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平成20年09月09日

三重県戦争資料館

学校生活

タイトル たこつぼ
本文 「僕は先生に命を助けてもらった。」
 突然訪ねて来た教え子に言われても、私には何の覚えもなく何の事だかわかりません。
 実は小学校三年生の時、彼は弟と二人で田圃の続く田舎道で遊んでいたところ、戦闘機の空襲にあい隠れる処なく咄嗟(とっさ)に逃げ込んだところは水路に埋まった土管、弟の尻を押し込み、彼ももぐり込んで危うく難をのがれたと言うのです。低空飛行でくる小型機の空襲は大変恐ろしく人の姿が見えると機銃掃射でねらわれるので、「飛行機の音がしてきたら早く土管にかくれるように」と言われていたので助かった。「先生は命の恩人です」と思い出を語ってくれました。
 五十年前、米国機の本土爆撃が毎日続き、勝つ事を信じて教壇に立っていた私共にも敗戦の気運が感じられるようになってきた頃
「ウ--」
 長く鳴り続ける警戒警報が響くと、大急ぎで持ち物を片づけ、防空頭巾をかぶり、通学団別に運動場に集合、走るように家へ帰りました。のびたちぎれそうになった藁草履をはき、上級生は下級生の手を引っ張って石ころの多い凸凹道をただ走るのでした。
 「ウ--、ウ--、ウ--、……」
と空襲警報が鳴り爆音が聞こえてくると、木立や家の軒下などに身を臥(ふ)せ、身動きも出来ず敵機の見えなくなるのを待つのでした。警報解除のサイレンが鳴るとやれやれ、無事でよかったと胸を撫でおろすのでした。が、家まで逃げ帰れないとき避難場所として防空壕や、たこつぼを掘らねばならなかったのです。
 幸い学校の裏には海に続く広い松林があり先ず防空壕を堀りました。丸太棒を打ち込み寄せ集めの板で土のくずれを防ぎ、杉皮で屋根を作り、大昔の住居のようなものです。少々の爆風にも耐えられるように職員の手で作りました。この壕へは天皇陛下の写真、詔勅(これらは国の祝日に式場に飾られ教育の中心で最も尊厳で大切なものとされていました)、更に重要書類を避難しました。警報が鳴ると校長先生は白い手袋をはめ、これ等を壕へ運ばれました。
 生徒の避難用の壕、それが″たこつぼ ″です。松の根、笹竹の地下茎が縦横に走る粘土質の硬いところへ直径、深さとも九十糎(センチメートル)程の円柱形の大きな穴を掘るのです。スコップ、移植ごて、バケツを持ちより、力のある五、六年生を中心にみんなで協力して一生懸命掘りました。避難の練習を繰返すうちに穴はだんだん大きくなり形を整えました。低学年と高学年の二人、膝をかがめ、身動きも出来ず時間のたつのを待つのです。こんな小さな穴が、いざと言う時の安全地帯でした。
生徒を家庭に送り届けて学校に戻った私ども教師は各教室をまわり窓を開け、(爆風の衝撃を少なくするためで、この窓ガラスには吹き飛ばないよう紙テープが張ってありました)消火用のバケツの水はいっぱい汲んであるか、砂袋、むしろ、縄はたきの用意はよいか確認してたこつぼに入るのでした。
 「‥‥B29、○○機は只今志摩半島を北上中。」
と情報が流れる時は、もう飛行機は頭上、鈍い重い爆音が聞こえ、機首を東にむけ何機もの編隊が、東海地方の軍需工場を目ざしているのが松の枝越しに見えるのでした。
 こうしたたこつぼへの避難、一斉下校が何日も続きました。食事どころではありません。誰かの救急袋に入っていたいり豆を分けて代用食としたことを記憶しています。松阪周辺の田舎ですら恐ろしい空襲をたこつぼに託したのです。
 夜の空襲のこわさは筆舌につくせるものではありません。今夜も空襲がある。真暗がりの中で行動できるように枕元に防空頭巾、救急袋をおいて、着たままのごろ寝です。地元に勤務していた私は警報が鳴ると飛び起き、すぐ学校へ走り、大事なものを壕へ移し落付かぬ気持ちでラジオを聞きながら廊下をあっちこっち見て回るのでした。
 今でもあの夜の光景が鮮明に残っているのが名古屋の大空襲です。伊勢湾を隔てたむこうから爆風が窓ガラスにビリビリと伝わり、赤い尾を引き雨のように落ちる焼夷弾が大空を真っ赤に焦がすのが見えました。人々はどうしているだろうか防空壕もたこつぼも役にたつ避難所ではないと思うと、ただ一刻も早く敵機の飛び去るのを祈るのみでした。
 何年かしてこの松林のたこつぼを訪ねてみました。まわりの土がくずれ、あちこちにそれらしい水溜りが昔の面影をとどめるのみでした。
 古希を過ぎた今、神風の助けを信じて掘ったたこつぼは、みんなの心と命をつなぐあの大戦の思い出として忘れることはできません。

