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平成20年09月09日

三重県戦争資料館

戦後の耐乏生活

タイトル 戦後の物資不足
本文  今年もあの八月十五日が巡って来た。この平和に馴らされた私も、毎年八月になると、戦争中や戦後の苦しかった事を思い出す。
 八月十五日は滋賀県長浜市で迎えた。暑い日で珍しく、空襲もなく静かな日だった。配給のソテツのパン(ソテツの根や葉や茎を粉にしてパンにした物)を買うため行列に加わっていた。その味もそっけもない細長いパンをやっとの思いで手に入れて、家へ帰った時、父が「今から天皇陛下のお話がラジオである」と言う。家族がラジオを囲んで聴いた。小さなお声だったし、雑音ばかりで聴き取れなかった。でも戦争に負けたと知るのには時間はかからなかった。今買って来たソテツのパンをかじりながら、シヨツクで涙が止まらなかった。「この日本があんな米英ごときに負けるなんて」と茫然としてしまった。きっと日本中の人が同じ思いだったと思う。
 その夜は久しぶりに、電灯の黒い布を外した。家の中の光が遠慮なく、外に輝いていた。痩せこけた汚れた家族の顔が並んでいた。でも不安であった。これからどうなるのか分からないのである。不安は的中した。
 あの辛い物資や食糧の乏しい戦後が続いたのである。戦争中も食糧は乏しかったが、勝つためにはと辛抱も出来たが、負けてしまった今の私達には、食糧難は苦しいものだった。
 食糧も日用品も配給制だった。ごく少量の南瓜(かぼちゃ)やいもや茄子などが、隣組に配給になり、それを組長宅で組員が集って、公平に分けるのである。一匁(もんめ)でも間違いのないように分配しなければ、みんなの目が光っているのだ。こんな思いをして配給を受けても、食糧の足しにはならなかった。
 そこで道端でも土手でも川のそばでも、土のある所は耕して、南瓜やいもや豆などを植えて食糧のたしにした。よごみ(よもぎ)やおおばこなど道端に生えている草は毒でないかぎり食用にした。稲をとび回るいなごは強力なカルシユウム源だった。たにしはご馳走である。醤油も砂糖もなかった。あらめと言う海草の漬け汁に少々の塩を入れて、醤油の代わりにし、サツカリンやズルチンで甘味をつけたのである。南瓜の種をきれいに洗って乾かしてすりつぶして、ごまの代わりにした。
 大人一人二合三勺の米の配給も遅配や欠配が続いた。仕方がないので少々の米にたくさんのさつまいもの茎や大根の葉を入れて、食べた。茶碗の中の米を探すのに苦労するはどだった。幸い父が畑を作っていてくれたので、少しは楽だった。或る日父が作っていたまだ小さいジヤガイモを全部とられた事があった。其の時父は「持って行った人もきっと食べ物がなくて因っているんだろう。可哀そうに」と言った言葉が忘れられない。
 欠乏していたのは食糧だけではなかった。衣料も日用品も煙草までも配給制だった。成人した男子は吸うていても吸わなくても公平に分けるのだった。祖父は吸っていたが、父は吸わなかった。或る日組長さんが父の分の煙草を自分の物にしてしまったのである。市の職員が来て、真相を正して、大騒動になった。それ以来父は煙草を吸うようになった。笑うに笑えない話である。
 着る物もなかった。衣料切符制だった。靴下が二点、タオルが二点、服だと何十点にもなる。仕方がないので、親の着物やマントをほどいてブラウスや上着やオーバーを作った。あまり上等ではなかったが、モンペをはかなくてよいだけでも私達の乙女心は満足だった。今では考えられない事である。
 電球もなかった。三か月に一回ぐらい電気会社で売り出された。十時から売り出されるのに、暗い間から行列が出来た。たった一個の電球を手に入れるためにである。
