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平成20年09月09日

三重県戦争資料館

戦中のくらし

タイトル 昭和時代津市で最初の戦死者と女学校の頃
本文  昭和六年、当時私は小学校三年生だった。津市の目抜き通りの両側にびっしり並んだ人達、恐らく津市内の小学生は全部、そして大人の人達も、その前を粛々と進んで行くのは、○○○○○上等兵の英霊(遺骨)白い布で包まれて誰かの首から掛けられていた。写楽隊、花輪、銃を担った沢山の兵隊さんを従えて、長い長い行列だった。今でも、その時の様子は、はっきりと目の裏に焼きついている。それは、その年に起こった満州事変で、津市で初めての戦死者の市葬だった。その数日前、私達は学校で、お国の為に名誉の戦死を遂げて下さった長屋栄太郎さんに捧げるお手紙を書いた。先生から、残されたお母さんと幼いお子様が銃後を守っていられると聞いた。私はお父さんの死んだ子は可哀相やなあ、と思った。今になって考えると、これは戦死を美化し、喜んで戦地へ征(ゆ)かせる為の国策だったのだろう。その後もこういう事があったかも知れないが、記憶に残っているのはこの時だけである。
 昭和十年、女学校へ入った頃から、戦線は益々拡大していったが、それは中華民国(現在の中国)で行われていたので、内地はまだ、それ程苦しくはなかった。それでも応召される方達は次々と増え、私達は千人針を縫った。それは白い晒(さらし)の布に千個の○を付け、赤い糸で、糸結びを作るもので、千人の女の人の心が籠もって、これを胴に巻いていれば弾丸に当たらないと言われていた。召集令状が来て数日で出征される方の家族が、女学校へ依頼に見えて、私達は、廊下に並んで次々と赤い糸を結んでいった。何度もそうして私達は千人針を縫った。
 女学校の二年生の時、英語の先生のお勧めで学校の近所の、アメリカ人の宣教師のお宅で、土曜日の午後、その夫人がなさっていられたバイブルクラスへ参加させて頂くようになった。バイブルの勉強が済むと、お手製のクッキーと紅茶を御馳走になって、楽しい一時を過ごした。二人のお子様も可愛かった。私は五年生までの四年間このバイブルクラスでお世話になった。その頃から、米英との関係が日増しに厳しくなっていったが、私は英語が大好きで、将来、英語の学校へ行き、アメリカへ渡って、日米友好の架け橋になりたい夢を持っていた。
 しかし、学校の教育方針は、良妻賢母がモットーとなっていった。毎朝、朝礼で明治天皇の五箇条の御誓文、後に青少年学徒に賜りたる勅語も加わって、大声で唱えた。伝えられる戦果は、連戦連勝で、景気のよい事ばかりだった。四年生から、薙刀(なぎなた)が正課となり、早朝寒稽古の時には、水道の水が凍るので、前日からバケツヘ汲んでおいた水の表面の氷を割って、道場になっていた講堂の雑巾がけをした。勿論素足である。でも戦地の兵隊さんの事を思えば、こんな事は何でもなかった。三月十日の陸軍記念日には、乃木大将の話を聞き、五月二十七日の海軍記念日には、レコードで東郷元帥の「皇国の興廃この一戦にあり」の日本海海戦の三笠艦上での訓示を聞いた。
 私は前々からとても疑問に思う事があった。それは戦争で人を殺す事についてであった。内地で人を殺せば重い罪になるのに、戦地では敵を沢山殺せば金鶉(きんし)勲章が貰えて褒められる。敵は悪いから殺さなければならないと言うけれど、敵も人間ではないか。どうして人間同士が殺しあって、戦争をするのか、軍国主義の真っ最中で軍国少女でもあった私にも、それが不思議でならなかった。その事を作文に書いて提出した。私は職員室へ呼ばれ、受持ちでもあり、国語の先生でもあったT先生から、私も、他の人達も、心の中では、
そう思っていると思う。しかしこんな事が外部に洩れたら、貴女も貴女の家族も、又学校も、大変な迷惑がかかる。書かなかった事にして、焼き捨てましょうと言って、職員室の火鉢で燃やされた。戦争遂行の国策に反する事は大罪で、特高や憲兵の目は、内地にも光っていたのである。
 五年生まで充分な英語の授業を受けられたのは私達が最後かも知れない。日米関係は益々厳しくなり、英語は敵性語として廃止が叫ばれだした。私は希望の学校へは行けなかったが一応、進学した。そして、その年、昭和十六年十二月八日、日米開戦となったのである。私が津を離れた少しの間に、お世話になった○○○○○○○さん一家は、スパイ容疑で強制収容されてしまった。

タイトル 兵隊さん優先だったわが家の生活
本文  昭和二十年に入ると戦争は一段と激しさを増し私の住んでいた志摩の地にも軍隊が駐屯し、本土決戦が噂されるようになりました。
 軍隊は磯部町穴川の寺の下にあった公会堂に寝起きしてあちこちの山かげに防空壕を掘り始めたのです。寺から三軒目にあった私の家の倉の物は全てすみの方に片付けられ、米・麦・とうもろこしといった食糧が積み上げられ鉄砲等も運ばれて一階はまるっきり軍の使用するものとなりました。
 朝は兵隊さんが歯ぶらしを手にタオルを首にかけて二、三人ずつ次々に来ては洗顔して行きました。ですから私達家族はそれより早く起きて洗顔をすまさねばなりませんでした。そんな時、気になるのは歯ぶらしをくわえたまま、つるべで井戸水を汲み上げる姿です。「もし、あの歯ぶらしを井戸の中へでも落とされたら……」と思ったものでした。
 小さい時から「井戸神さま」として回りはいつも汚さないように教えられて来ました。しかし、軍のすることには何ひとつ口に出せなかったし、私達を守りに来てくれてるんだと思うと何も言えませんでした。そればかりか村役場の収入役だった父は何くれとよく世話をしていました。
 夕方は風呂当番の兵隊さんが来て井戸水を汲み上げて風呂を沸かしにかかるのです。何人かの兵隊さんの入浴が終り、一段落すると・竄チと私達家族が入浴できるのです。
 このようにいつも兵隊さん優先のわが家の生活でした。
 夜は時々公会堂で演芸会がありました。いつどうなるか明日のことはわからないといった戦時下で兵隊さんにとっても私達にも唯一の楽しみであったと思います。
 時には兵隊さんの家族がこっそりと訪ねて来て面会を頼むこともありました。そんな時父は座敷に上げて再会のひとときを過ごさせてやっていました。
 長男を戦死させ、また、四人の甥にも戦死され、二男は入隊後に病にかかり帰宅し療養中に死亡、四男は出征中という父にとって、こういった家族への思いはひとしおだったと思います。
 日に日に戦争は激しくなり、三月十日の東京大空襲で父の妹である私の叔母は爆死しました。
 突然サイレンが鳴り出しました。空襲警報です。もうこの頃になると毎日のように空襲警報が出されました。六秒鳴って三秒休止、六秒鳴って三秒休止をくり返し鳴り出すともうB29はすぐそこまで来ているのです。片時も肌身はなさず持ち歩いた防空頭巾をかぶり非常袋を肩に防空壕へと逃げこむのがやっとでした。B29はよく志摩半島から上陸し、日毎にその数を増し、いくつもの編隊を組んで大地が揺れんばかりの唸りを立てて、日本をあざ笑うかのように通り過ぎて行きました。しばらくして北の空に火の手が上がり赤々と燃え出しました。どうやら伊勢のようです。夜の火は近くに見えました。
 女学校三年生であった私は学徒動員として神風の鉢巻きをしめモンペ姿で軍需品の生産に明け暮れる毎日でした。
 昭和二十年八月十四日 先生から、
「明日は一日だけ夏休みにしますからゆっくり休んで下さい。正午になったらニュースを聞いて下さい。重大放送がありますから。」
とのことでした。重大放送とは何だろう。
 そして、迎えた八月十五日正午、ラジオからの玉音放送です。
 敗戦と知るや父は、
「いつあの米軍がやって来るかも知れん。軍隊に関する物は早く持ち去って欲しい。」と、その日の中に分隊長を連れて来て倉の中の物を一つ残らず公会堂へ運ばせました。
 まもなく軍隊は解散となりそれぞれ故郷へと復員して行きました。
 さあ、それからが大変です。風呂場でしらみのついた衣服です。家族全部の衣服を風呂釜に入れ湯をたぎらせて消毒しました。また、家族みんなで井戸の掃除です。長い長い梯子を作り井戸の中へ下ろして水を全部汲み出して井戸の底の掃除です。この時歯ぶらしが三、四本落ちていて、こんな水を飲んでいたのかと思ったものでした。
 軍隊が自由に出入りしていた倉には害虫が見つかり、ここも消毒して大掃除です。そして元通り使えるようにしました。
 こうして軍隊の去った後、ようやくにしてわが家が自由に使えるようになりました。時に私は十五歳でした。
 あの日から五十年の歳月が流れたのですね。もう私も六十五歳になりました。今夜もNHKの「思い出のメロデー」にあの頃が思い出されます。
 「帰り船」聞きていたれば敗戦の頃の思いのさまざまに湧く

