県政だより みえ/令和2年8月号(No.433)
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昭和20年7月29日の空襲で宇治山田市(現伊勢市)内の約6割が焼失した。昭和23年開催の「平和博覧会」。戦後初の博覧会は、約55万人の人出で賑わった。採り方は人それぞれ。先輩たちに聞いて、技を見て、学んでいます。さまざまな漁の道具。自分用に特注で作ったものも。大おお野の愛あい子こさん鳥羽市海女/フォトグラファー昭和12年生まれ。中学・高校教員を経て伊勢高等学校で校長に就任。伊勢市史の編さんにも携わる。現在は「山田奉行所記念館」の運営委員長を務める。辻つじ村むら修しゅう一いちさん(伊勢市)(取材日:2020年3月11日)〈大野さん撮影〉〈伊勢市提供〉〈伊勢市提供〉戦略企画部 戦略企画総務課戦略企画部 戦略企画総務課☎ 059・224・2009  059・224・2069 sensomu@pref.mie.lg.jpsensomu@pref.mie.lg.jp問い合わせ先世代を超えて伝える戦後75年 今年は終戦から75年の節目の年です。県内では戦後生まれの人の割合が8割を超え、戦争を実体験として語り継いでいくことが年々難しくなっていますが、戦争の実態を学ぶことはできます。私たち一人ひとりが、二度と戦争を起こさないという先人の思いを継ぐことが大切です。小学校3年生時に終戦を迎えた伊勢市在住の辻村修一さんに当時の体験や社会のようすなどについてお話いただきました。戦争の現実と平和の大切さ 県内の戦争遺品や広島平和記念資料館から借用した「写真パネル」を展示します。 県が保有する平和啓発資料などの展示や、学校への貸し出しなどを行い、啓発活動を進めています。詳細は県ホームページをご覧ください。  8月4日(火)~16日(日) ※8月11日(火)は休館日県総合博物館(MieMu)3階 学習交流スペース ほか期間場所平和に関するパネル展平和啓発資料の貸し出し(対象:学校・団体・市町)自由がない戦時中の暮らし 戦時中と現在の暮らしを比べた時の一番の違いは、今は自由に物が買えるということです。当時は戦争を遂行するために、国が人を動員し、また、食料や物資などを管理する体制でした。お米をはじめ、医薬品、魚介類、青果物、木炭、衣料品など、生活に必要なすべてのものが配給の対象でした。配給といっても無料ではなく、お金と政府から配られる切符が必要で、国が決めた数量分の物資しか買えない時代でした。 戦争が厳しくなって、徴兵で人がどんどんいなくなると、今でいう中学生や高校生も「学徒動員」で労働力として徴用されるようになりました。子どもたちまで働かせないと国が仕事ができない状態にあったと言えます。お米の配給も、不足分が麦、麦から大豆のカスやとうもろこしに変わっていきました。昭和20年8月15日の終戦まで、口にするものがないということはなく、我慢すれば何とかなったという生活でしたが、自由はありませんでした。火の海に包まれたまちと復興 私が住んでいた宇治山田市(現伊勢市)では、合計7回の空襲があり、昭和20年7月29日の7回目の空襲が、一番大きな被害となりました。その日、自宅の防空壕から2キロ先の宮川の河川敷まで逃げたのですが、堤防に上って振り返ると、まちが火の海になっていたのが見えました。落ちて来る焼しょういだん夷弾や火から逃げる途中すごく熱かったこと、河川敷は逃げてきた人でいっぱいだったことを今でも覚えています。 親を失った人の比ではありませんが、空襲の後、一番苦しかったのは、家が焼けて何もかもなくなったことです。家が残った人は履き古した下駄や、古い物にしろ、着る服もあります。家を焼かれた人には何にも残っていません。終戦まもなくは配給の体制も整っていなかったので、食べていくことも大変だったと思いますが、文房具など、生活に必要なものが何もない状態は、子どもながらに不安でした。 昭和23年には配給の統制も順次解除され、徐々に自由に物が買えるようになりました。また、まちの復興のために人を呼ぼうと、平和博覧会が計画され、豪華賞品が当たる前売券や集団見合いなど、当時の市長のアイデアでいろいろな催しが行われました。その頃から建物もたくさん建ち始め、人がきちんと生活できるようになっていきました。戦争を知らない皆さんへ 戦争を知らない世代の人たちに伝えたいのは、戦争を二度と起こさないために、戦争の事実を正しく知ってほしいということです。 なぜ知る必要があるか。それは、人は物事を判断する時、自分の記憶や心に残っていることを頼りに判断を下すからです。戦時中は情報が操作されていて、後から考えれば理屈に合わないことにも、言われたとおりに取り組む風潮がありました。正しい情報を伝え、得ることの大切さを知るとともに、歴史的な事実を自分の中に蓄積させておくことで、物事を判断する時、ごまかされずにきちんとした判断ができると思います。そのためにも、歴史的な事例に普段から触れる機会を増やしてほしいです。8月は、戦争を知る催しがいろいろな所で開催されています。ぜひ出かけてみてください。ホームページでは、戦争体験者インタビューがご視聴いただけます。戦争体験朗読CD▼る人がいなくなってしまう状況です。そのような事態を回避するためにも、海女の仕事をしたいという方がいれば、東京から移住し、海女の世界に飛び込んだ自分の経験や海女の精神性について、伝えたいと思います。 そして、鳥羽の海の豊かさや海女文化、三重の魅力を伝えることは、海女でありフォトグラファーである私の役目だと感じているので、少しずつでも、写真を通して地域を盛り上げていきたいです。豊かな三重の海と、海女文化を伝えていきたい豊かな三重の海と、海女文化を伝えていきたいめざしていることは何ですかお仕事の魅力について教えてください 鳥羽市の石いじか鏡町で、海女をしながらフォトグラファーとしても活動しています。海女漁ではアワビや海藻などを採っており、いつも持っているカメラで、自分で採った海産物や海中の様子などを撮影しています。海が好きで、いろいろな地域の海を潜ってきましたが、鳥羽の海は魚介や海藻が豊かで、まるで森が広がっている感じです。ワカメやアカモク、アラメなど、生えてくる海藻が季節で変わるため、海中の景色で四季が感じられるんですよ。 これは、海女の東京都出身。鳥羽市地域おこし協力隊を経て石鏡町に定住。海女漁に携わりながら、写真撮影を通して海女や鳥羽の魅力を発信中。 この海を守っていくことです。海女は一つの共同体で、生活の中に漁があり、漁のルールを守るほか、漁の安全や大漁を祈願する行事を行うなど、海女特有の精神性を通して海を大事にしています。 昔は石鏡だけでも約300人の海女がいましたが、今は50人ほどであり、現在海女をしている人たちがいなくなったら、海女文化や豊かな資源を守みんなが地区ごとにきっちり漁の期間や採取できる貝の大きさなどのルールを決めて、海を守るということを古くからつないできた結果だと思っています。海の恵みをいただいて暮らすというシンプルな生活ができるのは、この海の豊かさのおかげです。につながる、人や団体の取り組みを紹介します。※県総合博物館の所蔵品は、「戦争と三重~子どもたちが見た戦争~」として、8月30日(日)まで3階 企画展示室で展示中です。三重県 平和啓発 貸出検索県では、平和の尊さや大切さを県民の皆さん、特に未来を担う若い世代に伝える機会づくりに取り組んでいます。3県政だより みえ 令和2年 8月号

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