 戦争中鉄砲を作るために、供出したので、まともな鍋釜はなかった。久しぶりで少々のもち米が手に入ったので、おはぎをを作ることになった。ごはんをつぶす時、父があまり力を入れたので、釜の底がぬけて、皆が青くなった。釜はどこにも売っていなかったからである。しばらく苦労をした事が思い出される。
 石けんもなかった。風呂へいってもただこするだけだった。しばらくして石けんらしき物が出回ったが、泡の出ない石けんであまり美しくはならなかった。
 今ありあまるはどの食べ物・便利な器具・美しくて大きな家・楽しい娯楽・きれいな服、五十年前には考えられなかった生活をしている。私は思う。あの戦争で国のためだと心から信じて、命を捧げた兵隊さん、空襲で命を落とした何百万の人たちの犠牲の上での今の生活があるのだと。子供や孫たちにはあの戦争の苦労を味あわせてはならない。
 そして戦争で犠牲になられた方のご冥福を心からお祈りして、筆をおくことにする。

タイトル 櫓を漕ぐ″かいな″は甲種合格
本文  終戦をタイ国で迎えた父が、抑留、残務整理と数々の任務を終え、帰国できたのが昭和二十一年八月の事。
 母は、せつない程に待ちこがれていた父に、
「あんた遅かったやないか、いままで何しとったんや。よその人は早うに帰ってきたのに。」
 父は、母のそばにいたあせもだらけの私を抱き上げて、
「女の子が生まれた言うてたが、汚い子やないか。」
 これが無事再会できた夫婦の、言葉だったそうです。
 この時の私は二歳でした。
 父は、出征前に働いていた愛知県の工場が戦災で焼失したのを知りましたが、途方にくれることなく、故郷である志摩半島の先端である鳥羽で漁師をしようと決心をし、再起に奮闘しました。
 夏場は鯛などの一本釣り、冬はボラ、コノシロの揚繰り漁がさかんで漁獲量のよいところです。気の強い父は、早く立派な漁師になって、家族が安楽に暮らせるようにと、人一倍頑張りました。さっそく知人から譲り受けた小舟を海に出し、しばらくは鳥羽湾内で小物釣りをしていました。装備など何もないちょろ舟を、海に向かって櫓一丁であやつり、力一杯漕ぎ、自分でさぐりあてた漁場に夜明け前にはたどり着くのです。舟が流されないように、左手で櫓を漕ぎながら、右手には希望を託した釣り糸のテグスを海に垂れる。釣り始めるころには空は白み、他の漁師がエンヤエンヤと、櫓を漕いでるのが見える。小さなちょろ舟で広い海を行くのは、根気のいる仕事、そのうえ足腰の踏んばり、腕、肩の強さが必要です。
 父のこの頃の口癖は、
「俺の体は甲種合格。お国の折り紙付きじゃよって、ちょっこらちょっとではへこたれんわい。」
 苦しい時、自分自身の体を励ましながら、初めて挑戦する漁師の仕事に、打ち込んでいきました。
 三か月がまたたく間に過ぎ、漁師たちがボラ漁の準備に追われる頃、漁業組合に入ることができました。網を二隻の船に乗せて海にでる揚繰り漁は、一本釣りとは違い、大勢の人数で一致団結をし、またそれぞれの役割があります。漁見小屋では常に潮のようす、魚群の確認をしながら、漁にでるチャンスをみる。父は先輩の漁師から、男らしく勇壮な揚繰り漁のありさまを聞くたびに、胸を躍らせたそうです。
 ゴム長靴にかっぱ姿で合図が町中を駆け巡ったのは、師走にはいりすぐのこと、
「ヤーイ、みんな出てきてくれ-、ボラやぞ-、ボラ獲りや-、ヤーイ。」
 父も身じたくを急ぎ、河岸まで叫びながら走った。
 二隻の船にはそれぞれ八丁の櫓がすえられ、ベテランの漁師たちが役割についていた。いまにも出漁というその時、櫓をかまえていた漁業組合長が、ひときわ大声で父を呼び、
「お-い、かわって櫓を漕いでくれ。」
父はそんな大役をと感激し、急いで船に飛び乗り、初めての大きな櫓に″かいな”をまわした。
「若いおまえの力で頑張ってくれ、頼むぞ。」
 組合長に背を押されたときに、何と答えたのか覚えがなく、とにかく必死で漕いだ。