タイトル 戦時下の学校生活をかえりみて
本文  私が小学校五、六年生のころ(昭和十三、四年)あちらこちらの家に「召集令状が来た。」の声を耳にするようになった。そのたびに日の丸の小旗を手に、先生に引率され、高茶屋駅まで兵隊さんの見送りにいった。村の役員の人、愛国婦人会の人、親戚の人、ホームいっぱいの人々の前で、元気いっぱいの兵隊さんの挨拶を聞き、比較的明るい気持ちで参加していた。
 しかし、ある日「叔父(母の弟)の戦死」の報を受けた。そのころはまだ戦死が珍しく、近所も大変な騒ぎであった。私は小さい頃よく遊んでもらった秀おじさんの戦死で初めて「戦争とは大変なことなんだ」との思いを深めた。
 女学校の四年間はだんだんと戦場が拡大されその後戦況は不利になりはじめた。空襲も始まった。英語の授業が廃止され、そのかわりに、教練やなぎなたの教科が新設された。空地の開墾作業にもよく動員され、手に豆を作りながら食糧の増産に協力した。学徒動員もはじまったが私達はどうにかのがれ、四年間がすぎ卒業した。
 「ほしがりません勝つまでは」の合い言葉でがんばった師範学校時代、全員寄宿舎生活で起床、廊下の拭き掃除、朝礼、朝食、登校……就寝まで、ベル、ベル、ベル……家を離れた淋しさなど味わっていられなかった。が空腹だけは辛かった。勤労奉仕作業で授業はだんだんカットされた。
 二学期からは、いよいよ授業がなくなり、作業が中心となった。農家の手伝い、学校園での食糧増産、植林、顔のうつるような薄い雑炊を食べ、お国の為と一心不乱、不平など誰も言う者はいなかった。
 やがて、とうとう私達にも学徒動員の命令がきた。夏休み返上で学校を離れ、七、八、九月の三か月間、四日市の工場で働くことになった。軍人さんの毛布のふち縫い、毎日毎日ミシンをふみ通した。私語一つなく真剣そのもの「月月火水木金金」の三か月だった。この重労働も、若さと愛国心とで乗りきれたのだと思う。
 次は高茶屋の航空機関係の工場に動員された。プロペラやベアリングを研く作業だったが、空襲のため部品が整わず、時間をつぶす事が多かった。奉仕作業の二年間が過ぎ昭和二十年三月卒業した。
 この間に兄は教育召集をうけ、京都騎兵隊に入隊、ビルマ(現・ミャンマー)に出征し、昭和十九年十月戦病死した。公報は三年ぐらいすぎてから届けられた。兄の戦死により、私の人生は大きく変えられた。
 四月、満十九才の春、国民学校訓導として香良洲尋常高等小学校へ教師として第一歩をふみだした。しかし生徒を前にしたとき、私は自分の学力の不足に後ろめたさを感じた。高等科一年女子組を担任したが、連日の空襲警報で、授業は満足に出来ず生徒は下校、防空壕の中で過ごす日々であった。
 男の先生はどの学校も二、三人だけなので、日直(日曜日の留守役)はもちろん、夜の宿直も女教師の仕事であった。
 ある宿直の夜、空襲警報が発令された。御真影の入った大きな木箱を背負い、壕に避難した。津市内が空襲をうけ、北の夜空が赤く染められた。その光景がいつまでも目に焼きつき、その夜は眠れなかった。一抹の不安を感じながらも必勝を信じていた。
 それから一か月もたたず、八月十五日を迎えた。この日全職員が召集された。十二時に玉音放送を聞くとのこと、私はいよいよ本土決戦のお言葉があるのかと思いながら、ラジオの前で直立の姿勢で拝聴した。
 ″晴天のへきれき ″とはこの事なのか。お言葉が終わっても一瞬何のことかわからなかった。「たえがたきをたえ、忍びがたきを忍び」のお声は今も耳に残っている。体中が空気のぬけたゴム風船のような脱力感に襲われた。
 永い永い戦争は終わった。
 終戦後三十六、七年たったある日、見知らぬ老婦人がこられ「墓地を一か所わけてほしい。」との申し出があった。理由は、主人は亀山の墓地に、二人の子供は津市内のある寺に、別々に眠っている、一緒にほうむりたい、との事。子供二人は津の空襲でなくなりましたと、その時の事を話された。
 「下の娘を背負い、上の娘の手をひいて、焼夷弾の降る中を人々の流れに押され逃げまわった。途中上の娘のお腹に破片があたり倒れたので、その子を横だきにし、火の中をかいくぐり、やっとの思いで郊外にのがれ、二人の子をおろした。が、背中の娘は頭にたまをうけすでに死亡、上の娘は重体、医者にも診てもらえず、薬ひとつ呑ませられず、農家の小屋のわらの上で死にました。私は子供を守ってやれず、子供が私を守ってくれたのです……」と。苦しむ我が子を前にしながら″何もしてあげられなかった、悔やんでも悔やみきれない親の気持ち ″。
 戦争は絶対になくすべきです。

