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「アイヌ民族とともに歩んだ探検家松浦武四郎」

松浦武四郎記念館山本 命

三重県出身で,江戸時代末期から明治にかけて活躍した松浦武四郎は,蝦夷地(北海道)を調査するなかでアイヌの人々と出会い,多くのことを学びました。今回は,松浦武四郎記念館学芸員の山本命さんによる寄稿から,文化の違いを正しく理解し,異なる文化,価値観を受け入れていこうとする武四郎の姿勢に学ぶとともに,彼の足跡を通してアイヌの人々の文化やくらしについて考えてみたいと思います。

はじめに

江戸時代の終わりごろ,アイヌ民族の生命と文化を守るために力を尽くした男がいた。
三重県松阪市出身の探検家・松浦武四郎である。
松浦武四郎の生涯を大きく分けてみると,17歳から26歳までは日本全国をめぐる旅,28歳から41歳までは合計6度に及ぶ蝦夷地(北海道)の探査,51歳で迎えた明治維新においては政府開拓使で蝦夷地にかわる道名,国名(現在の支庁名に相当),郡名とその境界の撰定に関わり,晩年68歳からは大台ケ原の探査を70歳までに3回,また70歳には富士山へも登っている。

明治21(1888)年に71歳で亡くなるが,ざっと見るだけでもその生涯は,まさに旅そのものであったといってよいだろう。

松浦武四郎肖像

写真:松浦武四郎肖像65歳の時の写真と伝えられるが,首からは勾玉など玉製品が数多く通された首飾りを下げるなど,古物の収集にも熱心であった。

おかげ参りと武四郎

松浦武四郎は,文政元(1818)年2月6日に松阪市小野江町(当時は伊勢国一志郡須川村という)で生まれた。

小野江町は三重県中部の県庁所在地である津市と,松阪牛で知られる松阪市の境となる雲出川の南側に位置し,かつて伊勢神宮を訪れるおかげ参りの旅人たちが行き交った伊勢参宮街道に沿っている。

文政13(1830)年,武四郎が13歳の時に起こった「文政のおかげ参り」は,日本の人口が約3000万人と推定されている時代に,一年間に約500万人もの人びとが,全国からお伊勢参りにやって来たとも言われ,今では想像を絶するほどの賑わいであった。

その旅人に影響を受けたのか,武四郎は17歳から26歳の間に全国各地をめぐり歩き,名所旧跡を訪ね,各地の山々を登っている。

松浦武四郎生家

写真:松浦武四郎生家松阪市小野江町にある築約200年という生家。前の道(伊勢参宮街道)を多くの旅人が行き交った。武四郎にとって故郷の我が家である。

長崎から中国,インドを目指す

13歳から16歳まで,津藩の学者平松楽斎の私塾に通っていた武四郎は,16歳の時に突然手紙を残して旅に出る。その手紙には,2,3年のうちには戻ると思いますが,この先,長崎,唐(中国),天竺(インド)へ行くかもしれません,というような内容が記されていた。しかし,この家出同然の旅は江戸にいることが発覚して,約3カ月で家人に連れ戻されることとなった。

武四郎の本格的な旅は,17歳からである。北海道に初めて渡る28歳までの間に,日本の各地を歩き回っており,19歳のときには四国八十八ヵ所の霊場を巡礼,20歳には九州を巡り歩き,武四郎が次に目指したのは,まさに中国,インドであった。

まず,九州と朝鮮半島の間にある対馬に渡り,そこから朝鮮半島に渡ろうとしたが,江戸時代の鎖国制度により,渡航を断念せざるをえず,長崎に滞在することとなった。

 

蝦夷地へと目を向ける

長崎は当時,中国,オランダと貿易がおこなわれた場所であり,武四郎の耳に海外の情勢がはいってきた。そして,東南アジアの国々がヨーロッパ諸国の植民地となり,日本へも外国船がやってきていることを知るのである。

なかでも,日本の将来を心配する人びととの話の中で,北の大国ロシアが南に勢力を拡大しようとして,蝦夷地(北海道)を狙っていることを聞き,このままでは日本もロシアから植民地の支配を受けるかもしれない,自分に何かできることはないだろうかと考えた武四郎は,蝦夷地(北海道)を調査し,その様子を明らかにすることで,多くの人びとへ伝えようと決意する。この時,武四郎は26歳であった。