 やがて鳥羽の平穏だった海は、父たち男の豪快なかけ声と、歓喜に満ちた叫びが響き、夜半に出漁したボラ獲りは、東の空が暁に輝くころまでつづいた。漁師だけでは人手不足なので、町中のおばあちゃん、子供まで河岸に集まり、捕獲されたボラの整理に追われ、一段と活気あふれてどの顔も、どの顔も皆、笑っていた。
 恐ろしくいまわしい戦争が終り、何もかも無くし、不安な生活の中での事でしたが、父や母にとっては、かけがえのない幸せな時だったと申します。
 あれから、幾たびも季節を越えて、歳月がすぎました。
 赤ん坊だった私も五十一歳になりました。今は亡き父の墓前に母と参り、母の語るつれづれ話に、まぶしさを味わいながらゆっくりとあいづちをうっています。
 現在、文明文化の発展は、とどまることなく進みますが、あの戦争を過去の一瞬の出来事ですませられません。
 戦争で苦しみ、その後は復興に努力惜しまず、頑張りつづけてきた人々のことを、忘れないで、今の世に感謝したいと思います。

タイトル 逆境の中から
本文  私は昭和八年生まれで男五人、女三人の貪乏人の子沢山の末っ子である。
 「ほしがりません勝つ迄は」 お金を出しても物の買えない時代だったので父母が工夫して兄達のお古を直してくれた物を使用した。兄が買ってくれた黒いランドセル、白いエンピツ入れ、三日月型した消しゴムは大事に大事に使った。当時は尋常高等小学校、のちに国民学校に改められた。
 空襲警報のサイレンが鳴ると急いで家に帰り防空壕に飛び込んだ。四日市、桑名の空襲は近くに火の手が上がったようでこの怖さは今も心に焼きついている。近くに小型爆弾四個投下され、中島飛行機社宅の一棟が吹っ飛んで直径五メートルの穴があいた。幸い誰一人犠牲者はなかった。川越南小学校のあたりの田んぼには不発弾、アルミ板、それをしばるハガネバンド等が散乱し、子供心にも空襲の怖さを知ったのである。
 新制中学に通う頃は少し落ちつき勉強もするが良く遊んだ。母親の残してくれた帯を利用してグローブやミツトを作り、川原で野球に夢中で家に帰るのは日が暮れる頃だった。「何時まで遊んでるのや」と親爺に怒鳴られながらも結構楽しい日々であった。私が十才の時母は過労が元で亡くなった。身体を酷使して薄倖な生涯だった。
 戦時中は考えられないことで、現在は三Kという言葉が流行し、「危険、汚い、きつい」を嫌う傾向があるが、私が野良仕事をさせられた頃は機械もなく全部労力だった。身体は小さいが力と根気とやる気だけはあった。それもこれも親爺が頑固で怖かったからである。今思うとこうした親のきびしさがあったからこそで感謝している。父は八十二才の天寿を全うし、眠るが如く往生した。元気だったころ私達に残した言葉は「食うだけなら犬や猫でも食う、食わず、着ず、寝ずに働け」と極端な衣食住の節約を説いた。真面目に贅沢しないで貯蓄を奨め、節倹は大きな収入と耳にタコの出来る程にやかましかった。
 昭和三十四年九月二十六日、私は皆に祝福されて結婚したその五か月後に幸福な家庭に大惨劇をもたらした伊勢湾台風である。天災は忘れた頃と言うが終生忘れる事は出来ない。暴風半径三百五十キロメートルという超大型だった。新婚当時は平屋建ての兎小屋からのスタートだったが私達にとってはかけがえのない愛の巣であった。会社から早めに帰宅し警防団の一員だった私は西も東も判らない妻を残し、後ろ髪を引かれる思いで朝明川の警備に当たった。風速四十メートル以上の風雨の中を五人一組になって肩を組み国道一号線朝明橋南にたどりついた。妻の安否を確かめるすべもなく高松地区は海になり屋根だけが見えた。車のライトに照らし出された人影は庭木に登った母と子の姿だった。私は思わず泥海の中へ飛び込んでいた。流木と泥油の海の中の松の木にしがみついているのは私の姉だった。乳飲み児はずぶ濡れで生きているのか確かめられない。自分一人の力ではどうする事も出来ない。とにかく手を離すことのないように励まし、姉とおんぶしている甥は同僚の応援を求めタイヤにロープを結びそれに掴(つか)まって引き上げる事が出来た。この命の恩人である松の木は当時中日新聞に写真と詳細が掲載され、一応私も感謝状をもらったのである。