タイトル 運動場が畑になった
本文  ドーンと太鼓がなると、皆一斉に鍬をふりあげる。次にドドーンとなると揃って鍬で地をうつ。全体揃わなければ駄目だ。個人の勝手は許されない。
 昭和十八年。私は旧制高等女学校の二年生であった。戦況は不利となり、食糧事情も悪化して町には栄養失調のむくんだ顔をした人が多くなった。人たちは少しの土地も耕し、線路の土手にまで南瓜をつくった。
 やがて学校の運動場まで畑とすることになったのである。全校生徒が学年ごとに、決められた時間、運動場に一列横隊に整列し、前述の太鼓にあわせた耕作となった次第なのだ。運動場は固く、礫が多く、毎日雑炊しか食べていない空っ腹にこたえた。靴もなくて裸足の女学生たちは、懸命に鍬をふるったのである。これで運動会もなくなるのかなどと、文句を言うことは絶対許されなかったし、何よりも生まれて以来、四歳で満州事変、八歳で日中戦争、十二歳で太平洋戦争と戦争以外の平和な世の中を知らず、上の命令には絶対服従の徹底した戦時教育を受けた身は、何ごともお国のため、天皇陛下の御為と、不平なんぞ言うことは考えもしなかった。
 すべて政府(おかみ)の言うことは正しく、先生の仰言ることは絶対まちがいはない。ゼッタイという言葉がさかんに使われ、私たちは絶対勝つことを信じて、炎天下ひたすら鍬をふるったのである。
 さすがに、一斉に揃って耕作するのは、運動場の部分による土地の固さの相違や、或いは個人の力の差などもあって、非能率だということになって、個人の考えで鍬は自由に使ってもよろしいが、しかし隊列は乱すな、ということになった。
 農業という科目が、新しく正規の時間割の中にくみこまれた。そして敵国の言葉である英語の時間が削られることになった。すべてのものにおいて、敵国語を使うな。日本には美しい「言霊(ことだま)」のにおう、大和(やまと)ことばがあるのだ。女学生はスカートにかわる「もんペ」をはいて、水兵服(セーラー服)の上着を着、受信機(ラジオ)の点滅器(スイッチ)を入れ、日々悪化してゆく戦局を聞いた。
 運動場は漸く畑らしくなった。みるからに痩せた畑に、痩せた白髪の先生が痩せた女学生に指揮して甘薯の蔓を植えさせた。若い元気な男先生は皆出征して、町にはいなかった。先生も私たちも百姓は始めてで、どのように薯を植えればよいのか、見当もつかなかった。肥料は糞尿。学校の便所から汲みとった糞尿を、桶に入れて天秤棒でかつぐのだ。天秤棒でかつぐ二人の背がそろってないと、桶が安定せず悲惨なことになる。私達はおそるおそる糞尿のとばっしるがかからないよう、畑となった校庭に肥をまいた。
 体育の時間は、畑の中の畔を専ら行進した。畑のすみを踏まないように、一、二、一、二と歩調をとって直角にまがらねばならない。「撃ちてしやまん、勝つまでは。」をスローガンに、神風は吹くと信じ頑張ったが、やがて勉強をやめて工場で兵器を作る動員令が下された。同年輩の男の子は少年兵などに徴集されたのである。

