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平成20年09月09日

三重県戦争資料館

平和を願って

タイトル 五十年目に叶った親子の対面
本文  駅のホームに立つ一人の出征兵士と、母の背でもみじのような小さな手を振って別れを惜しんでいた親子の姿がありました。昭和十九年六月のことでした。可愛い子供のために必ず生きて帰ると誓っての旅立ちだったのでしょう。
 その時の幼な子が私です。
 あれから五十年の歳月が過ぎ去りましたが、戦後の混乱期の中で幼な子を抱えた母子の生活は、貧乏と、食糧難にたえかねて「親子心中」を何んど思ったかわかりません。
 ある日、母は四才の私の手を引いて生まれたばかりの妹を背負い「お父さんの所へいこうね」と言って近くの近鉄線路に立ちました。電車の音を目前にした時、幼い私が「お父さんが帰ってくるから家に帰ろう」と母の手を引っぱったのです。思わず母は自分をとりもどし、死ねなかったそうです。そして父の写真の前で三人はしっかりと抱きあい「いつか父が帰ってくる」と信じて、どんなことにも負けず生きぬくことを誓いました。
 その日から母と子の苦労がはじまりました。どん底の生活の中で一生懸命頑張った私達でしたが、父はとうとう帰らず、フィリピンのルソン島で戦死をとげたのです。
 そして五十年、「お父さん」と呼ぶことの出来なかった私でしたが、終戦五十年目の今年一月に父の最期の地となったフィリピンに慰霊巡拝として訪れることができました。
 「父がどんなところでどんな思いで亡くなっていったのか、一度でいいから父の眠る地に行って見たい」との念願が叶い、五十年ぶりの親子の対面を夢みて胸はずませ、
 「海山越えて 幾千里 父を尋ねて フィリピンの島へ」
と出発いたしました。
 幼い時父に抱かれた肌のぬくもりを思い出し、写真の父の顔が浮かんでは消え、頭の中を五十年間の母と妹と寂しく過ごした出来ごとが、走馬灯のように駆け抜けました。ルソン島の南部にある二千メートルの高い山「バナハオ山」のふもとに立った時、いつも消えることがない霞が消え、山頂がくっきりと姿を見せました。父が成長した私をしっかり見ようと姿を表わしたのだと思いました。
 「お父さん、やっと会いにきました。つらかったでしょう。ひもじかったでしょう。今日はふるさとの水も、我が家のお米も持ってきました。思う存分食べて下さい。飲んでください。」と父の大好物を並べました。
 「こんな遠いところで家族のことを思ったら死にたくはなかったでしょう。どんなにか日本へ帰りたかったでしょうね。」
 父への思いは限りなく浮かんできます。
 私は家族のこと、五十年の思いを次から次へと話かけました。そして慰霊の誠を捧げました。
 たくさんの線香の煙が、やしの木の中を通り抜け「バナハオ山」へ消えて行きます。山の高さ、大きさは父達が戦った時と変わってはいないでしょうが、父の姿はどんな形となって、どんな魂となって、眠っているのか、父の姿をさがし求めて、私の肩に乗せなつかしの日本へ、家族のもとへ連れて帰りたいと思いました。
 長い間、父に逢いたい、「お父さん」と呼んでみたい、父子の生活がしてみたかった、と五十年間の苦労の数々が一度に胸にこみあげ、山に向かって大きな声で、長い間呼ぶことのできなかった「お父さん!」と思いきり何度もさけびました。
 父も故郷を想い何度か口ずさんだであろう、なつかしい唱歌「ふるさと」を大きな声で、ジャングルに向って届けとばかり歌いましたが、父が祖国に残した私達親子のことを思ってこの歌を唱ったのだと思うと、始めて父と一緒に合唱しているような気がして声がつまり、流れる涙をどうすることもできませんでした。
 父もやっと我が子と対面でき、家族が力を合わせ、歯をくいしばってりっぱに生き抜いたことが確かめられて、これで安らかに眠れることと思います。
 戦後五十年、四才の幼な子が、五十四才になるまで父を思い、多難の人生を歩みましたが、五十年ぶりにしっかり親子の対面ができ、「父と子」として一層固い絆(きずな)で結ばれることができました。