 三重県災害史上空前の大きな被害で死者千二百四十六人、川越町では百七十三人、私の住む高松地区で十二人という最悪のもので海岸に近いということで高潮の恐ろしさを身にしみて体験したのである。満潮時と高潮が重なり海岸の堤防が決壊し、大惨事を引き起したのである。妻も畳がふわふわ浮き出したので外の庭木をつたって屋根に上がり棟にしがみついて居ったというが、その時の一人残された妻の気持を思うと私は公職とはいえ申し訳なく無事だった事が何よりとつくづく思うのである。たくさんの嫁入道具をこしらえて貰ったが、床上二メートルの浸水では全部泥水と石油会社から出た油で見るも無残で、手も通さない和服、洋服、帯等タンスの中に詰めこまれた娘の幸せを願った母親の心が涙を誘うのだった。
 京都から従姉妹達も毛布を持って訪ねてくれた。このご恩は何時かお返しするぞと心に誓った。一夜を明かす所は板の間にむしろを敷いてその上に毛布だけで寝る侘しさ。私達夫婦にとって伊勢湾台風程に残酷極まりない仕打ちはまたとないであろう。幸い生き永らえられた事だけが最大の幸せであるとしみじみ感じ、感謝の心を忘れてはならないと思うのである。
 備えあれば憂いなしの言葉があるが、伊勢湾台風は色々な教訓を残した。夫婦の絆をより強くしたこと、生きる勇気を与え人への思いやりがどれだけ逆境の中で尊いものか、又今は亡き親爺が生前言ってた言葉が思い出される。「水で浸かった物は乾けばもどる、火事は灰になる」
 大正の頃、村の大火事で裸一貫になった大惨事に比べるとこんな事で泣いていたら人間一生の間には山あり、谷ありという教訓がひしひしとよみがえるのである。

タイトル 少女の目
本文  この夏、わたくしは三重県から女性の海外研修交流事業として中国、北京での国際女性会議NGOフオーラムに参加させていただきました。そのおりの写真を整理していたときに上海駅での乞食の少女の淋しそうな顔を見つけました。その瞬間、わたくしの胸は衝撃を受けたようにその写真に釘づけとなりました。それは、日本の敗戦後のわたくしの姿と重なったからです。少女の写真は、研修が北京から上海へ移り、上海駅の雑踏の写真を撮りたいため、乞食の少女に小銭をやった。その時は、たったそれだけの気持ちだった。しかし写真が出来上がってみてその少女の淋しそうな、哀しそうな顔はわたくしの体験と重なるものでした。
 わたくしが昭和二十三年、小学校二年生のときに親の命令で嘘をついて学校を休みました。そして一人で半缶(一斗缶の半分)を木綿の唐草模様の風呂敷に包んで背中に担ぎ、父がメモした仕入れ値を大切にポケツトに入れて、満員電車で名古屋駅の駅裏にでかけたのです。駅裏には浮浪児、土管を住み家にしている人、バラツクの家、みすばらしい服装の人々などがうようよしている中をひたすら一キロぐらい歩くと、一角だけが戦災に焼けのこった立派な門のついたわさび漬けの製造元がありました。
 わたくしが缶を渡すと番頭さんが出てきて缶を受け取り、わさび漬けを詰めてもらっている間、たまたまそこの家のお婆ちゃんがいました。側にはわたくしと同じくらいの年ごろの女の子が、風邪をひいて学校を休んで鞠をついていました。そのお婆ちゃんは「今日は学校はどうしたの」とわたくしに問いかけました。わたくしは、子供だから電車賃が半額だし、その間に父と母は働くことができる、だから家の為に嘘を言って学校を休んできた、そう話したその時のわたくしの顔は、上海駅での乞食の少女の姿と同じであったのではないでしょうか。話し終わったときに「待っとり」とお婆ちゃんは腰を曲げながら奥へ入って黄色い小さな箱を持ってきました。それは当時、非常に高価な森永のキャラメルでした。しかも二個もありました。