タイトル 「行かない」と「行けない」
本文  戦後五十年、あの激しかった戦争も、往時茫々いつしか風化されて、忘却の彼方へ消え去ろうとしている。しかしながら私連戦中派は、未曾有の戦争体験のあれこれを、正しく後世に伝える責務を負っていると思う。その一つとして、私は自分達が果たせなかった「幻の修学旅行」について、記しておかなければならないと思ったのである。
 昨今の旅行ブームはまことに凄まじい。オリンピックの標語のように「より速くより遠く」快適な旅行が出来るようになり、勿論修学旅行とて例外でなく、中には外国へ行く学校もあると聞く。私達にとってはまことに隔世の感が深い。ところが、昭和十一年小学校に入学以来、旧制中学校を卒業するまでの十一年間のうち、実に九年間が戦時下にあった私達は、遂に一度もその楽しさを味わうことが出来なかったのだった。
 先日、初めて修学旅行に行く六年生の孫から、「おじいさんは修学旅行は何処へ行ったの」とか「なぜ行かなかったの」と尋ねられたが、私はしばし返答に窮した。なぜなら私達は「行かなかった」のではなく「行けなかった」のである。この「か」と「け」という、たった一字の違いの中に、一言で言えない大きな意味が含まれていることを、この幼い孫に理解させることは難しいからである。
 思うに「修学旅行に行けなかった」ということは、一つのささやかな出来ごとに過ぎないかも知れない。しかしこの事実の背後にある大きな要因、戦争の影をしっかりと説明せねばならないからである。私は今日誰しもが何の障害もなく旅行を満喫している現状を思うと、孫をも含めて戦争を知らない世代に私達が「行かなかった」のでなく「行けなかった」この真実の過程を、戦争と関連させてはっきりと教えねばならないと思ったのであった。
 ところで今年五月、私達(桑名市立第一国民学校昭和十七年三月卒業)は、実に五十三年ぶりに初めての同窓会を開催することが出来た。空襲による母校の焼失、伊勢湾台風など様々な理由から今まで行えなかったが、幹事の努力もあって、夢のような再会を果たしたのである。尽きざる懐旧談の中で、修学旅行に行けなかった無念さを語り合っていた時、突然幹事から一葉の写真が提出され、それを見た瞬間、一同は声を呑み瞠目(どうもく)し、中には涙する者すらあった。それには畝傍山を背に大鳥居の下でリュックを背負った、遠足姿の五年生の同級生が写っているではないか。これは紀元二千六百年奉祝(昭和十五年)の、日帰りで参加した「橿原神宮参拝記念」の懐かしい写真だったのである。
 一枚の写真には必ずそこに一つの歴史が刻まれている。私はこの写真を見て、単に懐かしいと一時の感傷に浸っていてはならないと思う。戦後私はこの写真に隠れている歴史の真相を知り、この写真の重大さに気づいたのである。なぜならこれこそ当時の日本の姿が判然と凝縮されている一つの証であるからだ。
 当時国民は苦しい戦時生活を強いられ、小学校も厳しい軍国主義教育を受けていた。文部省は十五年六月「交通機関の旅客制限の為見学旅行一切禁止」を各府県に通達し、事実上修学旅行を禁止していた。にも拘らず政府は日中戦争の長期化による国民生活の悪化やこの年予定された東京オリンピックや万博の中止などによる人々の不満や鬱積(うっせき)を晴らすためにも、明るい祭典を必要とし、十一月に全国民を参加させるこの紀元二千六百年祝賀行事を挙行、旗行列や提灯行列、それにこの橿原神宮参拝などへ小学生も強制的に駆り出したのであって、決して修学旅行ではなかったのであった。
 そもそも「紀元二千六百年」とはどういうことであろうか。これは昭和十五年が、あの『日本書紀』の神武天皇即位より数えて二千六百年目にあたるとされ、挙国一致、八紘一宇の大号令の下、戦意高揚の精神主義を鼓舞するための祝典を挙行したのであった。
 このような日本歴史上空前の行事に、全国民を強制的に参加させ、また東京の式典会場や橿原神宮参拝へ多数の人々を旅行させることは、既に旅行禁止をうたった政府の通達と矛盾する暴挙であり、この行事を契機として政府の専横は益々加速化し、遂に破滅の道へ突入していったのである。
 思うに現在の日本は平和そのものである。年々戦争を知らない世代は増加し、それに反して戦争の記憶は薄れつつある。戦争体験の無い人々に戦争の実態を理解させることは容易ではない。しかし私達戦争体験者は、あえて重い口を開き、かるが故に「修学旅行の中止」といった、ささやかな事実や証言なども一つ一つ看過することなく後世へ伝え、改めて戦争の悲劇と平和の尊さを教えてゆかねばならないと痛感するのである。