タイトル この秋・五十年
本文  今年の夏は、ことさらに暑さが厳しかった。その夏が過ぎ、庭先に秋桜(コスモス)の揺れ咲く頃、私は五十才の誕生日を迎えた。五十年-何と長く生きてきたことか。そしてまた、何と疾く過ぎ去った歳月であったことか-。
 五十年前、私の父はフィリピン・レイテ島でその命を国に殉じた。私が生まれて半年も経っていない。私誕生の知らせの便りを受けとった父からは、よろこびの便りと共に、多額のお金が送られてきたという。しかし、命名を知らせる便りは父の元に届いたかどうか-。おそらく届いていないであろうそのうちに、父は若い命を終えた。日本は絶対に勝つと信じて果てていったのか、それとも敗戦の近いことをうすうす感じとっていたであろうか。父の心を思うとき、せめて、「自分達がここで命を落としても、そのことによって日本は勝てる。父母や妻や子の暮らしは安泰となる」と信じていてほしかったと思う。そうでなければ何のために若い命を捧げたのか、その意味すらも余りに悲しくむなしいものになってしまう。
 私の五十年の歳月の後ろには、いつもそんな亡き父の私への思いと、父亡きあと、私のためにひたすら生きてきた母の姿が重なって在る。夫を戦いに亡くした母に残されたものは、ひとり息子を失って悲しみにくれる夫の両親と、忘れ形見の赤ん坊の私であった。娘時代を自由に幸せに生きてきた母は、その後を今日まで、父との恋愛時代や短かった結婚生活の思い出と、父と交わした「子供がいたら子供のために生きてやってほしい」という約束を守ることだけを心の支えに生きてきた。軍人であった父は、元より戦死は覚悟の上であったろうし、母もそれを承知し、心得てはいたであろうけれど、そんなに早く別れがこようとは思ってもみなかったであろうし、現実にその時が目の前に来てしまった悲しみは、どんなにか大きかったであろうと思う。
 戦いの終わった後も、夜半にコツコツと革靴の音が聞こえてくると、もしかしたら帰ってきてくれたのではないかと思わずふとんの上に座し、通りすぎてゆく足音を悲しく耳で追ったという母。その時の母の胸中を思う時、私は今も胸が痛むのである。
 七十五才になった母-。年老いた今も、母の胸の奥深くには、永い歳月を超えてなお鮮やかに父が生きている。美しいと思う。

 私が小学生の頃、母は保母の資格に挑戦、見事、一度で合格して保母の職に就いた。私をことさらに厳しく育てながら、いつの時も私に父を忘れさせなかった。「この洋服はネ、お父さんが買ってくれたのよ。お父さんからいただいたお金で買ったのよ」「学資もお父さんがちゃんと出して下さるから、心配しないで勉強してネ」……。わずかに国から戴く父の恩給を、母は私にこんな風に話した。いつも計画性を持ってわずかずつでも貯金をし、私にまとまったお金が必要な時は、「お父さんからネ」とポンと出してくれた。おかげで決して贅沢は出来なくとも、私は十分満足のいく子供時代、学生時代を過ごすことが出来たのである。母は偉かったと思う。

 私は戦争の痛手をこうした形で覚えている。しかし、実際に戦争を知っている訳ではない。ましてや自分の子供を含む今の若者の心には、戦いの影などありはしない。五十年前に終わったあの戦争の悲惨さは、時の流れと共に風化し、忘れ去られようとしている。
 「時の流れ」の仕業-それはある意味では幸せなことかもしれない。が、見方を変えれば再び恐ろしい出来事に結びついていってしまう可能性もないとは言えまい。国や民の幸せを、自分の命を捧げることによって守れると信じて果てていった父のような人達の思いや、残されて家を守り、国を建てなおそうと辛酸をなめつくしながら懸命に生きてきた母のような人々の生き様は、どんなに時が流れ世代が変わっても、忘れてはならないと思う。語り継いでゆくことの大切さを痛感する。