 クラス会

見てください あなた
これは
昭和十七年の
わたしの小学校の卒業生名簿です

カッちゃん タケシくん
死亡

五十年ぶりにひらかれた
クラス会に
彼らは童顔のままやって来た
レイテの沖からアッツ島から

木登り名人のジローさんは
十六歳になるのを待ちかねて
少年飛行兵になった

アリューシャンの海のような目の色をして
空白の卒業生名簿欄に
顔をみせる

平和のための武力とか
核の実験とか
渦まく世相に
サイパンからグァムから
幼く散った
級友たちが
足音もたてずに
やって来た

五十年ぶり

クラス会

タイトル わたしの青春前期
本文  年々戦争体験世代が減っていく。今日も平和、明日も平和で戦争はおろか平和の風化すら言われ始めた今日このごろである。
 戦後五十年。この節目に、生まれながらにして平和と繁栄の中で育った世代や戦争を知らない若者に、半世紀前の、今では想像もできない「つらい時代」があったことを戦時経験者の一人として是非知ってもらいたい。
 私たちは昭和十年に小学校に入学した。校門を入ると正面に奉安殿があった。この奉安殿に向かって最敬礼をして教室に入った。奉安殿には天皇、皇后両陛下のお写真と教育勅語が置かれていたのである。教科書は国定で「サイタ サイタ サクラガサイタ」「コイコイ シロコイ」から始まった。教育勅語をはじめ「神武(じんむ)、綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)、……」と歴代天皇名を夢中になって暗誦もした。ショックだったのは一番楽しみにしていた小学校最後の修学旅行、伊勢一泊の旅が戦雲の高まりで日帰りに変更されたこと、その時の皆んなの表情ぶりが浮かんでくる。
 希望に胸躍らせて中学校に入校したのは十六年四月、この年から学生帽が白線一本の戦闘帽になり、編上靴は鮫(さめ)皮、制服は桑の木の繊維でできた国防色。そしてその年の暮れには太平洋戦争が始まった。楽しかるべき学生生活も戦線が拡大し戦局が緊迫するにつれて、授業が減り、軍事教練や勤労奉仕が増えた。
 横文字の球技は廃止され、部活動は手りゅう弾投げ、城壁登り、銃剣術といった戦場競技一色になっていった。そんなこんなの中、忘れられないのが十九年七月、サイパン島守備隊玉砕直後の学徒勤労動員である。
 動員は桑名市内の三工場(東洋ベアリング、日立、山本鋳造)に分かれての通年動員。私たち北勢線通学組は山本鋳造の機械工場に派遣された。朝夕、七六・二センチの狭々軌の電車にすし詰めになって学校ならぬ軍需工場に通勤した。私の仕事はボール盤で航空機を組み立てる土台(丸管治具)を加工した。一日中立ちっ放しの作業だったが、付きっきりで親切に指導して下さったのは、市内上野の菓子職人の水谷さん。徴用工の方だった。眼鏡を掛けた奥の柔和なお顔が印象的だった。
 工場からは作業服も作業靴も何も支給されず学生服のままの作業のため、油と汗と挨にまみれて服は黒く光っていた。こんな状態で毎日が続き、暑さ寒さが来て、去っていった。このような単調な日々と青春の狭間を埋めてくれたのは休憩時間だった。
 広い食堂で女子学徒や女子挺身隊を遠目にしながらの異性談義、工員さんから教わった流行歌の練習、大人びた映画や俳優の四方山話等、大人社会を垣間見る楽しい時間だった。また作業終了後、汚れた手を油と磨き砂のようなもので洗い、黒い指紋が残っているのもそこそこに、ご法度の映画館へ脱線、終電車に間一髪セーフといったスリルを味わったことも。
 他方、進学期を控えての動員だったので、受験勉強が気がかりだった。それに追い討ちをかけたのが、戦時特例という名の繰り上げ卒業である。われわれ四年生と五年生が同時に卒業というので、窮余の一策で先生の助言もあり車中の時間も惜しんで本を読んだ。万葉集、新聞の社説、政府発行の「日本週報」、また吉川英治の長編「宮本武蔵」を同僚と回し読みした記憶がある。
 そんな中、やっと届いた志望校(山梨工専)からの合格通知は「入学式は未定、現在地において動員継続、追って連絡」だった。連絡があって異例の入学式を済ませたのが七月二日、四日後の甲府大空襲で校舎も寮も丸焼け、着の身着のままで帰宅。再び甲府に戻ったのは「新型爆弾使用」が報ぜられた八月十日頃だった。そして運命の八月十五日を学校の焼跡で迎えたのである。なぜか涙は出なかった。
 このように私の青春前期は終りを告げた。むりやり大人扱いされた学徒動員も。
 昭和の初めに生まれ、昭和の終りの年に還暦を迎えた私の自分史はそのまま昭和史なのである。
 昭和一ケタ世代は常に時代の波打ち際にいて、聖戦という名のもとに一片の疑念も抱かず純粋に青春のエネルギーをぶっつけ合った。それに当時、竹筒の中から丁重に取り出した開戦の詔書を隣組の常会で朗読する父、頭を垂れてそれを聞く隣組の皆さん、疑うことも反論することもなく律義にお上(かみ)を信じて生きてきた日本の庶民を重ねるのである。
 今にして思えば、ここに怖さがあった。無知の怖さである。
 それにしても、ただ一つの価値観で全員が一斉に一つの方向に動くことの恐ろしさに、教育の力の重さ大きさを改めて思うのである。
 私たちは両極端の体験をした。すなわち、「戦争」と「平和」であり「飢餓」と「飽食」であり「節約」と「使い捨て」である。まさに歴史を生きた思いである。私たちは昭和を生きて得た、平和の尊さを次世代にきちんと伝えていかなければならない。事実を加工することなく、ありのままに。