「あんたは偉いなあ、これ持ってき」と言われても、貰っていいものかどうか迷っているわたくしを前にまだ手を引っ込めている手をとって「ギユツ」と握らせてくれました。
 いつも仕入れの帰りには肩に食い込み、痛いのと重いのとで何度も肩からおろしてやすみやすみに駅まで歩くわさび漬けが、嬉しさで、いつもいやだった仕入れがさほど苦でもなく感じて家へ帰りました。
 そののち、キヤラメルを貰ったことを父母にもいわず机の奥に入れて、一粒、一粒大切に、一箱の半分くらい食べたときのことです。学校から帰ったら母に呼びつけられ、わたくしの店に売っている森永のキヤラメルを盗んだのだろうと決めつけられ叱られました。その頃は家が貧しかったので、貰ったキヤラメルを親に見せたら取り上げられて、きっとわたくしの店で売られてしまうことが子供心にわかっていたからです。名古屋の駅裏は当時、危険で恐いところと言われていたのに、なぜ幼い娘を使いにやったのか疑問であったが、それでも返答がえしもせず、わたくしは恨みがこもって涙をいっぱい浮かべた目で母親を「キツ」と睨みつけていた自分を未だに忘れることができません。そのうえ、むうひとつのキヤラメルは母に取り上げられてまだ二歳の弟へ手渡され、なにもわからない弟が喜んで走り回っていた姿、その事件はわたくしの心に傷を残し、わたくしと母と弟の関係にいまだに響いています。そこまで傷あとを残すとは、その当時には思いもよりませんでした。
 その後も年老いた母をどうしても引き取ることができず、今年の初夏、病院で独り八十九歳で亡くなった母を思い出します。
 戦争と貧困は目に見えないところでまだ後遺症をたくさん残しています。北京での国際女性会議NGOフオーラム’95で出会った開発途上国の女性が熱っぽく貧困を語っていました。とぎれとぎれしか理解できなかった英語での演説でしたが、わたくしの体験と重なって胸打つものがありました。
 あの上海の乞食の少女の淋しそうな、哀しそうなまなざしをおもうたび、少女の未来がどうか幸せにと祈らずにはおられません。

タイトル 中野学校の生残り
本文  結婚後十数年たったある日、亡夫は言った。
 「もう話しても良いだろう。長い間黙っていて悪かったが、私は元陸軍参謀本部直轄特務機関員だったんだよ」
 世事にうとい私は、こう聞かされても飲みこめなかった。解説されてちょっと分かり始めたのは、陸軍は内密に諜報員を養成するための学校を作った。それが陸軍中野学校であり、夫はそこの第一期生であったらしく、卒業した後特務機関に配属されていたことがある。
 本名を名乗ることは禁じられ、偽名で通していたそうであり、私と会ったときの姓も後者であった。
 外地へスパイとして派遣された者は、戸籍から消されていたそうで、その厳しさに驚く。夫は内地にいて、外から入ってくる諜報者を探索する使命を帯びていた。
 戦後、米軍に見つかると銃殺、または戦犯とされる危ない立場であった。
 阪神の海岸に、彼等の巣とみられる、表面は工場に見せかけたアジトに目をつけ、多数でこれを襲撃した。そのとき逆に敵弾にあたり、よしの生えた海岸に、夫はかすかな息で生きていた。
 幸いにも土地の人に助けられたが、長期間本部への連絡を怠った上、機密事項に通じた点など、味方からもねらわれるかも、と、ある人が人目の届かない田舎へ行きなさいと教え、彼は歩き続けて三重県の村里にたどりついた。そして最終的には私と結婚する運命となったのである。
 「君は仏心を持って生まれてきたのか」