タイトル 苦しき時代
本文   畦を焼く人に貯金をすすめをり
 戦時中銀行の預金増強は至上命題であり、集められた金は優先的に軍需会社関係に融資させられた。
 敗戦後前記融資金は殆ど回収不能となり、大蔵省や日銀の指導によって、全国の銀行が一率九割の減資を余儀なくされた。この為五十円払込の銀行株は半額位に値下りし、永く苦難の経営が続くこととなった。
 昭和十八年三月、銀行合併によって私は木本支店へ転勤拝命、家族(妻と三人の娘)を津市に残して単身赴任、下宿生活を始めた。
 賃金統制令などがあって、月給はあまり上がらず、下宿代と家族への月々の送金に苦しい思いであった。勤めの方と言えば男子行員は召集され、補充は素人の女子ばかり職安から廻されてきた。私は支店長代理の任にあったが、多忙と心労の為か栄養失調か脚気の様な状態になった。
 昭和十九年十一月二十八日、長男出生の電話あり、お七夜を祝う為帰津、十二月七日帰任の途、尾鷲駅前にて木本行のバスを待っていた。この時これまで経験したことのない大地震が発生、次いで津浪が押し寄せ、熊野沿岸に大被害を与えることとなった。勿論バスは不通となり、翌日冬オーバーを抱え、手提げカバンを持ち、普通の革靴のまま尾鷲から矢ノ川峠を越え、飛鳥村で日を暮し、暗夜を一人評議坂を下って木本迄歩き通した。
 昭和二十年ともなると、敵機が我が本土を我がもの顔に飛翔するようになった。警報が出てしばらく熊野灘を見ていると、水平線上に豆粒程の影が現れ、次第にふくれて我らの頭上を越えて西の方へ飛んでゆくこと度々であった。
 昭和二十年七月、四日市支店へ転勤拝命、この頃心身共に疲労困憊(こんぱい)、この様な状態では満足に勤める事が出来ぬと思い、故郷(引本)へ行って新鮮な魚でもたべて、一週間位養生してくる、と疎開の大トランクを一つ持って津の家を出た。
 幸い引本には親戚筋の医者が居り、日々注射に通っていた。四、五日目であった、昨日津に大空襲があった由、早く帰ってやれとの進言に、正午頃相賀駅発上り列車に乗り、三野瀬駅にて警報発令の為上り下りの二列車が停車中、突然左方の山越えて艦載機飛来、退避の叫びに皆出口へ殺到したが、出口が狭くて中々出られない、私は通路へ伏せた。後で知ったことであるが、私の左窓際に乗っていた肥った人は機関銃が当たって即死らしく、通路に流れた血で私の白ズボンが赤く染まっていた。
 上り列車の乗客には死傷者が多く、死者は三浦のお寺に、負傷者は元の列車にて尾鷲へ逆戻りとなり、私もやむなくその列車にて相賀迄乗り叔母の家に厄介になることとした。
 一寸話は戻るが、三野瀬駅で列車を離れ退避、しばらく経ってから列車へ戻って見ると、私の座っていた席に、私の読んでいた岩波の文庫本″奥の細道″が残っている。取り上げて見ると銃弾が裏表紙へ当たって反れた跡があり、表の方はY字型に切れていた。私の身代りとして今にこの本を大切に保存している。
 その翌日、津市へ戻ったが私の借家は裏へ爆弾が落ち付近の家々と共に、屋根瓦を載せたままペシャンコになっていて、私の妻子三人共その下敷きになって無念の死をとげたものと思われた。
 私は途方に暮れた、私一人では何とも手のつけようがない、引本の兄弟達に来援をたのんだ。来てくれてやっと掘り出した女体は、妻だと思ったが、隣の娘と判り一同落胆、翌日往復切符の期限が切れるとの事で引本へ戻って行った。
 その夜、中の二人の娘を預かって貰っていた名張の親戚へ電話して助っ人をたのみこんだ。
 その夜B29が沢山来て、津の街をまるで畑に種を蒔くように焼夷弾を落とし火の海と化し、残されていた家々を焼きつくして行った。
 翌朝名張からの助っ人三人が来た時は焼野が原、私が避難していた安東のお寺迄尋ねて来てくれ、子供らも心配しているからと、久居駅迄歩き、その夜遅く名張の親戚へ着いた。遺児二人と共に私もそこでお世話になっていた頃、毎晩の様に警報が出る度毎、二児を連れて壕に入り不安な夜を過ごしていた。
 八月十五日玉音放送を聴き、これで戦争が終わったこと、これで今夜からゆっくりと眠れると安堵した。私はこの時四十才であった。
 事情を訴え名張支店勤務となり、翌年遺児の為に良き母をと願って再婚した。
  枝豆や母になじむ子なじまぬ子
 再婚前の春小学一年になる上娘を連れて、名張郊外散策した事があり、
  青き踏む母失ひし吾子連れて
 この句は当時を回想しての最近作である。

タイトル 戦雲の下で
本文  昭和二十年当時私はまだ十三才の子供で、米国が空の要塞とよんだ新鋭爆撃機B29が私の住んでいた津市にも空襲を行い、警戒警報に神経を尖らせるといった毎日でした。空襲を繰り返すB29に対して、日本は迎え撃つ戦闘機もなく、また高茶屋にあった高射砲は飛行上昇高度一万メートルを誇るB29には届かないため、大人たちの中には「もう、日本は駄目だ。戦争は負けるよ。」という人もありました。それを聞いたとき私はいつも「日本が負けるものか。絶対に負けない。もし私の目の前に敵の兵隊が現れたら竹槍で突き殺してやる!」と思っていました。
 昭和二十年初夏の頃、空襲警報が解除になったのでほっとして空を見上げたとき、遠い西の空でピカッと光ったものが私の目に映りました。何だろうと思っているとしばらく間をおいてドーンという音と共にポツンと黒点が見え、みるみるうちにこちらに近づいてきました。それが高射砲に撃墜されたB29であることに気がついたのは、ゴオーツというエンジン音が聞こえ片翼の二基のエンジンから真赤な炎と黒煙を吹いているのが見えるほど近くまできたときでした。ものすごい爆音と共に飛行機の風防ガラスの中で慌てている米兵の姿もぼんやりと見えました。あの空の要塞とよばれた敵機が墜ちていく。「万歳!万歳!」私たちは一人残らず飛び上がって連呼しました。嬉しかったのです。今の今までふさぎ込んでいた惨めな気持ちがいっペんに吹き飛んだ気がしました。その後飛行機は高度をぐんぐん下げながら東の方角に見えなくなりました。おそらく伊勢湾にでも墜落したのでしょう。
 翌日学校へ行くと、昨日のB29から二人の米兵がパラシュートで観音寺町あたりに降下したこと、そのうちの一人は怪我をして病院に運ばれたこと、残った一人は憲兵に捕まえられて大門町の憲兵隊本部で公開することなどを知りました。私は学校が終わるとすぐ大門町に急ぎました。着くと憲兵隊本部の前は既に黒山の人だかりでした。
 しばらくすると一人の憲兵将校が出てきて、「ただいまより米兵とその所持品を公開する。絶対に手出しをしてはならん。所持品にもさわってはならん。わかったな!」と命令口調で言いました。そして、本部のドアが開かれ目隠しをされて両手を後ろ手に縛られた米兵が一人引き出されてきました。人だかりの真ん中に立たされた米兵は震えているようでした。白いパラシュート、食料品と化粧品、ゴムボート等たくさんの所持品も公開されました。女の人の写真もありました。
 「米兵はぜいたくやなあ。あんなにいろんな品をもって戦争してるんか。」
 「女の写真なんか持って腰抜けめ。」
 「殺してしまえ!」
 「やっつけよう!」
 集まった人々は口々に罵り不穏な雰囲気になってきました。憲兵将校が慌てて「静かに、静かにせんか!」と怒鳴りましたが人々の興奮はおさまりません。家を焼かれ肉親を失った人々は、その責任がすべてこの米兵一人にあるかのごとく憎悪を込めて罵りました。そのうちどこからともなく石つぶてが飛んできて女の写真入れのガラスに当たりガチャンと割れました。それがきっかけとなり、一斉にあちらこちらから石が飛んできました。米兵に当たり憲兵たちにも当たりました。米兵の額からひとすじの血が流れてきました。憲兵たちは慌てて米兵を連れて建物の中へ逃げ込みました。人々はそれでも帰らず、建物を取り巻き「米兵を殺せ!」 「息子を返せ!」 「家を返せ!」と騒いでいました。
 私は米兵がだんだんかわいそうに思えてきました。たった一人で敵地に捕われ死の恐怖に晒されている。言葉は分からなくても危険が迫っていることは雰囲気でわかるだろう。私は人々の輪の中から抜け出しました。何かむなしい気がしてなりませんでした。あれほど恐れ憎んでいた米兵を自分と同じ人間として見たとき、彼を取り巻き殺そうとしていた私たち日本人の方が恐ろしいような気がしてきました。戦争とは普通の人間を狂気化してしまうのです。その日私は憂鬱な気持ちで家に帰りました。「戦争は罪悪だ」と心に叫びながら……。