 -あと、いのちの残りはどれ程あろうか。父の倍も生きてきた今の私。手元にあるささやかな幸せの中に喜びを見出しながら、これからも日を加え歳を重ねてゆくであろう。そして、命終えたら、天国の父との初対面が待っている。その時どんなことを話そうかと考えてみる昨今である。

タイトル 祖母の体験した戦争
本文  私は昭和四十年生まれですから、戦争はもちろん知りません。三年前こちらへ嫁いで、今一歳六か月になる男の児がありますが、生家の祖父が戦死していますので、毎年八月十五日が巡ってくる度に、私が高校生の頃、里の祖母から聞かされた「悲しい戦争の体験」を思い出して、ジーンと来るものがあります。その里の祖母の話を書いてみます。
 祖父(祖母の夫)は独身のとき、上海事変にも召集になり、五十日程上海に行ったことがあったそうです。この時代は召集令状が来ないと肩身の狭い思いをする時代だったので太平洋戦争が始まっても、召集の掛かるのが遅かった祖父は、毎日毎日、今か今かとその日を待っていたそうです。
 その祖父に運命の日、昭和十八年九月七日の午後九時頃、当時の村役場の人が令状を持ってきたそうですが、祖父は少しも慌てず祖母や両親に落ち着いて「とうとう番が回ってきたわ。四日後に敦賀へ入隊する。後のことは頼む。」といって翌日から出征の準備にてんてこまい。この四日間と言うもの、祖母はどんな心境だったのでしょうか。「行かんといて」そう大声で叫びたかったんじゃないのかな。でもお国のために戦いに行くのだからって祖母は自分自身に言い聞かせていたのかも知れません。
 そしていよいよ出征の日、「うちのことは両親が若いから心配しないが、おまえが弱いから留守中に無理をしたらいかん。」と、くれぐれも祖母に念を押して家を後にしたそうです。このとき、祖母の頭の中には「きっと帰ってきてくれる」という気持ちが半分、「考えたくないけれど、もしかしたら駄目かも知れない」という思いが半分あったそうです。
 それから十日余り経ったら「面会が許されたので、来れたら来てほしい」という手紙が届いたので病気の祖母に代って父(私の曾祖父)が敦賀へ面会にいったら、「腰から上に被る蚊帳(かや)が支給されたから、どうも暑いところへ行くらしい。」と言うだけの情報で、その後は何の便りもなく、その年も暮れようとする十二月末、初めて届いた手紙に「濠北派遣……」の文字を見た祖母は「ニューギニアへいっている」と、ピーンと来たそうです。
 それから二~三回の手紙のやりとりはありましたが、日本の敗色は日増しに濃くなり、音信不通のまま終戦を迎えました。家族は「これでやっと帰って来る」と、首を長くしてその帰りを待ったそうです。ところが終戦後一年近く経っても現地から帰る人はなく、やっと昭和二十一年五月に戦友が帰って、祖父は十九年八月二十三日に戦死していたことが分かりました。祖母は覚悟は出来ていたものの、一週間ほど涙が止まらなかったそうです。
 その時私の父は小学校二年生で、学校から帰るなり「アッ、仏さんに灯が灯っとる。お父さん、どうかしたんか。」といって泣きくずれたそうです。この姿を見て祖母は「この子はお父さんが無い子だから……」と、後ろ指を差されないように、どのようにして育てたら良いか、で頭の中が一杯になったそうです。
 その頃は農家でありながら食べるものも充分無く、着るものも切符制で思うように買えない時代でしたが、祖母はまず子供の物からと、四方八方駆け回ってどうにか、学校へ行けるだけの衣類を揃えたそうです。それから他の家族の着るもの、食べるものの準備、田畑の手入れなど、言葉では言い尽くせない苦労があったそうです。
 昭和四十七年に父は、お父さん(私の祖父)が眠るニューギニアへ遺骨収集に行きました。その頃、まだ七歳だった私は、ニューギニアがどこにあるのか何も分かりません。二~三日経つうちにだんだん心細くなって、毎日「お父さん、いつ帰ってくるの」と聞いていました。今考えてみると、たった半月、父がいなくても、とても寂しいと感じた私に比べ、当時五歳だった父が二年も三年も、それも無事かどうか分からないお父さんを待つのは、どんなに寂しかっただろうと、その気持ちがよく分かります。
 ニューギニアから帰った父は、遺骨収集の旅を八ミリ映画(その頃はビデオではなく、フィルム)に編集しました。完成した映画を私も何回となく見ましたが、終る頃にはいつも泣いているのです。「おじいちゃんが、こんな遠い、こんな暑い所で、家族にも看取られずどんな思いで息を引き取っていっただろうか」と思うと、かわいそうでなりません。
 父が映写してくれるこの映画を、いつも一緒に見た祖母も、一昨年(平成五年)八十三歳で祖父が待つところへ旅立ってゆきました。だから、祖母は自ら「体験記」を書くことが出来ません。生前、私にこのことを詳しく話してくれたのも、祖母が私に代筆をせがんでいるような気がして、拙いペンを執りました。
 二度と戦争で、こんな悲しい妻を、子を、孫を作ってはならないと思います。