タイトル 私の受けた国民学校教育
本文  考えてみれば、私は物心ついた頃から、日中戦争、太平洋戦争と戦時下で生きてきましたから、どのような理由で戦争が起きたかも知らぬまま、これが日本の姿であると受け入れておりました。
 太平洋戦争が勃発しましたのは、私が国民学校四年生の時でした。最初の戦局は華やかな報道ばかりで、教室に張られた大東亜共栄圏構想の地図は、日の丸の旗で埋めつくされて行きました。
 「我が大日本帝國は万世一系の天皇これを統治す」のもと、神武天皇に始まって、今上陛下に至る歴代天皇の御名を一生懸命におぼえ、全員がすらすらと暗誦、教育勅語も大変むつかしい文章で、その意味も理解出来ぬまま、これまた全員暗誦しました。
 書道の書き初めは、年の始めを寿ぐ言葉が常ですが、当時は「撃ちてしやまん」、「不自由を常と思えば不足なし」などと書き、講堂に掲示をしました。
 音楽に至っては、外国語は使用しない方針で「ドレミファソラシド」が、「ハニホヘトイロハ」とあらためられました。これは私にとって、とても悲しいことでした。音楽で一番力を入れられたのが和音教育です。なんでも敵機の爆音を聞きわけるためと聞かされました。私は何故かこの時間が一番楽しみでした。そして皮肉なことに、ハーモニーの美しさを和音で学びました。
 ある日、音楽の時間に、レコード鑑賞をしました。その時先生が、そーっと流して下さったのが、スコットランド民謡の数々でした。軍歌でまみれていた私の胸はたかなりました。そのメロディの美しさは、玉手箱の様に感じられ、早くこの様な美しい音楽が、誰にも気がねすることなく聞かれる日々が来てほしいものだと、子供心に感じたものでした。外国の文化を排除した分、国語教育は徹底していました。漢字、筆順はくり返し、くり返し教わりました。文章の理解度やアクセント、作文に至るまで、大変ウエートを置いた教育でした。六年生国語「修行者と羅刹(らせつ)」で、釈迦の教え「いろはにほへとちりぬるを……」を習い文学の神髄にふれた様な気がして、文章の美しさを知りました。
 六年生になった時には、戦局は悪化の一途をたどっており、いつ日本が空襲を受けるかも知れない状況になっており、始めて修学旅行が中止されました。その頃から、軍隊式といいますか、命令は必ず復唱して行動するようになり、今迄にも増してきびしい教育になって行きました。
 全員が蚕を飼い、少しでも兵隊さんの衣服になるよう頑張りました。そして飛行機の燃料にするため、油のとれる種を播いて花を育てました。家庭では、金属類はすべて供出するように命令があり、家宝は次々と鉄砲や兵器に衣がえをして行きました。
 生徒は毎日近くの神社に参拝、兵隊さんの武運長久を祈るばかりでした。私どもは漠然とではありますが、死を考えねばならない程、心が追いつめられておりました。ある一人が言いました。
 「鬼畜米英が日本に上陸して来たらどうする。」
 「その時は、舌をかみ切ったら死ねるんや。」
そして、かむ練習をしました。その時は本当に私もそうするつもりでした。
 「日本は神国や、一大事の時は神風が吹いて日本をお助け下さる。」
誰が言ったのか、皆はそう信じていました。私も又信じていました。
 「いつ神風が吹くんや、明日か明後日か?」
けれど、空襲で家が全焼しても、原子爆弾が投下されても、神風は吹きませんでした。
 昭和二十年七月二十四日、津も空襲を受け家は全焼、それ以来沢山の方々の御厚意を受け、雨露をしのぎ、飢えをしのぎ生活をしてきました。
 終戦の日は、焦土と化した我が家で迎えました。むし暑い日で、入道雲がまるで原爆のきのこ雲のように見えました。女学校二年生の時です。家族は放心状態で、この先日本がどのように変わって行くかより、明日の食べ物の心配をしなければなりませんでした。
 戦後五十年、日本は本当に多くの方々の犠牲をもとに、平和な今があります。尊いことだと思います。もう戦争体験は私達の世代だけで結構です。私達は、今こそ声を大にして叫ばなければなりません。
 かけがえのない地球、そしてあらゆる生物を守るために、核兵器の根絶を!