そして,いったん郷里へと戻り,伊勢神宮へ参拝,亡き父母の墓前にも参り,四国,九州の旅の記録をまとめると,27歳になった武四郎は一路北を目指す。

28歳ではじめて蝦夷地へと渡った武四郎は,そこでアイヌ民族と出会う。

 

アイヌ民族との出会い

北海道の面積は三重県の約14倍,7つの県をもつ九州の約2倍を誇る広大な島である。まだ内陸部の詳細な地図もない中で,原生林の広がる大地を目の前にして,武四郎は道内各地で暮らしているアイヌの人びとの協力を得て,調査を進めていった。

寝食をともにする調査の中で,アイヌ文化とともに,人びとの心に触れた武四郎は,アイヌ文化は我々とは異なる文化であるが,自分たちにはない素晴らしい部分を持っていることを強く感じ,調査の後,蝦夷地の様子を多くの人びとに伝えるためにたくさんの紀行本を執筆し,内陸部を詳細に示した蝦夷地地図を制作するとともに,アイヌ文化の紹介にも力を注いだ。

 

アイヌ民族の歴史と文化

アイヌ民族は,13世紀頃,北海道,樺太(サハリン),千島列島で誕生したとされるが,狩猟と採集を生業の中心としながら,樺太を通して中国大陸との交易や,本州との交易を活発におこない,豊かな社会を築いてきた。
以下では,江戸時代におけるアイヌの人びとの暮らしを紹介しておく。

 

〔言語〕

アイヌ民族は独自の言語「アイヌ語」をもつ。
日本は単一民族の国家であると思われている人びとがいるかもしれないが,アイヌ語は日本語の方言ではない。古くから北海道にはアイヌ民族の文化,沖縄(江戸時代は外国であった)には琉球の文化があり,単一民族の国家ではない。

そのアイヌ語をいくつか紹介しておくと,挨拶の言葉は,「イランカラプテ」と言い,そこには出会った人への「あなたの心にそっと触れさせていただきます」というアイヌ語の意味がある。また,お礼の言葉は,「イヤイライケレ」と言う。これら二つの言葉だけをみても,アイヌ語が日本語とは全く異なる独自の言語であることがわかる。

ところで,私たちが日常的に使っている言葉の中にも,アイヌ語が含まれている。
例えば,魚の「シシャモ」,サンタクロースのソリを引く「トナカイ」,水族館で人気がある「ラッコ」,これらは北の地域に生息する動物で,その語源はアイヌ語とされ,アイヌ語は現在の私たちの生活の中でも使われている。

 

〔口承文芸〕

アイヌ民族の伝承は口承文芸として代々伝えられてきた。その代表的なものが「ユカラ」である。これは,エカシ(祖父),フチ(祖母)から受け継いできた物語で,神様に関する話(カムイユカラ)であったり,英雄に関する話(ユカラ)であったりする。
これらは口伝えで,親から子へ,子から孫へという形で伝えられた。

江戸時代後期以降は人口の激減などにより,今では失われてしまった物語も多いが,大正12(1923)年に出版された知里幸恵の『アイヌ神謡集』は,代々伝えられてきたカムイユカラをまとめたもので,アイヌ民族の鋭い感性と豊かな表現力を感じ取ることができる。

 

〔衣装と文様〕

アイヌ民族の代表的な衣装に「アットゥシ」がある。オヒョウという木の皮の繊維から編まれた「樹皮衣」である。オヒョウの木の皮を剥ぎ,沼や温泉にしばらくつけておくと繊維がはがれやすくなり,それを乾燥させると,樹皮内側の繊維が糸状に裂けるので,それを利用して編んでいく。

こうして出来た衣装に,アイヌ民族独特の文様「アイヌ文様」の刺繍が施される。
アイヌ文様は,渦巻き文様「モレウ」と,{(かっこ)のような文様「アイウシ」を組み合わせて,さまざまな幾何学的な文様をつくりだしている。

渦巻き文様は,中国東北部や樺太(サハリン)北部の諸民族でも使われており,アイヌ文化は日本とのつながりだけでなく,交易を通じて中国東北部や樺太北部で暮らしていた他民族の文化とつながっていることがわかる。