タイトル 癒えぬ戦いの傷跡
本文  私が昭和十二年、郷里の山口県立徳山中学から、東京外語支那語部(現東京外大東アジア課程中国語専攻)を出て、当時の報知新聞社に入り、同社長野支局に在勤したが、ときは支那事変が始まって、戦死者が出始めていた。
 その秋のこと、長野近郊の戦没兵士の実家へ、紙上に載せる顔写真を借りに行き、未亡人から受取り、玄関を出たところ、私の背後を追うかのように、その婦人からはらわたを扶(えぐ)るような沈痛な鳴咽が起こった。私はぎくりとして足を止め、胸に泌みる悲しい衝撃を味わったのである。
 当時、戦死者の妻は〃靖国の妻″として、泣かないことにされていたが、愛する夫の遺影を新聞記者に渡し、いよいよその死が確実になったと知り、人間として当然な感情を爆発させたのであった。
 それから五十五年、音楽を専門に学んだ、出撃を前にした、若き特攻隊員二人の、あのベートーベンの名曲「月光」にまつわる感動の名映画「月光の夏」を、平成五年の秋、私は四日市市文化会館で観ていたときのこと、隣り合わせにいた七十位の婦人が、最初からしくしくしてはいたが、映画が丁度九州南の知覧という特攻基地のあったとこに、いまある隊員の遺品、遺書を展示した記念館に、同基地から出撃して、大空に散った隊員たちの遺影が、つぎつぎと写し出されたとき、突然同婦人が押し殺すように、慟哭(どうこく)のうめき声を発したのである。
 そして私に「すみません。あれが私の兄だったです。隊長でした」と謝られました。私は咄嗟(とっさ)のことで「いやどう致しまして」と答えた。なお婦人は何故か席を立たれ、入口近くにいたが、上演が終ったときは、その姿はなかった。
 私にはこの場のことが、はるか五十余年の昔、あの長野における戦争未亡人の泣き声と重なって、戦争の痕跡というものは、なんといつまでも癒されなく続き、おぞましくもこうまで、惨酷無情であるかを、改めて思い知らされたのであった。
 その後、報知はやや社運が傾き、リストラのため海外へ特派員が、出されなくなったので、昭和十五年夏のこと、私は中国と内蒙古の国境地帯に生まれた、蒙彊(もうきょう)自治政府へ転出し、同政府の巴盟公署警務庁(在厚和=綬遠(すいえん))で勤務していた。
 その翌年のこと、任務のためトラックで塞北(さいほく)の広野を走行中、行く手に一つ村落が、徹底的に打ち壊され、焼き払われて、ただ土塀や外壁だけが残る、無残な無住地となって、死の静寂の中に沈んでいる、恐ろしい光景に出会ったのである。
 これはあの日本軍の「殺し尽す」「焼き尽す」「奪い尽す」いわゆる三光作戦の一つであった。私はこのとき白昼夢のなかに、戦争の痛ましい惨劇を見た思いがして、今日に至るまで決して忘れられない。
 また日本軍が対中国共産党軍の執ようなゲリラ戦の対策として、辺境の村落を掃蕩(そうとう)し、焼き払い、無住地とすると共に、その部落民を家族ぐるみ強制連行して、貨車に乗せ、炭鉱に送り込み、労務者として酷使した。その輸送に従事したが、妻子と、僅かの寝具と鍋など持たされ、それまで平和で安穏な農民生活を奪われ、連れて行かれる彼らの気持のなかは、どんなにか悲しく不安で辛かったであろう。なお妻子ぐるみは、労務者の逃亡を防ぐためであった。
 そして戦後、あのベストセラー五味川純平作「人間の條件」が、七時間余の長編映画となったが、私はこれを二度まで観た。それはこの映画に中国人捕虜を、炭鉱で使役する過酷な場面や、その輸送などが出てくるから、私はあの中国農民の強制連行に加担した、過去に対する眞撃(しんし)な反省と限りない悔恨を反芻(はんすう)するためでもあった。
 私はその後、外務書記生として、北京大使館に転じ、敗戦は済南総領事館で迎え、在留邦人の生活と引揚業務を終えて、翌年四月、妻子四人で引揚げ、裸一貫から第二の人生を踏み出し、今日に至ったのである。
 なお、敗戦時に蒋介石総統が、全軍に対し仇を返してはならぬと、厳命を下したことが、日本の軍民に対する処遇に表われ、私の見聞の限りでは、これという報復的な仕打ちがなかったのは、あの戦犯に対する寛大な処置と併わせて心の底から感謝している。
 かくて私の青春は、十五年戦争の只中に費やされ、在華時代には筆には到底したくない出来ごとにも遭ったが、いま振り返ると、その当時、いかに軍国教育に汚染され、洗脳されていたかを、戦後の民主化を迎えて、はじめて痛いほど知らされたのである。
 そして私は戦争の歴史の事実に敬虔に学び、戦争の残虐さ非条理さ愚かさを、心から憎み排撃する決心を持つに至り、この平和な時代を、子から孫へ、いや永久に守っていきたいと、心から願い祈るものである。

タイトル 地の底で風が吹く
本文  一九四五年八月十五日。
 雲の多いむし暑い日であった。私たちはその頃、伊勢市(当時宇治山田市)から五キロメートルばかりの朝熊山の中腹に、トンネルに近い大きな壕を掘るため、憲兵隊によって強制連行されて、その作業につかされていた。連行されてきたのは、宇治山田市の近くにある、軍需工場に働いていた者の中で、病欠が目立ったり、工場の労働条件に不満をもっている者などに、一つの見せしめとして、このような現場にやらされたのだ。これらは私の働いていた工場ばかりではなく、五つぐらいの工場もこうした割当がきたのである。今の近鉄宇治山田駅前に、神都公会堂と云うのがあって、八月一日の朝、総数八十人くらいの人数が集められた。病欠をしているのだから顔色も悪い者に、「現場でスコップを握ったら元気になる。」と憲兵が叱った。私は不良工員と云うことだった。工場の待遇に文句をつけ、敗色の濃くなった日本の状況を誰かに話していたのを聞かれたのか、とにかく、有無を云わさずにトラックに分乗させられて、朝熊山の現場に連行されていったのである。沖縄戦はすでに終わり、東京、横浜、名古屋、大阪も大空襲を受け、七月二十九日には伊勢市が夜間の空襲でまだ余墟(よいん)がくすぶっていた。その頃、米軍が九州か、志摩半島に上陸すると云う噂が広がり、朝熊山の中腹に大きな壕を造ることになったのである。
 朝熊の寺などに分散していた兵隊たちは痩せこけていた。みんな無口で、暑い日盛り、裸のままツルハシで赤土の山肌を崩してゆくのだが、これが地下道になるのは何時のことやら。
 私は鉄工所にいたので、壕を支える丸太棒に打ち込むカスガイをつくる小屋にまわされた。年配の兵士と私と二人であった。フイゴでコークスを燃やし、その中に細い鉄の棒を入れ、赤くなったら金のハシで取り出し、それを鉄台の上で、私がハンマーをふるってカスガイにしてゆく作業であった。
 十五日の朝、作業にかかる前に、左腕に伝令の腕章を巻いた兵隊がやってきて、
 「今日十二時に、天皇さま直々の声でご放送があるから寺の前に集まるよう」と伝えていった。私と向い合って仕事をしている兵隊は、北海道からきた二国兵だった。正確には第二国民兵と云った。兵隊検査では甲種、乙種、丙種と分けられ、甲種は現役の入隊義務はあったが、乙種、丙種にはその義務はなかった。しかし戦局の悪化で、乙種、丙種問わず召集されていた。丙種は病弱者か、身体障害者であった。そして、「二国、二国兵」として差別されていた。右目失明の者も召集されていたのだ。「天皇は我々に励ましのお言葉をかけられるのだろう」もう四十近いその兵隊は故郷に妻と男の子二人がいると云っていた。そして日本が敗れるとは思っていないらしい。
 正午前、お寺の広場に集まったのは、私たちも含めて百人位、他の者はそれぞれ農家の庭などに集まっていたのだろう。寺の前に小さな机が置かれ四球ラジオから、正午になったら天皇の声が流れてきた。みんな頭を下げていたが、日常会話の中では聴かれない妙にもったいぶった天皇の声は、ラジオの雑音で消され、全体がつかめなかった。ただ、「堪へ難キヲ堪へ────」と云うのがハッキリ判った。空白になった頭の中を、お寺の広場で、真夏の太陽に映えているトマトの赤い鮮やかな彩りが走り抜けていった。私は天皇の放送より、そのトマトを見ていたのだ。   「負けたのか」口の中で呟いた。胸が疼(うず)いた。放送が終わってみんな意味不明の面持ちで集りを解いた。そして本当に日本が敗れたと知ったのは、食事をしながら、農家から流れるラジオの解説だった。
 「ああこれで空襲も無くなり、ひょっとしたら平和が来るかも」
率直にそう思った。しかし作業は午後からもつづいた。私の相手のその兵隊は、
「ああ俺たちは初年兵を殴れんのが損したなぁ。」
と云った。
 初年兵として相当痛みつけられたのだろう。その仕返しを短絡的に後から入ってくる初年兵に向けさせる、日本の軍隊の不当な規律に戦慄した。連絡にきた兵隊の命令で、私は出来上がったカスガイを布袋に入れて肩にかつぎ、初めて地下壕に入った。この期におよんでも、まだこのカスガイを使うのだろうか。人間の背丈もあるその壕は深く掘りすすんでいて、上から水滴が落ちていた。兵隊の持っていた懐中電灯の光が土肌を照らし、その時、さっと冷たい風が吹いてきた。土の匂いがしていた。私には、戦争と云う黒い塊を、一気に吹き飛ばしてくれる鮮烈な肌ざわりであった。私はその時二十一才、青春のただ中。