タイトル わたしの国民学校時代
本文  私は、昭和十七年四月、国民学校(今の小学校)に入学した。それは、真珠湾攻撃から四か月後のことである。
 学校によっても多少異なるとは思うが、私の学校ではその頃、講堂の前方には扉があり、その奥には御真影(天皇陛下の写真)と教育勅語が入れてあった。学校では一年間に何回も式があり、その時校長先生が扉の前におもむろに進み、扉を「ギィー」と開けてそこから教育勅語の入った桐の箱を出してうやうやしく正面の机に置き、箱の中から教育勅語を出して読まれた。巻物(勅語)を出してから終わりまで先生も子供もずっと頭を下げて聞いている。鼻汁が出てきてもすすることも禁じられていたが、そんな時に限って鼻水がずるずると落ちそうになり必死でこらえていた。
 式は天長節(昭和天皇誕生日、四月二十九日)、明治節(明治天皇誕生日、十一月三日)、紀元節(建国記念日、二月十一日)等である。式にはそれぞれの式歌があり、それらは文語体の歌詞でむずかしく音楽の授業で習っても子供は何が何だか意味がわからずに歌っていた。もう大部分は忘れてしまったが、明治節の歌は「アジアの東、日出ずるところ、ひじりの君のあらわれまして……」、紀元節の歌は「雲にそびゆる高千穂の……」というような歌であった。
 また「天皇陛下」という言葉を言う時も聞く時も不動の姿勢でなければならなかった。今はテレビのニュースで天皇陛下が出てきても、ねそべったまま見ている時代であるから、当時の様子が理解できないと思うが。
 戦時中は食糧難のため、運動場は畑と変化していった。その畑にはさつまいもやかぼちゃ等が植えられた。主食はごはんではなく、おかゆ(米はほんの少し入っているか入っていないかわからない位入っているだけ)とふかしたさつまいもであった。
 今、考えるとずい分軍国主義的なにおいのする教育を受けたなと感じる。例えばクラスの中の誰かがいたずらをすると、それは連帯責任として全員が廊下に立たされた。わけもわからず長時間立たされることがあった。また農作業の時間があり、上級生と一緒に仕事をした。その時、上級生が十人位横一列に並び、先生に往復ピンタされているのを見た。私達下級生は恐怖でふるえていた。
 四年生になると「修身」という教科を学習した。この授業は学級担任ではなく校長が担当した。初めは教育勅語を習った。「朕おもうにわがこうそこうそ……」校長は大きな声をはり上げて指導してくれたが、難しくて何のことだかさっぱり分らなかった。修身の教科書を机の上に立てて腕を伸ばして持ち、姿勢は背筋を真直にと、一々うるさくしつけられ、本を開ける時も閉じる時も礼をした。
 国語の学習は、歴史的かなづかいであった。「ゐ」「ゑ」などの文字も使い、「ちょうちょう」のことを「てふてふ」と表記した。三年生頃からは文語体の教材が多かった。
 歴史的な教材は古事記や日本書紀等による神話が多く、神様が島に綱をつけて引っぱり、小さい島々を次々にくっつけてだんだん大きい島にしていくという「国引き」や、天照大神が天の岩戸の中にかくれて世の中がまっ暗になり、岩戸の前でにぎやかに踊ると天照大神が天の岩戸から出てきて明るくなったという話などがあった。
 学校へはわらぞうりをはいて登校した。雨降りの日ははだしである。そのため足洗い場が混雑した。自分のわらぞうりは自分で作った。工作の時間はわらぞうり作りである。高等科(今の中学生)の人達は米俵も作っていた。学校でわらぞうりの作り方を教えてくれるのは先生ではなく、学校近辺の農家のおじさんだった。ぞうり作りを教わると家に帰ってから、仲良しの近所の子供達がわらを持ち寄って、三々五々わらぞうり作りをした。
 食糧は勿論のこと衣類その他日常生活用品すべて兵隊さんの所に送るので一般国民は何でも倹約倹約の世の中であった。食べ物は前に述べた物の他に代用食と言ってさつまいもの茎、とうもろこしやかぼちゃ等である。子供は頭ばかり大きく、手足はやせ細り、栄養失調の子が多かった。子供達はあまりくわしい事情がわからぬまま「欲しがりません、勝つまでは」を合言葉に倹約にじっと耐えていた。
 戦時中は日本は神の国だから、負けることは絶対にないと教育されてきた。戦況を知らせるニュースも日本が勝っているような報道ばかりで敗色の濃いことは国民にはあまり知らされなかった。まして私達子供は日本の勝利を強く強く信じていた。教育の力とは本当に恐ろしいものである。
 実際に戦争を身をもって体験した私達戦中っ子、戦争の恐ろしさを肌で感じとった私達、まだまだ書き切っていない空襲や爆撃などを体験した私達が、平和への願いが強いのも当然のことであろう。