このほかに,本州との交易により木綿の生地を手に入れて作った木綿衣などがある。

安政6(1859)年刊行 松浦武四郎筆『蝦夷漫画』

写真:安政6(1859)年刊行松浦武四郎筆『蝦夷漫画』アイヌ民族がオヒョウという木の皮を剥ぎ,繊維を採る様子が描かれている。絵はすべて武四郎自身によるもので,アイヌ文化をわかりやすく伝えようとした。

 

〔木彫り〕

衣装は植物の繊維で編まれていたが,盆,椀,杓子などの生活道具は,ほとんどを木から作り出していた。漆器や鉄器は,本州との交易で容易に手に入れることができたため,わざわざ苦労して作る必要はなかったとされる。

アイヌ民族はマキリという小刀を用いて,道具に木彫りでアイヌ文様を施していった。それぞれの道具に刻まれた精緻なアイヌ文様からは,木彫りの技術の高さをうかがうことができる。

 

〔神への祈り〕

江戸時代の本州では稲作が盛んにおこなわれていたが,寒冷な気候の北海道では稲が育ちにくかったとされる。一方,自然が豊かなところであり,海の幸,山の幸が豊富であるため,アイヌ民族は動物を狩り,植物を採集することを生活の基盤としていた。

こうした,自然の恵みを受ける生活の中では,時として獲物がとれないこともあった。

また,冬場は厳しい自然環境の中で,アイヌ民族は自然を巧みに活かして暮らしており,人間の生活に欠かせない火や水,風や地震などの自然や,人間の力が及ばないものを,神として信仰した(このような信仰は,稲作がおこなわれてきた本州と大きくは変わらない)。

アイヌ語では人間を「アイヌ」,神を「カムイ」と言う。神は,神の大地を意味する「カムイモシリ」に住んでおり,動物などに姿を変えて,人間の大地「アイヌモシリ」にやってきて,恵みをもたらしてくれると考えられていた。

動物神で最も重要な神とされたのは,「シマフクロウ」である。翼を広げると2メートルもある大きなフクロウは,コタン(集落)を守ってくれる神(コタンコロカムイ)として大切に扱われた。

ヒグマも神の化身であると考えられた。ヒグマはアイヌ民族にとって肉や毛皮などの恵みを与えてくれる大事な神であり,その大いなる恵みに深く感謝するとともに,魂を神の世界へと大切に送り届け,再び恵みをもたらしてくれるよう祈った。こうしたヒグマの魂を神の世界へと大切に送り届ける儀式は,「イオマンテ」と呼ばれる。

アイヌ民族は,日常生活の中で自然の恵みを神に感謝し,動物や植物は自分たちの食料として必要な分しか取らず,あとは次のことを考えて必要以上は取らなかった。

その一方で,蝦夷地へと進出した江戸時代の和人は大きな網を使って遡上する鮭を根こそぎ取りつくすなど,アイヌ民族の生活を脅かすようになり,争いに発展することもあった。

安政4(1858)年著 松浦武四郎筆『近世蝦夷人物誌』

写真:安政4(1858)年著松浦武四郎筆『近世蝦夷人物誌』武四郎の自筆の挿絵。アイヌ民族の姿が克明に記されており,近世ルポルタージュの最高峰とも評される。

 

武四郎の蝦夷地調査

松浦武四郎の蝦夷地調査は全6回に及んでいる。
航空機や電車,自動車のない時代に,アイヌ民族の協力を得て,歩いて調査をおこなった武四郎は,その土地の様子をスケッチし,アイヌ語の地名,地形,動植物,アイヌ文化など見聞きしたことを事細かに記録している。
一私人として誰から頼まれたわけでもなく,個人の意志で始めた調査であったが,3回の調査を終え,詳細な調査記録をまとめた武四郎のもとには,ロシアとの対外関係の中で蝦夷地に関心を持っていた各地の大名が使いを送り,その記録を写しに来たという。

こうして武四郎の名は知られるようになり,調査記録を江戸幕府へと献上したところ,その実績が認められ,幕府からお雇い役人として調査を行うことを命じられた。

後半の3回の調査は,幕府役人として調査の任務にあたり,蝦夷地の内陸部の様子を詳細に調べている。

武四郎の調査は,大変辛く険しいものであったが,アイヌの人びとが大自然の中で巧に生きる姿に心を動かされ,お互いの食糧を分け合って食べ,ともに野宿をしながら調査をおこなう中で,深くアイヌ文化に触れ,アイヌ民族からの信頼も厚くなっていった。