タイトル 九州へ炭坑奉仕
本文  津市で受けた爆弾や焼夷弾の空襲で命からがらの思いをしましたが、年を経て忘れ勝ちです。でも昭和十九年秋から翌年二十年一月迄の炭坑奉仕は、戦争中なればこそ女でも坑内作業に加わり、滅多に出来ない体験でしたから、五十年たった今もはっきりと覚えています。
 女子や学生が軍需工場へ徴用される戦争末期、炭坑も人手不足。私の信じる宗教からも炭坑奉仕隊が全国的に出動していました。結婚間もない私の夫にも召集令が下りましたが、結核との診断で「即日帰郷」となりました。男として兵隊に行かない事が、今の人にとって想像もつかない、肩身の狭い幸い事でした。
 炭坑奉仕の話もせめて私がお国の為にならなければと決心し、津駅を出発する時は、出征兵士の様な気持でした。何しろ、炭坑とは恐ろしい職場という偏見を持っていましたから。
 汽車が明石、舞子と汀に松が見え始めたら、窓にカーテンを下す様にと車掌さんの注意。風光明媚な瀬戸内海の海岸線を眺める事も出来ません。軍の要塞地帯だったのでしょう。
 三重県の奉仕隊は、福岡県嘉穂郡明治鉱業平山鉱業所という炭山(やま)に既に半年程前から出動し、私達は二次隊か、三次隊でした。不幸にも先の隊員の中、落盤によるものと、炭車(たんしゃ)に挟まれた事故で二名も犠牲者の出た後で弔い合戦だと意気まく隊員もありました。石炭は黒ダイヤといわれ、重要な資源でしたが、若い男はすべて軍隊にとられ、中高年の管理職と先山(さきやま)と云う技術者として特に召集を免除された者以外、軍需工場での成績が悪いと炭坑へ廻された日本人の徴用工以外は、大部分朝鮮の人でした。そんな中へ奉仕隊として行くのですから現地では歓迎され、又、今まで炭坑では女人禁制とされた坑内作業にも女子隊員が加わり喜ばれていました。
 作業は坑外と坑内に分れ、私は坑内を志願しました。やるからには厳しい仕事をと選んだのです。入坑の前、進発所で安全灯が渡されます。之が運悪く電池切れが当たり、心細い思いで坑内を一人歩き遠く迄替えて貰いに行った事があり、それからは、明るいランプが当たる様にと念じていました。キャップランプを帽子につけて被り、半ズボンの腰のベルトに電池を固定させます。服装は男女同じ、上は黒の半袖シャツ。坑内はとても暑いから、戸外で着ていた物は脱いで持って行くのです。遊園地の乗物の様な人車で斜坑を下ります。人車が天井から地下水の落ちるトンネルヘ、ゴオーツと入って行く時は、今日も無事にと必死で神様に祈らずにはいられませんでした。人車を下り、其処でエブという箕(み)の形のザルに赤土を囲めた小さな筒型の土栓(どせん)を一ぱい入れ、横長の板を打ちつけたカキ板という棒をもち、更に三百数十段の階段を下ります。弁当、坑内は暑いから大きな水筒、脱いだ衣類、腰の重い電池、その上エブを抱えて狭い急な階段を身をななめに駆け下りるのは、容易ではありません。私たちの持場(切羽(きりは))は、この炭山きって腕のいい先山と云われる日本人一人、後山は○○○○○(十五、六才の朝鮮の少年)、奉仕隊男二人、女二人、それに炭車に石炭を入れて押して行く係が、○○というひげをはやした中年の朝鮮人、計七人の仲間です。
 石炭の壁に穴を開け、マイトを仕込み、土栓をつめて、先山が導火線にスイッチを入れ大量の石炭が崩れ出すと、もうもうと炭塵の巻い上がる中へ走り込んで全員でエブの中へ石炭をかき込み、下に待ち受ける炭車の中へ樋(とい)で流し込み、一杯になると恵洲がガンガンと叩いて合図を送る。この作業を定められた出炭量を満たす迄、必死で全員が働くのです。炭塵に塗(まみ)れて、熊か狸の様な顔をお互いに笑いながら、増産日にたまに配給されるふかしたサツマ芋をほうばった時の○○○○○の笑顔。重い削岩槻を肩にのせながら、私の土栓入りのザルもさっと持ってくれるなど、無口ながら誠実な○○○○○に、共に地底で働く仲間として心が通い合う日々でした。敗戦の混乱期に○○○○○は無事に故国へ帰る事が出来たでしょうか。あのひげの恵洲さんは強制連行で来ていたのかも知れないと思うと胸が痛みます。炭坑で知り合った朝鮮の人たちを懐かしく思う事すら罪の思いにさいなまれます。たった二か月の交流でしたが、私たちを見送って○○○○○はいつ迄も手を振っていてくれました。
 石炭産業が没落し、多くの炭坑が閉山とのニュースの続いた時期、とても淋しい辛い気持がしました。地底で働く人々は皆必死でしたから。でも戦争と云う狂気の時代に生まれた小さな心の交流はウソで無い様に思います。
 何卒○○○○○が幸せな老後を送っていてほしいと、同じく老いた私は秘かに祈っています。

