が強かったと言われる。こうした国立療養所は次々と設立され、1939年までに長島愛生園を含めて6箇所、1941年には5箇所の公立療養所が国立移管となり、戦後も新しく2箇所が開設され、現在の計13箇所の国立療養所につながる。
 法律改正や国立療養所の設置が進む一方、癩予防協会の設立や「無癩県運動」も全国に展開していった。癩予防協会については、1931年1月に全国の癩予防協会の発起人会が開かれ、三重県からも県知事・津市長・四日市市長のほか、川喜田百五銀行頭取・三輪四日市銀行頭取・諸戸清六・土井八郎兵衛・熊沢伊勢電社長など多くの実業家が出席した。また、発起人会の会長には「実業王」と言われた渋澤栄一が選出された(『伊勢新聞』)。ただ、この全国の癩予防協会の創立年月日は未確認であるものの、三重県支部は1941年に設立されている。
 「無癩県運動」に関しては、三重県がいつから取組みを始めたのかは、資料もなく、明確ではない。ただ、1936年から「癩予防週間」を設定して運動を進めていたことは後に紹介する資料でわかる。いずれにしても、「無癩県運動」とは県内からハンセン病を無くそうという動きで、ハンセン病の予防対策というよりもハンセン病者を「療養所ヘ送致」し隔離する手段であった。このような「無癩県運動」の三重県の実態がよくわかる資料が一つある。資料が数少ない中できわめて重要なものである。それは、国立療養所長島愛生園早田 晧医官の1940年の三重県内の検診記で、「無癩県のゴール」と題して『三重県社会事業』(三重県社会事業協会機関誌)に連載(『黎明』にも採録)されている。機関誌の終刊で一部が割愛されることとなるが、その終刊号(第117号、1941年4月発行)の「筆者付記」に次のように記している。
  ……昨年末の一斉調査で、全国第十三番目といふ癩患者の多い県である本県に、是非共何か具体的の施設が実施  され、一日も早く浄化の実を挙げられる様に、……
 これによって当時の三重県にはハンセン病者が多かったことがわかるが、この検診記の本文からはどのような方法で療養所入所を承諾させたかをうかがうことができる。ただ、「余り詳細に記載して類推される様な愚を演じても癩予防法の秘密厳守の精神に悖るので出来る丈差し障りのないように書いた」(『黎明』の自序)と弁明しているように、三重県のどの地域か詳しく読んで検討しなければならない。以下は、宇治山田市と考えられる地域の検診記の一部である。
  ……三十才になる結節癩の患者をみる。……
昭和五年頃から京大の外来で治療を受けた由であるが、既に盲目に近く、足趾の切断さへもみえる重症である。自作だけでも一町四反もしている此の富んだ家では出来る丈世にかくれて療養所の門を避けようとしたのである。
「有難いお社のある県内のこと是非貴方の御自覚に訴へたいと存じます。他人の迷惑にならない様にすることが第一です。チフスでも赤痢でも隔離とも云ふ意味に違ひないのですから」、
数千万言とは行かなかったが、長々と説明した甲斐あつて到底再起の見込なしと観念しているこの人も百三十万県民のため祖国浄化の捨石としての島の生活に同意してくれる。
  ……神都浄化、祖国浄化の魁としてのこの事業が次第々々に患家に理解され出した。……
 この文章中の「島の生活」とは国立療養所長島愛生園のことで、瀬戸内海の離島に所在していたからである。療養所入所者の希望がかなって1988年に本土と長島の間に橋が架けられ、その橋は「人間回復の橋」と呼ばれているという。
 また、文中の「神都浄化」についてであるが、これには戦時体制が強化されていく中で国家神としての伊勢神宮を中心とした宇治山田市の町づくり、「神宮関係特別都市計画(神都計画)」が決定されていたという背景があり、三重県に伊勢神宮が所在することから「聖地三重」と称され、「浄化」が大きな命題になっていた。その「浄化」の「魁」としてハンセン病者が対象となったのである。すなわち、ハンセン病者の隔離が一番の「浄化」の目標となったわけで、県統計書の「療養所ヘ送致シタルモノ」の郡市別データを見ても、四日市市はほとんど「送致」されていないのに比べ宇治山田市や度会郡では多くの人が「送致」されており、表面的には「同意」があっても言葉巧みに説得した強制隔離のように感じる。
 こうした三重県の「無癩県運動」の結果は、1941年癩予防協会三重県支部結成記念として発行された『黎明』の早田 晧医官の「自序」に「幸いにも県当局の英断は……次々に之等の病友を愛生園に送り、無癩県三重の実は正に明日に期待し得べき迄になつた」と記されており、成果があったというより、隔離策が進んだことを物語っている。