ところが,江戸時代以降に豊富な水産資源を求めて次々と蝦夷地へ進出していった本州の人びと(和人)は,アイヌ民族の文化を正しく理解することなく,文化の違いを優劣として捉え,アイヌ民族を苦しめていた。

 

「場所請負制度」

松浦武四郎が蝦夷地(北海道)を調査した江戸時代末期,アイヌ民族を苦しめた政策が二つある。江戸時代に蝦夷地を領地とした松前藩による「場所請負制度」と,江戸幕府による「撫育同化政策」といわれているものである。

江戸時代,主として本州の農民は年貢として米を藩主に納め,藩士は俸禄として米を与えられていた。

北海道では寒冷な気候から米が育ちにくかったが,海産物が豊富であったため,松前藩は当初アイヌの人びととの交易を松前城下で独占的に行っていた。

やがて,松前藩はアイヌの人びとの自由な交易を制限し,蝦夷地の海岸線に交易をする場(商場)を設けていった。そして,家臣に「商場」を知行地として与え,商場を与えられた家臣は現地のアイヌの人びとと交易をおこない,交易品を本州の商人などと取引をして利益を得ていた(この段階は商場知行制といわれる)。

しかし,商人の進出によって交易場所(点)としての「商場」から,漁業生産の場(空間)としての「場所」へと蝦夷地は区分けされ,家臣は「場所」での漁業経営を商人に請け負わせるようになっていった。

この「場所請負制度」により,商人は利益を増すためにアイヌ民族を労働力として確保するために自由な移動や結婚を禁じ,強制的に酷使することなどへつながっていった。

 

撫育(ぶいく)同化政策」

一方,幕府の「撫育同化政策」は,独自の文化を持つアイヌ民族に対し,本州と同じような暮らしを,強制させるものであった。

幕府はロシアの南下政策に対して,蝦夷地は日本の領土であることを主張し,そのために文化の異なるアイヌ民族に本州の文化を強制的に押し付けようとしていった。

こうした状況に対して武四郎は,アイヌ民族は独自の文化を持った人びとで,その文化は尊重されるべきことや,アイヌ文化への正しい理解を求めて,幕府への調査記録などで切実に訴えている。

 

不利な交易

蝦夷地を支配していた松前藩は,アイヌ民族との交易を独占的におこなうようになっていったが,当時おこなわれていた干鮭100匹に対する米との交換量を見ていくと,アイヌ民族がいかに不当な交換率で交易を余儀なくされていたかを知ることができる。

松浦武四郎研究の第一人者である秋葉實氏から教えていただいたところでは,江戸時代の初めにあたる慶長9(1604)年には,干鮭100尾に対し米二斗俵の取引を基準としていたものが,米価の変動や松前藩の財政難を理由に延宝8(1680)年には一斗二升(基準の60%)に減少,さらにその約百年後には八升俵(基準の40%)へと減らされていったという。

通常,米価が戻れば当初の基準へ戻すべきところを,場所請負商人たちは「仕来り」として,アイヌの人びとに不利な条件での交易を一方的に押し通していった。

 

アイヌ民族の蜂起

もちろん,こうした不当な交易や,本州の人びと(和人)との間に起きた摩擦は,アイヌ民族と和人との戦いにも発展していった。

アイヌ民族の歴史における,和人との大きな戦いは3つある。コシャマインの戦い(長禄元[1457]年,シャクシャインの戦い(寛文9[1669]年),クナシリ・メシリの戦い(寛政元[1789]年)である。

コシャマインの戦いは,当時アイヌ民族と交易をおこなっていた和人との間で起こったもので,アイヌ側が中国(明)の衰退によって交易品が入って来なくなったことにより,和人側に対する交易の優位性が失われたことに関係しているとされるが,この戦いの収束にあたった蠣崎氏により,交易の独占的な管理体制を築かれることになった。

その後のシャクシャインの戦いは,当初はアイヌ民族内部での集団同士の対立であったものが,交易上の支障となることを恐れた松前藩が介入したことにより,不当な交易によって自由が制限されてきたことに不満を持つアイヌの人びとと松前藩の争いに発展したもので,戦いの後,松前藩はアイヌの人びとに無条件の忠誠などを誓わせ,武器の没収を徹底的に行った。