タイトル ひぐらし
本文  昭和二十年六月二十六日、津の最初の空襲により、わが家を含む辺り一面が全壊した。私は女学校四年生だった。動員先の工場から帰宅すると、家の位置すら定かでないくらい廃墟と化していた。
 母、弟妹達は、爆音が遠のいてから、防空壕を出て近くの小学校へ退避したそうだ。夕方、瓦礫(がれき)の中を戻ってきた家族を見たとたん、数時間の不安は、一度に消え去り嬉しかった。しかし、隣家では、「お父さんの足が無い、片方の手が出てこない」等、狂ったように叫びながら埃の中を家族が探していたことを記憶している。後日聞いた話だが、ご主人だけ壕に入られなかったそうだ。
 私達は、その夜から焼け残った家のお世話になり、数日後、一志郡の知人の二階を貸していただくことになった。出征兵士の家だった。六畳一間に、父母と私達五人の子供計七人が、生活を始めることとなる。着の身着の儘(まま)、荷物も無く生活用品はすべてお借りした。その夜「これで死ななくてよい」と家族で話し合ったことを覚えている。
 七月、津に焼夷弾の投下が続けざまにあり、見る見る空が赤く染まりゆくのを遥か見ているだけだった、ここは何処も防空壕を作ってなかった。ただあの下で逃げ惑っているであろう友人の顔・顔が、脳裏に浮かびやり切れない気持ちだった。戦戦恐恐と過ごした日々が夢のようだった。
 ラジオも新聞も無く、情報は全く不明であったが、自分の心の中で、勝つということだけは何故か確信していた。土壇場になれば神風は必然的に吹くものと思っていた。だから如何に辛いことでも克服できたのかも知れない。
 やがて、八月十五日のあの玉音放送であった。近所の家に集まり正座して聞いた。雑音のひどい上にお言葉の意味が理解し難く、まわりの人達の話をきき、終戦になったと分かった。大人達も半信半疑の様子だった。B29が飛んで来ない安堵感はあったが、その反面、失望や悔しさは、拭い去ることができなかった。当時16才の私にとって戦争は終わっても、敗けたなんて思いたくなかったから複雑な日々だった。
 小学生の頃は、兵隊さんへの慰問文を灯火管制の下で書かされ、以来軍国教育を受け育った私達の年代の者にとり、敗戦という事実を素直に受け入れるには、かなりの時間が必要だったのも無理はなかった。十代後半の若人が、特攻隊を志願した気持もよく理解できた。子供時代の教育の大切さを今更のように感じている。人間を如何様にも変えることのできる教育が魔物になったと言っても過言ではあるまい。
 ある日、近所の方が母に「娘さん等はアメリカさんに連れて行かれるか、暴行されるか、危ないから表に出さないように、山奥へ逃げる方法もある。」と言っていた。四人の娘をもつ母は心配したに違いない。十七才の姉は「男装しようか」とすら真剣な顔をして言った。しかしその不安はなかった。サイレンを聞かなくなり、モンペ、頭巾を外し、しばらくしてから確かに終戦になったのだと実感した。
 津へ戻り、バラック生活を始めるまでの三か月間ほどを、虚脱状態のまま田舎で過ごした。困ったことの一つに、そろそろ不潔と栄養失調の兆候が現れ始めたのだろうか、体のあちこちに吹き出物が出はじめむず痒くなってきたと、誰彼となく訴えはじめ出したのである。入浴は週一回程度の貰い風呂であった。が、七人の家族を抱えてかなり遠慮もあったせいか、だんだん遠のいてしまった。そこで私達は考えた未、家の近くに幸いにも、雲出川という恵まれた清流のあることに気づいた。日中は残暑があるとはいえ夕方は肌寒い日もあったが、そんなことは言っていられない。橋の上で二人ずつ見張りをし、橋の下の人目につかない処でさっと一浴びしたものだ。秋の夕暮れの川の水はさすがに冷たかった。あちこちから鳴き出しやがて競い合う蜩(ひぐらし)の声を、この時はじめて聞いたような気がした。
 毎年「かなかな」の声をきく頃となれば、あの頃心和ませてくれた雲出川のせせらぎが思い出されてならない。私達は何かにつけ、命あることを心から感謝し、明日からも生き続けようとの一念の日々だった。食べるもの、着るもの、履くもの何でもあればただそれだけで幸せと思った。九十年余の母の人生の中で、生死をさ迷った当時のことほど胸に深く刻まれたことが他にあっただろうか。毎年六月二十六日になると、母は戦災当時のことだけは克明に覚えていて話すのである。
 私達は、今日ある平和の礎となられた数多くの犠牲者のあることを忘れることなく、この平和を永久に守っていかなければいけない。二十一世紀を担う子・孫達に戦争の悲惨さを語りつぐことが、私たち体験者のなすべき義務であり、また使命であると思う。この拙文が少しでも若い方の心にとどまれば、幸いと思っている。
  山あひにしじま破りてかなかなの 一声やがて輪唱とならむ

タイトル 愛馬と私
本文  昭和二十年という年は、私にとって生涯忘れる事のない年です。
 三月三十一日朝、日当たりの悪い病室で、母は三十七才の生涯を閉じてしまいました。戦争に直接関係はなかった病死です。しかし十四才だった私は、この戦争さえなかったら母は死ななくてよかったのではと、思いつづけたのです。何故なら母はもともと丈夫な体でないのに、食糧生産、養蚕と、一年中追われづめの毎日だったのです。そして食べる物は農家であっても、大根とか、芋御飯、唯一の栄養源は、にわとりの卵と、年とったにわとりの肉ぐらいで粗食もまたお国の為と言う時でした。カ尽きて倒れても、薬すら満足にない中、やせ細り、声も出ないような母は、二才の弟、十二才の妹を姉なる私に託して旅立ちました。泣き悲しんでいる間にも、米軍機が本土に空から攻撃をかけてくる状態でした。この戦争で友達のお父さん、お兄さんが戦死され、悲しいのは私だけでないのだと、心の中に言いきかせつつも、二才の弟の無心な寝顔に毎晩まくらをぬらす私でした。
 その上私にとっては、もうひとつ辛いことがありました。農耕馬として飼っていた馬が戦争に連れていかれたのです。大きい体なのに大きい目はやさしく、おとなしい性格だった馬、そばに行き草をやり、たて髪をなぜてやると人なつっこそうな目をし、子どもの私に甘えてくるようなしぐさをする馬は私の大事な友だちでした。いろんな事を話しかけると、じつと聞いてくれるような、そんな馬は、忙しい母と会話のない私には唯一の友達であり、心のなごむひとときでもあったのです。勝手に一人ジロベーと名付けたりしていました。
 田んぼへ行く時は、荷車の荷をひかせ、私はジロベーの横に並んでたずなを持って歩き、父が後から荷車をひいてきます。大きいジロベーは歩巾がすごく大きいので、私は小走りにたずなを持っていくのです。作業が終わって帰る時は、父がジロベーの背中に乗せてくれるのです。裸の背は大きくて高くて急に自分までが大きくなったような気持ちになったものです。
 そのジロベーが戦争に連れていかれることになりました。いつも田んばに出かける時は元気にパカッと馬小屋から出て来るのに、雰囲気で察したのかその日は、元気もなくシッポもだらりとし、あの大きくて愛くるしい目には涙さえ浮かべているように見えました。それは私が泣いているためそう見えたのかもわかりません。そんなジロベーを見ていたらたまらなくなって「連れていったらあかん。連れていかんといてっ」とジロベーのたて髪にしがみついて泣く私に「泣くなっ。お国のために役立つように出て行くめでたい事なんや」と父は叱りつけ、ジロベーを曳いて行きました。そのジロベーの後ろ姿に「死んだらあかんよ。元気に帰ってきてよっ」と心の中で叫んで見送った私。ジロベーのいなくなった小屋。私の口からポッツリ出た軍歌は、
  慰問袋のおまもりを
  かけて戦うこの栗毛
  ちりにまみれた髭面(ひげづら)に
  なんでなつくか顔よせて
「愛馬進軍歌」と言う歌の一節でした。
 八月、戦争は終わって復員してこられる人々は毎日ありました。けれど私のジロベーは帰ってきませんでした。どこでどんな死にかたをしたのでしょう。映画などで見ると、砂漠のらくだのように背中いっぱい荷物をしょって兵隊さんと歩いている馬。えらかったろうな。もの言わぬ馬だから尚一層つらく思いをはせるのでした。
 去年、母の五十回忌をすませました。私は心の中で「ジロベー五十年たったな。でも私は忘れないよ」と私だけの法要をしてやりました。
 先日、娘が「おばあちゃん、六年生になる息子に今こうやって毎日しあわせな生活が出来るのは、昔たくさんの人たちの犠牲があった上での事やと話してやって。」と言いました。我儘(わがまま)な娘も子の母となり成長したなと思いつつ、孫に体験談を話しながら、つい涙の出てしまった私でした。のびのびと成長している孫たちのためにも決して二度と再び戦争などしてはならないと思うと同時に、多くの尊い犠牲のあった事も決して忘れてはならないと、老いの目に涙をあふれさせ、ペンを走らせた私です。