タイトル 戦後五十年の私の決意
本文  五十年前のことが、一、二年前のことの様におもい出される。「国民学校」と学校の呼称がかわった年に私は小学校に入学した。
 小学二年生の時の絵のコンクールで、日本の飛行機が相手国の飛行機をうちおとしている絵を画いて金賞をもらったことを覚えている。その当時の教育は、あらゆる場で軍国の志気をたかめるための教育がなされていた。特に唱歌の時間(現在の音楽)には軍歌と式歌ばかりであった。その軍歌の一曲に「勝ち抜くぼくら少国民……」というのがあり、小学二年生だからあまり意味もわからないままに口ずさんでいた。そういう時代だったと思えばそれまでだが、歌を口ずさむと、その当時の色々な思い出がよみがえる。
 小学校二年生の三学期に私は猩紅熱という大病にかかり、生死をさまよう状態が続いた。医学の発達していない時代だし、物の不足がちな時だったから、全快までに三か月間を要した。この時分から夜間には灯火管制が敷かれて、夜は電灯を消したり、電灯に覆いをして暗いなかで毎日を過ごした。
 警戒警報、空襲警報の知らせが入ると、病棟の人たちもみんなが防空壕に避難された。私は立って歩く体力が無く、動くことができない状態だった。看病に付き添ってくれていた祖母と私だけになり、私はこれで命は終わりかなと思った。そんな時、祖母が「私がそばにいるから、爆弾がおとされても一緒に死んでやるよ」と私をカづけてくれた事が今もはっきりと脳裏にやきついている。またそれと同時に室内は暗く窓から見える星空がきれいだったことも思いだされる。今考えるとすでになくなっている祖母のその時の気持は、私に対する愛情と世の無情さに対する気持ちがあったのではないかと思われる。
 小学校三年生の中頃から戦況がきびしくなり、若い男の先生が戦地へ出征されたので、小学校三年生の一年間だけで担任の先生が四回もかわられた。そのうち二名の先生は戦死された。その時は日本が戦争に勝ってほしいと願っていたし、必ず勝つものだと信じていた。そして米英の人達はかわいそうな人たちだな、自分は日本に生まれて本当によかったと心から思っていた。現在よく言われる、マインドコントロールだったのだと思う。
 毎日の様に爆撃機のB29が飛んでくるようになり、私達は登校しても、すぐ防空頭巾をかぶり家に帰るくりかえしだった。白色の服装は飛行機からの標的になりやすいからという理由で、国防色といって黄土色で服装のすべてを染めたために、夏でも白色のシャツは見られなかった。食べ物も自由に得られず、不足がちであり白米はもちろん麦飯もたべられなくなり、お粥やさつまいもを食べ生活した。学校の校庭や運動場も耕されて、さつまいも畠となり、私達の運動する場所もなくなった状態だった。
 小学校四年生の八月に戦争が終わったのだが、その年の四月頃から白山町へ疎開をした。戦況も益々ひどくなり、松阪も危ないだろうということで私の友達も色々な所へ疎開して、一時ばらばらになってしまった。特に小学校四年生の時は、避難訓練と、夜は空襲警報が毎日のようにあり、勉強する時間等は殆どなかった状態だった。
 広島と長崎に原子爆弾がおとされた時、その時のうわさ話では、「今後五十年~七十年位先まで草も生えないような新型爆弾」だときいて、たいへんなことだと思った。
 四年生の一学期のはじめ頃から三~四回アメリカの飛行機からビラがまかれて「もう戦争は終わる」という意味のものだったが、この時でも日本は絶対に勝つものだと信じていた。結果は敗戦ということで終戦をむかえたのだった。それから三~五年間位は本当に人の心が荒れ落ちつかなく、毎日の生活をいかにするかで追われている感じだった。当時、小学校五年生の子供ながらに、友達と衣食住で何が一番大切か、と言いあった事があった。物の無い時であり、特に毎日の食べ物が不足していたから、農家の畠から野菜の盗難があり不安な毎日を送った。担任の先生が私に職員室から弁当をもってきてほしいといわれ「弁当をかたむけない様に」といわれて不思議に思ったのだが、弁当を食べられるのをみて、お粥だったのでその意味がわかったことを覚えている。
 教料書もノートや鉛筆もない時代を経て、今日に至ったのだが、戦争のひきおこした数限りない戦場での出来事、国内でのでき事、目に見えないきず跡、筆では表現することは不可能な位数かぎりなくある。忘れてはいけないことは、当時戦争を正当化し、国民がその気持ちになっていたことはなぜだったのか、おそろしい気がする。再び、戦争をおこさない様、おきない様、人間の幸せとは何か、ということを探究しながら自分のできる事は何かを考え生きていきたいと思う。