G H Q 三重軍政部のハンセン病報告と優生保護法

 第二次世界大戦終戦後、日本は連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の占領下となり、三重県にも軍政部(Military Government Team)が配置され、県会議事堂がそれに当てられた。現在、県民サービスセンターが建てられいる場所で、私の職場「三重県史編さん室」もそこにある。
 この三重軍政部の1947年2月の「月例報告」(原本アメリカ公文書館所蔵、国立国会図書館がマイクロフィルムで収集)の付属文書にハンセン病に関する報告(Leprosy in Mie Prefecture)があることを業務中にたまたま発見したので、次にその翻訳を掲げる。

三重県の癩病

 三重県では50の癩病の症例が報告されている。そのうちの18が重症である。これらの患者の多くは病院(療養所)に収容されているが、多分これらよりもっと数多くの患者が家庭内に隔離されていると言われている。三重県には癩療養所はない。一志郡の重症癩患者のケースが抜き打ち的に調査され、次のようなことが判明した。
37歳の男性患者は子供いない農家で、その母親と共に生活していた。患者の2人の兄弟も癩病で死亡していることは重大なことであった。そこで、我々は癩病患者の隔離と入院加療を定める法律を更に研究するとともに、関係機関へ勧告をするつもりである。
これに従えば、戦後1947年の段階で県内に50人程度のハンセン病者がいた。表1の統計ではデータがない時期であるが、1940年の102人が翌年の癩予防協会三重県支部設立以降の厳しい隔離策によって半減したものと推察される。
 また、この報告の「患者の2人の兄弟も癩病……」という表現からは、当時ハンセン病を遺伝病ととらえていたことがうかがえる。こうした状況の中で、1948年7月に「国民優生法(1941年制定)」に代わって「優生保護法」が公布され、「本人又は配偶者が癩疾患に罹つているもの」は優生手術や人工妊娠中絶を行うことができる対象として条文に規定された。療養所内での結婚には断種が強制され、療養所での出産はできず「堕胎」させられたという手記等もあるが、三重県でも、同法施行当時のデータは調べることはできなかったものの、表2に示したように1970年前後の「らいによる人工妊娠中絶」は数多く、1982年まで見られた。そして、この「優生保護法」は、「らい予防法」が廃止される1996年に「母体保護法」として改正されるまで存続した。