タイトル セピヤ色の日記
本文  古い古いダンボール箱から、顔を出したセピヤ色の日記。赤茶け黒ずんだ、大学ノートに、毎日書いた青春時代の日記。
 戦争が激しさをます昭和二十年五月から八月の中から抜き書き。(原文のまま)
五月十四日(日) 晴
 火をふいて落ちてゆくB29、五月の空に白雲がある。赤い火がずっとずっと続く。だんだん高度が下がってゆく。海へ落ちる、落ちる。落下傘が開いた。西の方に白い傘がふわりふわりとおちてくる。人が見える。
アメリカ兵だ。戦場だ。ここも戦場だ。

六月十二日(火) 雨
 真綿が泣いているやうな音をたてて伸びる。生徒たちの指は、繭(まゆ)から蛹(さなぎ)をとり出す水の中でふやけて痛む。
それでも兵隊さんのためにと、だまって作業する。

七月十九日(木) 晴
 津海岸の駅から乗った恭子や久子が、″先生警報が出てゐます″と言ふ。小型機らしい。結城さんの駅を降りて情報を聞く。
 工場の子供達はと心配だった。走った。更に走った。後に子供達もついて走った。
 親切な小母さんが「小型機ですから急いで下さい」と、声をかけて下さる。″ありがとうございます”と、又、走った。
 ″待避っ″と、男の人が叫んで前を走る。そのあとについて、鉄条網をくぐりぬけ、桑畑に入る。子供達と伏せてゐた。高射砲の音が聞こえる。空に砲焔
がたつ。ふと見ると、小型機が鈴鹿の峯あたりを飛んで行く。
 爆音の去ったのをたしかめて、頭を上げる。まだ息が荒い。桑の葉がざわざわと揺れる。子供達が動く。
 憎い米機。負けるもんか。
 水色のかわいいつゆ草をみつめて、子供達と解除のサンレンを待った朝。

七月二十四日(火) 曇(津、空襲の朝)
 敵機の爆音が、頭上で気味悪くうなっていた、と思う間もなく爆弾の落下音。大きく響く。又、又と続けざまに落ちる音。伏せてゐるその長い時間。生きてゐる。まだ生きてゐる。子供達はどうしてるだろう。
 学校へ行く。情報の分からぬまま道を歩くのは心細い。途中、火の手のあがるのを見る。空襲!!の声に走って家にもどる。けれど、やっぱり学校の事が気にかかり、呉羽橋を渡ってやっと学校に急ぐ。
 太陽が赤い。燃えてゐる赤さである。西に流れる雲は、怨みを含んでゐる黒さである。又、火の手が上がった。燃える、燃える。薄ぐもった煙が立ちこめて、目が痛い。浦風にのって流れる煙、火の粉がとぶ。
踏みつぶして走った。線路をどんどんいそぐ。
 あはれ、川沿いに眠るが如く横たわる男の人。細く開いた口元に金歯がのぞいてゐた。冷たくなったわが子をおぶってさまよふ女の人。そして、手を足を顔を、血みどろにして歩く人の群れ。泥につつまれた人、人。

七月二十八日(金) 晴(津、空襲の夜)
 津の町も灰燼(はい)と化しぬ。一夜の中に、炎々ともえる町。にくみてもあまりある米鬼の業。母をかばひつつ、父や姉と励まし合って、狭い防空壕の中にじっと耐えた小一時間。
 学校も灰と化した。奉安殿は、そのまま残り衡真影は御安泰。
 津の街の八割は、一夜のうちに灰と化し、多くの人の命を奪った。

八月十五日(水) 晴
 輝かしき我が帝国の三千年の歴史。そを今ここに悲しく水泡とせねばならぬくやしさ。ああ悲憤の涙、涙。
流々として落つる涙をぬぐふ事もせず、私は玉音をお聞きしてゐた。「朕、臣民の苦しみをみるにしのびず」
陛下はかく宣ふ。そして、世界の平和を速やかに恢復せしめんとされ給ふ。
 我等ちかって興国の為に生きぬかん。国体維持の信念を心にかたくもち、大君の為に、今また、新しき生活に進まねばならぬ。
 帝国の自存自衛と、東亜の安定を確保するの戦争目的は未だ達し得ず。
 負けるにあらず。我等正義の為に、勝利への道を進みゆくものなり。非人道なる敵米の仇、いつかうたでおくべきや。
 世界平和の日。それは十億の東亜民族の輝ける勝利の日でなければならぬ。
 最後まで、勝利の日まで、戦ひぬくとかたく誓ったあの日、今、むなしく葬られた。
 大東亜戦争、世界第二次大戦、終結の日。

 二十三歳だったあの頃の日記。セピヤ色した日記は、″戦争を二度と繰りかえしてはならぬ″ ″平和の道を歩め″と、訴えている。
 敗戦の著(し)るく立つ記の毛筆に 軍国教師の悔しきりなり