その後,松前藩のアイヌ民族への支配が強化される中で起きたクナシリ・メシリの戦いは,強制的な労働の中で場所請負商人による非道な行為に対する怒りの蜂起であったが,松前藩はアイヌ民族の集団同士で仲間割れをおこさせるなどして解決をはかり,これを最後にアイヌの人びとによる大きな戦いはなくなる。

アイヌ民族による抵抗を受けた松前藩は,その都度支配を一段と強め,若者を労働力として酷使するとともに,残された村では老人と子どもばかりとなり,食料を獲得するための狩猟がおこなえないなど,生活が困窮する状態に陥り,和人への依存を強めさせるとともに,抵抗する力を奪っていった。

 

武四郎の姿勢

武四郎は,アイヌ民族の若者が次々と漁場へと連れて行かれ,過酷な労働で倒れていく姿を目の当たりにし,幕府に対し,明日の開発はもちろん大事であるが,それよりもまず今日のアイヌ民族の命と文化を救うべきであるという内容を,調査報告書の随所で訴えている。そして,民族と文化を守るためには,まず人びとにアイヌ文化を正しく理解してもらうことが必要であるとし,アイヌ民族の紹介に努めた。

アイヌ民族の暮らしを伝えるために出版された『蝦夷漫画』(安政6[1859]年刊)は,アイヌの人びとの生活文化を武四郎自身が描いたもので,アイヌ文化の小百科事典とも言える内容である。

また,和人がアイヌ民族の姿を正しく見つめることができれば,アイヌの人びとから学べることはたくさんあるのだとして,調査で出会ったアイヌの人びとから直接聞いた話をありのままに記した『近世蝦夷人物誌』には,3巻99話,百数十人のアイヌの人びとが実名で登場し,勇敢な姿や,親孝行な話,無理難題をつきつける役人に理路整然と立ち向かう聡明な長老の姿など,アイヌ民族の生きる姿を紹介するものであった。

武四郎はこの本の出版を試みたが,アイヌの人びとに過酷なおこないをする松前藩の役人や商人たちのことも,その実名とともにありのままに記すというスタイル(現代でいうルポルタージュ)を貫いたため,幕府箱館奉行所からは出版が許可されず,武四郎の存命中に公表されることはなかった。

現在では,『アイヌ人物誌』(松浦武四郎著更科源蔵・吉田豊訳平凡社ライブラリー423平成14[2002]年平凡社)として現代語訳がなされており,気軽に読むことができるので,多くの人びとにぜひ一度読んでいただきたいと思う。

 

武四郎の記録から

武四郎が出版した『知床日誌』の挿絵には,アイヌ民族からの訴えを聞く武四郎の姿が描かれている。

武四郎が知床地方のあるコタン(集落)を訪れると,コタンの人びとが出迎えてくれたのだが,そこには老人と子どもしかいない。そのことを長老に尋ねたところ,長老が涙ながらに訴えるという場面である。

その訴えとは,男性は択捉島へ連れて行かれて働かされ,女性は単身赴任の役人や商人たちが自分たちの好きなようにするので,村にいれば文化を伝承し,結婚して子どもを作り,親を養っていくような大切な時に,あらん限りに責め働かされ,若者がいなくなった村では狩りをおこなうこともできず,食料が不足して困窮しているのだ,というものであった。

武四郎からこの話を伝え聞いた鈴木重胤は,本当に人間の情をわきまえない行動であり誰であってもこのことを見過ごすことはできない,アイヌの人びとのことを思うと涙を流さずにはいられないと感想を寄せた。

文久3(1863)年刊行 松浦武四郎筆『知床日誌』

写真:文久3(1863)年刊行松浦武四郎筆『知床日誌』アイヌ民族の訴えを聞く武四郎。ここには,文政5(1822)年に360軒1326人が暮らしていたが,武四郎が訪れた安政5(1858)年には173軒713人しかおらず,過酷な労働や和人が持ち込んだ疫病などによって,わずか36年の間に人口が激減したことが記されている。

『知床日誌』などの紀行本には,興味をもって読んでもらうためにフィクションを加えている部分もあろうが,こうした困窮の状況は武四郎の調査記録でも随所に出てくる話である。