と私に言ったことがある。褒めすぎだと黙って聞いていたが、彼の頭の中に宗教を求める何かが流れていて、つい言葉にしたのではないかと思う。
 高級キャバレーに出入りし、日本を調べにきたスパイ達の行動を見張る任務にいた夫、仕事とはいえ、彼の指示によって、どこかへ連れ去られて消された外人も多数いたことだろう。後で考えると、罪の意識に夫は苦しんでいたのではないだろうか、と思われる節がある。宗教界に知人が多かったのもその一つであろうか。
 「私がもし米軍に見つかった場合、妻や子を巻添えにしてはいけないから、戸籍に入れなかった」
 この言葉で、結婚以来私の籍を入れない彼に、病気になる程疑った暗い日々がよみがえってくる。しかしこのときから心は晴れてきた。早速結婚届は成され、同籍となったことを喜んだのは昭和四十年である。一人娘の誕生は認知されていたので、すぐ記載されたが中学三年になっていた。
 「アメリカでは、自分に人並み以上優れた才能があれば、堂々と誇るそうや、私はユーモアが得意なところがいい点や」
と奥ゆかしい日本人に反した発言をしていた。彼はどちらかと言えば、白人好きだったのではないか。
 狩猟民族は、日本人の勇敢さに負けず劣らずの勇気の持主であることを褒めたり、芸術に秀でている長所をたたえた。日本人だけが賢くて正しいと決して言わなかったのは、歴史文科に学んだ顔がのぞいている。
 彼と結婚して、私は絶えず金の無い生活を送っていた。夫は武家の出で、そのせいか金もうけに皆目見当がつかなかったようだ。県庁で通訳が必要とか、某高校の英語教師に、と良い話はあったのに、何のかのとごまかされて断ってしまった。今思えば、彼は目立つ所へ行けなかった黒い影を背負っていたのである。
 土に親しみ、鳥や豚を飼うことに傾こうとした態度にも今は納得が行く。個性が強くてうまく世の波を泳ぎ切れなかった性格も否めない。
 私の近隣にソ連抑留生活から辛うじて生還した人がいた。留守中に貧困と病で妻が死に、自分が召されて苦労していたとき、内地の人はどうして守ってくれなかったのか、となじった。皆は欠食と恐怖の毎日だったが、と言ったものの、私は深く悔い、心の中でわびていた。
 友の一人が十代の後半に、兵役にあった人とラブレターを交わしていた。最近彼の手紙を見たが、清純そうな人で、国を思う青年の至誠が胸に迫ってくる。そのきちょうめんそうな文字に私の目は食い入った。今は亡き彼を想像し、それ故か、ずっと独身を通してきた六十余歳の彼女を見るにつけ、何年かの期間をくぐり抜けてきた、多くの人達や私は、戦争から強い影響・ッてきて、今に続いているのを感じる。

タイトル 平和をもとめて
本文  目がとび出し内臓がねじ切れる様な爆風の衝撃もおさまり、壕からはい出して初めて生きていたという実感と同時に、余りにも無残な周囲の変り様にただ呆然と立ちつくす。我にかえってけが人や死人の山を踏み越えやっと我が家へたどりついた。
 コンクリートの塀のみを残したがれきの山。その中で泣き叫ぶ妹の頭や腹部に布をあて、自分も泣きながら必死に手当てをしている母の姿。近所の人々も何か大声でわめきながら右往左往している。いつもは静かな住宅地も一瞬にして阿修羅の巷と化したあの津市大空襲。
 更に数日後の焼夷弾攻撃、その日足首切断の手術を受けた母と、頭部、腹部の爆弾破片の摘出手術を受けた妹を背負い、四~五キロメートルの山道を必死でにげた悪夢のような一夜。
 それから一週間、破傷風とわかりながらも一本の血清もなく、ただ死を待つばかりの母の苦しみ。八月八日遂に全身けいれんで一滴の水ものどをうるおすことも出来ぬまま、四十五才の一生をとじた。
 それから一週間後の八月十五日の終戦。
 私は流す涙もなくただ呆然。気が狂った様になった父をかかえ、妹達をはげましながら焼け跡の整理。拾い集めた焼け残りの木材を柱に、小さな掘立て小屋を作った。海へ行って海水を汲み、木片を燃やして煮た水の様なおかゆを、焼け跡から拾い集めた丼に注ぎ大切そうにかかえこんで食べる父の姿に何度涙した事か。