「らい予防法」の改正から法廃止まで

 1943年プロミンというハンセン病に対する治療薬が開発されたことは前述したが、1947年には日本でも治療実験が開始され、翌48年日本らい学会もプロミンの「治癩効果」を確認したという。さらに、49年に厚生省のプロミン予算要求を大蔵省が減額査定したことを機に各療養所ではハンスト闘争が起き、51年に全国国立癩療養所患者協議会(全患協)も結成された。そうした状況の中で、「らい予防法」改正案が上程され、それに反対する全患協の陳情団が国会議事堂に座り込むなどの闘争も繰り返されたが、1953年8月新しい「らい予防法」が成立した。
 この新法は、「何人も、患者又は患者と親戚関係にある者に対して、そのゆえをもって不当な差別的取扱をしてはならない」という条文を入れ、同時に刑務所的色彩の強かった「懲戒検束規定」を廃止したようであるが、患者の隔離を続け、新患者の収容隔離という基本的なものは変わらなかった。
すなわち、熊本地裁の判決文にあるように、「新法六条一項は、勧奨による入所を定めるが、これは同条二項の入所命令、同条三項の直接強制を前提とするものであり、法的にも任意の入所とは同視し難い」ものであった。
また、療養所以外で治療が受けられる医療機関がきわめて限られ(入院治療では京都大学のみという)、入院治療の必要な患者は療養所に入所しなければならなかったこともあるが、プロミンによって治癒することができたにも関わらず、新法が隔離策を継続したことで、ハンセン病に対する差別・偏見が助長・維持されてきたことも事実である。三重県においても1980年まで入所者があった。
 一方、世界では、日本の「らい予防法」改正以前の1952年にWHO(世界保健機関)が「ハンセン病は治癒する病気で、隔離政策を取るべきでない」との結論を出していた。そして、1956年にローマで開催された「ハンセン氏病患者の保護及び社会復帰に関する国際会議」で日本の政策が批判されたり、58年の東京で開催された世界ハンセン病学会議で日本の「強制隔離政策の全面破棄」が勧奨されたりしたようである。さらに、沖縄県は返還の年(1972)に「ハンセン氏病予防法」を廃止し、以後、通院や入院による治療が行われてきたらしい。こうした状況下にあっても、日本はなかなか踏み切れず、ようやく1996年3月になって「らい予防法」を廃止した。

おわりに

 以上、ハンセン病に関する全国的な流れと三重県の実態の一部を概観してきた。ちなみに、ハンセン病国賠弁護団のHPによると、1998年12月現在で全国のハンセン病療養所「在所患者数」は総数4,918人とある。そのうち、三重県出身者は、同HPではわからないが、本年5月現在で岡山県邑久郡の長島愛生園の72名を筆頭に8か所のハンセン病療養所に計135名が在所されており(県健康対策課提供資料)、47都道府県の平均を上回っている。前に記したが、1940年には「全国第十三番目といふ癩患者の多い県」であり、療養所入所者数は単に都道府県人口に比例するものではなさそうである。断言はできないが、「無癩県運動」の徹底ぶりを反映しているのかもしれない。特に三重県では「聖地三重」・「神都浄化」を掲げ、強烈な隔離策が展開されていた。ハンセン病者のためでなく、「祖国浄化の捨石」としての療養所入所であった。
 こうして隔離された入所者にとって、法の廃止や国家の賠償だけでは解決できない問題がある。それは療養所入所者の社会復帰の問題である。1960年が最も軽快退所者が多かったようで(入所者の2%)、それ以降は漸次退所の希望者が減少したらしい。第二次世界大戦前後の入所者が多く、入所者が高齢であることは言うまでもない。熊本地裁の「スピード審理」も平均年齢74歳という元患者の被害救済を最優先したからである。しかし、社会復帰にとって、高齢も問題の一つではあるが、それにまして問題なのは、社会のハンセン病に対する偏見・差別が依然として残っていたこと、法廃止や判決後の「今も残っている」のではないかということである。
 社会復帰しながらも「職場や親戚には病気のことは絶対に知られないようしている」という人、家族から「もう帰って来るな」と言われた人、「偽名なら遠くのおふくろまでは迷惑をかけない」と偽名で提訴した人までいるという。
 これは、戦前・戦後を通じて「ハンセン病は強烈な伝染病」という誤った認識に基づく強制的な隔離策が人々に過度の恐怖心を持たせ、ハンセン病に対する社会的な差別・偏見を増強してきたためである。こうした偏見・差別を撤廃するためにも、詳細な歴史的な研究が必要であり、私の課題として更に三重県のハンセン病問題の資料を調査していきたいと思う。

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