また,出版が許可されなかった『近世蝦夷人物誌』の,「あとがき」に添えてある挿絵には,武四郎の強い思いが込められている。

原稿を書き終えて疲れた武四郎が,壁にもたれかかってうたた寝をしていると,夢の中で,函館の料亭で商人が役人を接待している場面を目撃する。

絵の中央に扇で口元をおおった役人,右側には商人たちが並び,中央にごちそうが並べられ,左には三味線にあわせて舞う女性,まさに宴会が行われていた。しかし,さっと風が吹いて,その様子をよく見ると,並べられていたごちそうはアイヌの人びとの肉となり,内臓となり,なみなみと注がれてた酒はアイヌの人びとの生き血となり,襖に描かれた聖人君子の絵は,いつの間にか襖から抜け出し宴会の周囲を取り囲み,うらめしや,うらめしやと叫ぶアイヌの人びとの亡霊と変わっていた,そのありさまに,驚いて目を覚ますと,汗びっしょりだった,という夢である。

この挿絵は武四郎自身が描いたもので,役人や商人の非道な行為に対して痛烈な皮肉を込めたものであった。そして,「こうしたアイヌの人びとの恨みの声を私だけではなく,もっと多くの人々に知ってほしい。そう願って,私はこの本を書き終えるのである」と,あとがきをしめくくっている。

 

命を狙われてもなお

次々と蝦夷地の実情を公表していった武四郎は,松前藩への批判を容赦なくおこなったことから,当然命を狙われ,調査の妨害を受けることや,暗殺されそうになったこともあったという。

しかし,武四郎は,アイヌ民族の訴えを自分だけでなくもっと多くの人びとに伝えたいという願いから,執筆・出版活動を決して止めることはなかった。そして,こうした活動が,蝦夷地から遠く離れた江戸や京都,大阪などにいる人々が,そこにいながらにしてアイヌ民族のことを知ることができたという意味では,非常に大きな効果があったといえよう。

出版を通して武四郎が多くの人びとに知らせたかったことは,蝦夷地の地理や自然のことだけでない。そこで暮らすアイヌの人びとが,独自のすばらしい文化を持っていることや,その文化が尊重されることなく,過酷な状況におかれていることを伝えるものでもあり,アイヌ文化を正しく理解すべきこと,松前藩と商人たちがおこなう「場所請負制度」を廃止すること,幕府の「撫育同化政策」が誤りであることを一貫して訴え続けた姿勢と冷めることのない情熱には驚くべきものがある。

 

「北海道」に込められた思い

時代は江戸から明治に変わると,6度の調査による詳細な記録と地図を作った武四郎は,当時もっとも蝦夷地に詳しい人物として知られていた。大久保利通の推薦もあって明治政府に開拓使が置かれると,長官,次官につぐ開拓判官という役職に任命される。

明治2(1869)年7月,武四郎は「蝦夷地」にかわる新たな名称,国名(現在の支庁名に相当),郡名に関する案をまとめ,政府へ提出したが,道名案の一つが「北加伊道」であった。政府はこれを採用し,「北海道」と字が改められることになるが,武四郎が政府へ提出した上申書には,「カイ」とは「熱田大神宮縁起」の記述に出てくる「加伊」という名称とともに,アイヌの長老から聞いた話しに基づき,アイヌ民族を指す言葉が「カイ」であることが記されている。

つまり,「北加伊道」とは,北にあるアイヌの人びとが暮らす大地である,という先住の民であるアイヌ民族への思いを込めて考えられたものであった。

なお,当時の武四郎は,北の海の世捨て人を意味する「北海道人」という雅号を使っていたため,「北海道」という字を使うと,自分の雅号を名称にするなどおこがましいという批判が出るので,それを避けるために,「熱田大神宮縁起」に出てくる「加伊」の文字を用いたとされる。武四郎が開拓判官に登用されたことを妬む者も多かったのである。

武四郎はまた,北海道は大変広いために,郡をいくつかにまとめた国(現在の支庁に相当)と,郡の名称についても,アイヌ語の地名に基づき撰定案を考えており,地名はその土地の歴史であり,文化であるという観点から,アイヌ語地名を尊重する方針で取り組んでおり,「北海道の名づけ親」と言われる由縁はここにある。

 

政治の流れの中で

武四郎が目指していた北海道は,アイヌ民族が安心して暮らすことができる大地であった。そのためには,江戸時代にアイヌ民族を苦しめていた「場所請負制度」の廃止と商人の排除などを強く訴えたが,商人たちも自分たちの利益を守るために,長官に賄賂を送るなどして抵抗した結果,武四郎は疎外され,意見が聞き入れられることはなかった。そればかりか,政府の開拓政策は先住民族であるアイヌの人びとが長く暮らしてきた土地や生活・文化を奪い,民族としての尊厳を傷つけていくことにつながっていく。