 しかし近所の人々、市(まち)中の人々も大同小異。平和な家庭が見る影もなく崩壊してしまったあの戦争の無残さ。多くの人々が死に、傷つき、家を失い、肉親を失い、一体何のために、なぜ、どうしてと自問自答の毎日。
 父や妹の看病のため家をあけられなくなった私は、母が嫁入りのためにと縫いあげてくれた僅かばかりの着物を売り、代りに買ったミシンで知人や近所の人達の洋服仕立ての仕事を始めた。夜はローソクの光でミシンを踏み細々と暮しを立てた。
 昭和二十二年復員して来た主人と知り合い結婚、ゼロからの出発で私の第二の人生が始まった。二年後に長男に、更に三年後に長女に恵まれ、貧しいながらも新しい人生に、少しは明るい光も見えて来た。
 私も近くの小学校に再就職出来て、生活の安定もいくらか目安がつき出した。然しあの戦争の悲劇はいつも私の脳裏からはなれる事はなかった。
 そんな時主人がブラジルに行こうと言い出し、ブラジルの情報調査を始めた。あれだけ戦中戦後の苦しみをたえて来たのだから、未知の国ブラジルに行っても心配ない。これからこの二人の子供をあの大国ブラジルで育て、心豊かな、そして可能性の秘められた国で育てたいという主人の切なる望みにひかされて、一九五九年六月、父母兄弟のねむる日本をあとに、二か月の航海を続けブラジルに到着した。
 以来三十六年。十才と七才で渡伯した子供も四十六才、四十三才になり、二人ずつの子供に恵まれ、平和で幸せな生活を送っている。長男はサンパウロ大学を卒業し、現在建築設計事務所を経営している。私も四人の孫にかこまれ、平和で心豊かな余生を楽しみながら、あの戦争の痛手も遠い昔の夢であった様にかすんでいる。
 そして今、日本の文化の美しさ、豊かさ、深さをつくづく感じると共に、このすばらしい日本文化を、平和をもとめて来たこの大国ブラジルに植えつけることが出来たらと大きな希望に胸をふくらませている。
 そして、まず自分がやらなければと老骨に鞭うって、茶道に華道、書道、なぎなたと、よく深くあさり出した。幸いに県より立派な三重会館をいただき、そこを根城にこの日本文化を少しでも多くの方々に知っていただき、更に深くきわめていただく足場にでもなればと張り切っている。また来る十一月五日には三重三曲協会の方々が御来伯になり、日本文化の普及と共に日伯修好百周年記念事業の一環として、サンパウロで演奏会を開催して下さる事になり、またまた私の夢が大きく花を咲かせようとしている。これを機にこの三重会館で琴の会が生まれ、美しい琴の音色が流れる日も遠くないのではないかと思っている今日この頃です。

タイトル 青木知事と我が国際家族
本文  サンパウロで生活する私と妻と母は日本人一世、子供五人の内、長男と長女は帰化ブラジル人、次女は帰化日本人で奈良市に居住、孫も一人いる。次男と三男はパラグアイ人、たった一人の一世の弟はアルゼンチンで州立病院の院長をしている医者で帰化アルゼンチン人、妻は亜国美人で子供二人に恵まれている。全くの国際家族になってしまったが、一九四五年八月十五日、私は北朝鮮咸興で国民学校の三年生だった。父は咸鏡北道の道庁の役人だったが、応召で出征し、ソロモン群島のブーゲンビル島で飢餓と戦いながら米軍に対抗していた。
 母一人子一人で、進駐したソ連軍の占領下で一年半暮らした後、在留邦人の集団引揚げで三十八度線を脱出し、米軍管理下の議政府で二か月の収容所生活の後、引揚船大隅丸で仁川港より九州の博多に引き揚げたが、二年振りに見る引揚船の大きな日章旗が眩しい程綺麗に青空にはためいていたのを、皆で感動に震えながら涙一杯で見上げていた事を今でもはっきりと憶えている。