タイトル 母と乾燥バナナと私
本文  東京都中央区越前掘二丁目四番地。隣が炭屋さん、向かいがお豆腐屋さん、通りの突き当たりが八百屋さん、下町のこの地がずっと好きでした。私の家も煎餅屋で、学校へ通うようになるまでは朝から夜遅くまで家の者が忙しそうに動きまわっていました。
 電車通りを渡ってすぐの明正国民学校へ通う小学校二年生の頃、警戒警報が鳴ると家に帰り、解除になると学校に戻ると云う日が続き、とうとう家に帰りっぱなしになるようになったある日、学校に集まり父母達に見送られてどこかに行くと云うことになりました。それが集団疎開だったのです。
 私は埼玉県の秩父へ、二つ上の兄は病弱のため長瀞へと、夏の暑い日の出発でした。大きな山門のある寺に着き、先に着いていた柳行李の荷物を整理して、その日から新しい生活が始まったのです。
 石を落すとしばらくしてから水音がこだまする様な深い井戸から、おじさんに滑車でくみ上げてもらった洗面器に半分程の水で顔を洗い、お風呂は、桶に何杯かに決められた湯で身体を洗い流しました。急ごしらえの浴室があったようでした。
 どうした原因か皆が頭にシラミを湧かすようになり、日曜日は縁側にずらり並んで、梳(す)き櫛でシラミ取りをするのが日課になりました。梳き櫛にかかってパラパラと落ちるシラミやタマゴを爪と爪で器用につぶしたものです。
 田舎なので学校も遠く、桑畑の続く道で時には艦載機の低空飛行に会い、死にものぐるいで桑畑に逃げこんで伏せたことを覚えています。
 時には、慰問のおじさん達が来て励ましてくれるのですが、集団生活は内向的な性格の子にはつらい日々で、いじめられてもじっと耐えるほかないのです。二つの長い坂道を下りた所に流れる川でおやつのさつま芋を洗いながら、向いの山を仰ぎ「あの山の向こうにお母さんがいるのかなァ」と涙したものです。裏山へ生栗を取りに行って食べたり、週一度家に手紙を書いたり、兵隊さんに慰問文を書く時は唯一楽しいひとときでした。
 そんな日々の中で母との面会の日がどれほど待ち遠しかったことか、嬉しかったことか、今でもはっきりと胸に残っています。
 切符も思うように手に入らなかったようで、面会もほんの数回でしたが、ちょっと話し込むだけで食べ物の差し入れは禁止されているのに、荷物の中からそっと乾操バナナを一、二本出して「食べよ」と云った母。兄の所に持っていったら、「妹にやってくれ」と云ったと云う。鼻をすすりながら物陰で急いで食べた乾操バナナのおいしかったこと。後に、今年二十三回忌を迎えた母とのなつかしい話の種になりました。
 家族が集まると決ってこの話が出て母の泣き笑いが始まったのです。いつもいつもお腹をすかしていたので食べるものなら何でもよかったのですが、あの時何故乾燥バナナだったのか、当時、貴重なものをどうやって手に入れたのか聞かずじまいでした。
 ほんの束の間の母との時間を終え、帰る母達を山門迄送り出す時の辛さは、云い表わしようのないものでした。「さようなら、さようなら」と皆が手を振っているのに私の姿が見えないのでキョロキョロと探すと、大きな木の陰に隠れて、溢れんばかりの涙をためて、じっと見つめていた、つれて帰りたいと母も涙した、とバナナの話が出ると決ってこの話も出るのです。
 とにかく淋しくて、お腹がすいて、帰りたくて仕方がなかったのです。でも帰りたいとは云えなかったのです。東京は夜も昼も空襲空襲で、子供の居る処ではなかったのです。
 そんな折、兄が病死し、私のホームシックは最高頂に達し一時帰宅の許可が出ました。あれほど帰りたかった思いがかなったにも拘(かかわ)らず、何となく落伍者めいた感じがして気が重かったように記憶しています。
 東京駅八重洲口から外に出た途端「ああ、来てはいけなかった」と直感しました。辺りの変りようは夜目にもはっきりとわかりました。数日後、三月十日の東京大空襲に会い、火の吹雪の中を逃げまどうはめになりました。辛うじて家族全員生きのびることが出来ましたが、心ならずもそれ以後、現在の地に移り住む事になりました。
 年月が過ぎ、折りあるごとの乾燥バナナの話も次第になつかしささえ感じるようになり、とうとう私の胸に秘めて一人母を想うこととなりました。
 あれから五十年の月日が過ぎたとは思えぬままに。

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