武四郎は,長年の功績が認められ国から従五位という位を贈られていたが,開拓使を半年ほどで辞職するとともに,この従五位を国へと返上している。そこには,政府のアイヌ民族に対する政策への反発とともに,地位や名誉ではなく,アイヌの人びとを守るために力を尽くしたが果たせなかった無念な気持ちでいっぱいだったことだろう。

 

武四郎に学ぶ

今から150年前の江戸時代,武士を頂点とする社会では,すべての人びとが平等ではなく,人権という考え方は多くの人びとの心の中には芽生えていなかったことだろう。

その中で,アイヌ民族の人権を守るために力を尽くした武四郎であったが,ともすれば閉鎖的で同調を強いる社会構造の中で,彼はなぜアイヌ民族の文化を受け入れることができたのであろうか。その答えは,彼が蝦夷地へ渡るまでの間にある。

武四郎の生家は伊勢参宮街道沿いにあり,小さい頃から多くの旅人を見て,その姿に刺激を受けて育った。

そして,若い頃から全国各地を歩き,各地の文化に触れ,学者に出会い,見聞を広めることで,さまざまな考え方,価値観を受け入れることができる広い心をもつ人間へと成長していったことだろう。

アイヌ民族と出会い,異文化に触れ,受け入れることができたのも,まさにそうした経験があったからではないだろうか。

人権教育をきちんと受けてきた私たちであっても,異なる文化,価値観に出会ったとき,自分たちの文化や考え方とくらべて優劣をつけてしまうことや,表面だけで判断し,他を否定し,排除することがないとは言い切れない。

武四郎のように文化の違いを正しく理解し,異なる文化,価値観を受け入れていこうとする心,まわりに流されることなく,まっすぐにアイヌ民族の真の姿を見つめた姿勢は,現在の私たちにおいても非常に大切なことである。

 

三重県の取り組み

三重県には,「人権が尊重される三重をつくる条例」があり,目指す社会の実現のために「三重県人権施策基本方針」,「三重県人権教育基本方針」が定められ,取り組みがすすめられている。

そこには,アイヌの民族としての誇りが尊重される社会の実現を図るため,アイヌ民族がおかれてきた歴史的な経緯や差別の実態をふまえた啓発活動や人権学習の推進に努めていくことが掲げられていることをみなさんはご存じだろうか。

今,私たちが目標としていることを,150年前に一生懸命取り組んだのが松浦武四郎という人物であり,武四郎の「こころ」をぜひ多くの人びとに知っていただきたいと思う。

150年前,松浦武四郎はアイヌ民族にとってよきシサム(隣人)であった。

そして,私たちも武四郎の生き方に学び,アイヌ民族にとってよきシサムでありたい。

 

おわりに

アイヌの人びとは,現在もアイヌ語を話し,狩りをおこなうなど,江戸時代の暮らしをそのまま続けていると誤解されている方がおられるかもしれない。

しかし,私たちが江戸時代の暮らしを続けていないのと同じ様に,アイヌの人びとも江戸時代からの暮らしをそのまま続けているわけではなく,今の私たちと同じような暮らしをおくられている。

大事なことは,アイヌ文化は江戸時代に和人によって壊滅的な打撃を受け,失われてしまったものも多いということ,そうした文化・歴史を正しく知ることにある。

現在では,アイヌ語ラジオ講座や学習会などが各地で開かれ,アイヌ語を学ぶ人びとも増え,アイヌ民族が自らの文化に誇りをもち,伝統文化の継承に一生懸命取り組まれているが,そのことは,北海道だけの問題ではない。

異文化理解,他文化共生を考える時,外国の文化に対する理解だけではなく,同じ日本で暮らすアイヌの人びとの歴史と文化にぜひ目を向けていただきたいと思う。

本ページに関する問い合わせ先

三重県 教育委員会事務局 人権教育課 調査研修班 〒514-0113 
津市一身田大古曽693-1(人権センター内)
電話番号:059-233-5520 
ファクス番号:059-233-5523 
メールアドレス:jinkyoui@pref.mie.jp

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