 終戦直後の満員列車に揉まれ帰り着いた津駅前は見渡す限り一面の焼野原で、母も私も愕然として立ち尽くしていた。見当をつけて塔世橋迄歩くともう瓦礫(がれき)の中に津城の丸の内の石垣が、大きくハツキリ近くに丸見えで、他には何もない焼野原だった。お互いに生死不明で安否の判らなかった父は、幸運にも一週間前に生まれ故郷の鈴鹿市稲生町の家へ無事に復員していて、やっと面会出来た。骨と皮ばかりに痩せ衰えていたが元気そうだった。四年振りに再会する父は丸で別人の様だった。
 父の母校三重高等農林専門学校、即ち新制国立三重大学農学部に入学したが、卒業前後の昭和三十年代初めは不景気に伴う未曾有の就職難で、外地生まれ、外地育ちの引揚者の一般の傾向として狭い日本は肌に合わず、又海外雄飛を夢見た私は三重大学学生自治会内に海外移住研究会を創設しサークル活動を始める事になった。段々と同志も増え、特に三重県庁内海外協会連合会の○○○氏や○○女史には大変御世話になり、ボリビヤ、パラグアイ、ドミニカ、ブラジルの海外移民の資料等を提供していただいて展示会を開いたり、アルゼンチン帰りの○○氏や大門の○○氏等の協力で週一回のスペイン語講座を開講したり、卒業迄の二年間結構忙しくサークル活動に励んだ御蔭で、自分自身が南米パラグアイ共和国へ独立開拓自営農として渡航する事になったのは昭和三十三年の春だった。
 三月に卒業、五月に結婚、六月に移民訓練所へ入所、万全の準備を整えて神戸港よりサントス丸で出帆したのは十月の事だった。以来移住研の後輩達が実習生として来芭する様になり、○○、○○、○○氏等現在ブラジルで大活躍される事になる諸氏にトラツクターやコンバインを使用しての機械化農業を体験してもらう事になった。
 時の青木知事が移住地視察に来られたのは丁度その頃だった。故日沖海協連エ市支部長が御案内して移住地視察の際農場に来られ一泊される事になり、県民同士水入らずで歓談された方がと気を利かして、日沖支部長はジープで八十キロ離れた当時パラグアイ第二の都会であったエンカルナシオン市へ戻って行かれた。当時電話も電報も水道も無い開拓地の農場に泊まると言う事は、世間とは完全に没交渉になりラジオもテレビも何も無い別世界に置かれる事を意味していた。
 一日一杯テーラロツシヤの赤土の中を土埃を巻上げて走り回ったので、原始林の中腹に立つ我が家より谷間へ降りた湧水の流れる小川のほとりにある、ドラム缶の露天風呂に入ってもらった所、知事は山猿の鳴き声や野鳥、オウム、インコの叫び声などの交響楽の中、原始林の大木の間より見える中秋の名月を見上げながら露天風呂が気にいり大いに喜ばれた。公害の全く無い清冷な空気の澄み切った開拓地の夜空は満天の星空で、こんなに沢山の星を見たのは生まれて初めてだと感激されたが、私自身も入植当初に感嘆したもので、特に満月の夜は庭先で本が読める明るさだった。風呂より上がり日本の浴衣にくつろいだ知事は、家内が一日かけて準備した現地食を大変珍しがって喜んで食べて下さった。知事のほんのりと上気した赤い顔が室内のガスランプに照り映えて本当に幸せな楽しい語らいの時が過ぎていき、今から日本式の布団で休んでもらおうと言う時に、一キロ先の農場正門より自動車のヘッドライトが光り、向かいの谷の山腹を照らしたのはもう午前一時頃だったと思う。
 夕方エ市へ帰ったばかりの○○支部長が慌ただしく来宅されて、我々はあの有名な伊勢湾台風の発生と甚大な被害を知る事になり直ちに知事は帰国の途につかれた事だった。私も護衛がてらジープでエ市迄お送りし慌ただしいお別れをした事が昨日の様に思い出される。

本ページに関する問い合わせ先

三重県 子ども・福祉部 地域福祉課 保護・援護班 〒514-8570 
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