タイトル 今も地震が一番恐い私
本文  昔はなかった長島・錦間の立派な道のトンネルを抜けて「名古の浜」が見下ろせる場所に車を降りると、海と山に挟まれて今も狭い錦の町は幾重もの頑丈な堤防が海を区切り、鉄筋の目立つきれいな家々がびっしり建てこみ、湾は魚の養殖場が並んでいるが、それでもその先は広々とした太平洋に続く海がおだやかにたゆたっているのが見渡せる。あの恐ろしい東南海地震の跡かたもないいつもの美しい風景だ。
 その日昭和十九年十二月七日は冬なのに暑い位暖かい以外は何時もと同じで、私は薄着で友達の新ちゃんと観音堂の方に遊びに出ていた。突然起った地面の揺れにふらつきながら何が起きたのか驚いているだけだった。
 「えらいこっちゃ」 「恐(おとろ)っしょ-」とあちこちから飛び出してさた大人達も恐怖で顔を引き攣(つ)らせ抱き合っていただけだった。五十年過ぎた今もありあり思い浮かぶのは前に居たおばあさんのほっペたが上下に異様に動く不思議さだ。すぐ大声で「みっちゃんよ-」と捜しにきた祖母に引っぱられて家に戻ると母が「一番大事な物一つとランドセルを持って寺へ行きなっ。すぐお母さんも行くで、早よっ。」と渡された「余所(よそ)行きオーバー」を暑いけれど夢中で着た。部屋は倒れたタンス、落ちた電灯、棚から落ちた物で足の踏み場もない中にガラスケースから出た剣舞人形が水色の袴もあざやかにころがり、ハイハイ人形の可愛らしかった男の子の頭も無惨にころがっていた。
 母がちゃんと来るのかと心配しながら家に居た兄の後を追って逃げる時、向かいの家のせっちゃんのお父さんが「井戸の水が全部引いてったで津波がくるじょ-、早よ逃げよ-」と云ってくれたが、そのおじさんはとうとう来ず、亡くなってしまった。
 錦地区で一番高所の寺はもう大勢の人でごった返り、高い境内から見渡す目の前の海は映画の一シーンの様で大きくうねり、うず巻き、木や屋根だけ浮かぶ家やその上で叫ぶ人や揚がる土煙り諸共、湾内をゆっくり沖へ動いて運んでいった。大人も子供も声もなく、し-んとした一ときが過ぎると「ひ-、おらい(私の)家が流されてく-」の叫び声や子供を呼ぶ親などでパニック状態であった。
 「早い、早い、お馬しゃんみたい、おもちろい、お母しゃん、もっと走って。」とわけもわからず背ではしゃいだそうな妹をおぶって必死で寺へ着いた母は、捜し物とかで一緒に出なかった祖母が遅いと気遣っていたが、半身ずぶ濡れでやっと逃げてきた姿に安堵していた。本堂も人でごった返した。暖かかった真昼と違い冷えてきた夜は、誰が持ってきたのか不明のフトンが数枚しかなく、近所同志が四方から足を入れて寝た。「寒い、寒い」 「そんなに引っぱってくな-」と胸まで入れないフトンで大人達はきっとまんじりともしなかっただろうと思う。
 次の日誰がしてくれたか知らないけれど、たき出しがあって、二個ずつもらった小さなおにぎりが美味だった。他は物もなかった。
 昼頃から境内に津波で死亡した人達が運ばれて来だした。一番に自分の担任だった久美先生のお母さんが、口の中を土一ばいにした姿のまま筵(むしろ)に寝かされ、始めて死人を見たショックもあり、人々の後から立ちすくんでのぞいていた。次には父の弟家族の母子で従弟の「ゆ-坊」が、ピンク色の頬のまま、生きているように、これも美しい「いま叔母さん」にしっかりおぶわれて運ばれて並べられた。よく家にも遊びにきていた妹と同じ二才のゆ-坊で、その父、叔父の戦死直後であった。
 私の家はつぶれたまま屋根がふたになって中身は残っているらしいと聞いた。出征中の父は戦地で居ず、後始末に残る母と妹達に別れ、兄と共に、情報を聞くなり心配して、車もない当時の事とて夜通し歩いて食糧を持ってかけつけてくれた母の親戚に背負われて、道もない瓦礫(がれき)の中を遠く離れた三瀬谷につれていってもらった。「そこにも死人が居るで踏むな」と話す声が恐く背中にしがみついていた小学生の一年と三年の兄妹だった。
 どうにかとり出せる物を整理して母と妹が本家にきたのは半月程後で、母と大伯母が洗い干すフトンからツララが下がっていた。その後空家だった母の実家に移り、満州(中国東北部)から生き残ってきた叔母、従姉達六人も加わり六年を過ごし錦に戻った。父は終戦年の四月戦死した。
 戦争末期でもありほとんどない乏しい資料によると、錦を大方壊滅させたこの地震は全壊流出家屋四百六十五、死者六十二と記されているが定かでないそうだ。二十キロを峠で隔つ柏崎村の警防団の人に託し、町長が県に打った電報「オオツナミニテニシキゼンメツフッコウオボツカナシキュウサイコウチョチョ」の絶叫の様な文面がよく惨状を物語っていると思う。ちなみに私の一番大事な物は箱一ぱいの自作の紙人形で、母を大いに落胆させ唖然とさせたそうだ。

タイトル 彼の人に、もう一度会いたかったと思いつづけた五十年
本文  昭和十七年七月十日の朝の事でした。
 私は、野上がり休みをもらって実家に居りました。母が当時の国防婦人会で出征兵士を見送りに駅へ行って居りました。慌ただしく帰るなり「○○の○○さんの戦死の公報が入った話だった」と悲しそうな顔で、私は只呆然として言葉もなく涙もでませんでした。
 間もなく婚家から『○○戦死シタ。スグカエレ』の電報が届きました。それを見るなりいきなり涙がこみあげてきて奥へかけこみ泣けるだけ泣きました。そして父に送られて帰ってきました。お義父さんは「大変なことになりました」と伝えるなり又泣きました。ひとり息子さんを亡くされた御両親の御心中はどんなであったでしょう。
 それから、それはそれは悲しい寂しい毎日でございました。朝起きても、辺りが暗く地の中にすいこまれる思いでした。思えば九か月前、昭和十六年十月十八日に大阪の旅館で仮の式を挙げて二日間共にしたきりでした。夫は海軍の現役兵でした。その時は、親同士の話し合いで決められた事で、恥ずかしくて打ち解けた話は何も出来ませんでした。
 それから半年余り、便りのやりとりで、夫がどんなに温かい心を持ち自分に責任の強い人であることが、だんだんわかって参りました。そうして私は、いつしか心から夫をお慕いするようになって居りました。
 「四月二十二日休暇が出るから面会に来てくれるように」と便りが届き、お義父さんと出掛けるつもりで床につきました。しかし、運命の皮肉とでもいいましょうか、一夜の内に私の顔に腫れものができて目がふさがるくらい腫れてしまいました。熟もでて気分も悪く、私は泣く泣く断念してお義父さんだけ出掛けてもらったのでありました。
 そうして二十五日、夫の艦は戦地へとむかったとのことでございました。その時、夫からそれはそれは心のこもった遺書のような便りがありました。その手紙が私の支えとなったのです。しかし、その後、いくら待っても待っても便りはなく、とうとう七月十日の戦死の知らせです。何が何だかわかりませんでした。しばらくして、遺骨を迎えて『村葬式』と慌ただしくひとつきばかり日がたちました。
 落ちついてきますと私は「どうしたらいいのだろう、この先どうなるのだろう」と考えあぐねておりました。でも自分の気持ちは決まっていました。あの遺書のような手紙を無しにすることは出来ません。けれど周りの人がどう思っておられるのか色々ありました。しかし、お義父さんは「○○(通称名で本名○○)は、○○の代わりだと思うから」と言われ、○○さんの妻として入籍されました。これ以上泣いて悲しんでばかりはいられません。「ひとりきりの息子さんを亡くされて、悲しんで居られる御両親を助けて、この家を守っていかなければ」と決心致したのでございます。
 お義父さんは、体の弱い方でございました。昭和十九年二月十八日、病気のため桑名病院にて手だてのかいなくお義母さんに「○○と二人で力を合わせて、しっかりと後を頼む」と言われて静かに亡くなられたとの事でございました。それから、お義母さんと二人の生活が始まりました。

◎供米をおわりて向かう夕げのぜんに
          はほえみかわす母ともろとも
◎冬枯の風つめたくも身をさして
          ただひとすじに夫しのびつつ
◎雪しぐれ遠慮なくも我をうつ
          雪か涙か頼をぬれゆく
◎川の面に遊ぶ二羽の水鳥や
          夫のおもかげしのぶる我は
◎咲かぬまにつみとられし野辺の花
          実もなきが故に秋ぞ寂しき
◎年月は水の流れに等しけれ
          変わらぬ心は夫ぞ恋しき

 終戦から三十年の歳月が過ぎ、我が家もとても良い
後継ぎに恵まれ孫も三人生まれて、世間並みの家庭になりました。一番上の子が一月に生まれた時は、あまりにも嬉しくて……

◎初春に初孫できて嬉しさに 家族そろって初笑顔かな

 それから十年ほど、平和な月日が流れて平成三年三月二十一日、お義母さんが九十一歳で老衰のため静かにこの世を去りました。眠るようなお姿を眺めて感慨無量でした。
 「ああ、この人と過ごした五十年。長生きであったればこそ、私は今までやってこられたのだ」とつくづく思いました。今日、自分があるのは「身内を始め親戚の方々、周りの人々、たくさんの人様のおかげがあったればこそ」と今では感謝の念でいっぱいでございます。
 いつか私もこの世を去るときが来ます。その時、宿業でどんな死をむかえるかは分かりませんけれど、必ず彼の地で彼の人と会えると信じて一生を終わりたいと思います。

本ページに関する問い合わせ先

三重県 子ども・福祉部 地域福祉課 保護・援護班 〒514-8570 
津市広明町13番地(本庁2階)
電話番号:059-224-2286 
ファクス番号:059-224-3085 
メールアドレス:fukushi@pref.mie.lg.jp

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