タイトル VIVIR(生きること)を学ぶ
本文  もしかしたら、ある人々にとっては、VIVIR(生きる)は五文字で出来た、ただの言葉にすぎないかもしれません。
 でも、私にとってはそれ以上のものなのです。私の短い半生をふりかえって、なぜかということをこれからお話しします。
 夢、戦争、空腹。これらは私の両親とたくさんの家族が、祖国から出て海外移住をするという大変な決断をした理由でした。
 一九一〇年代の初め頃、アルゼンチンは既に酪農大国になっており、その酪農産物をヨーロッパやアジアに輸出していました。
 私の祖父は、ある日、ある雑誌を見て、この国のもつ自然の豊富さに気づき、家族を連れて出国することを決意しました。大農場主になるという夢をかなえたいために。
 一九一九年に北海道を出て、ブエノスアイレス港からアルゼンチンに入りました。何か月か過ぎ、酪農業でやっていくことは困難だということに気づき、また、気候の問題もあって耕作に適した新しい土地を探さねばならず、最終的に、ミシオネス地方に定住することになりました。
 自分の土地を所有できる、という希望と夢を抱いて、子供達に食べさせるため、日の出から日没まで働きました。新しい土地に順応するための障害となった言葉の障壁も、来る日も来る日も茶栽培に粘り強く精を出す彼らにとってはなんでもなかったのです。
 一九四五年に戦争が終わり、彼らの愛する人々が飢えなどの様々な原因で亡くなっていくのを見ました。それが、私の母親が、三十六歳で三重県熊野市を出て、私の父親と結婚をした理由のひとつです。
 その後、四人の子供が生まれました。私は四人兄弟の末っ子だったのですが、ごく普通の子供時代を過ごしました。おそらく、私たちが他の人たちと違っていたのは戦争についての会話をよく耳にしたことです。戦争に対してある決まった姿勢をとることを学びながら、それを理解するようになりました。
 戦争を学ぶことによって、我々は戦争からは何も得られない、失うものが多いだけだということを理解し、命や自然が与えてくれるものの真価に気づき、浪費せず節約すること、他人を大切にすること、団結することを学びました。
 働いて一センターボ得る度に、そのお金は私たちの学校での教育費へと変わっていきました。私たちの心に刻みつけられた手本と助言は、私たちの人生のいろんな場面に反映されています。
 一九九二年に三重県庁の計らいで、研修生として奨学金を頂きました。そこで十か月間日本のあちこちを巡り、いろんなことを知ることができました。テクノロジーの発達、激しい競争社会……等。しかし、その中でも、平和の真の意味を理解していること、そして教育の場においても、家庭でも、平和の意味を教えていることに注目しました。現在、日本は最も安全な国のひとつです。
 私の国では、一九八二年にフォークランド紛争がイギリスとの間に起こりました。国民は直接その紛争に参加していません。しかし、兵士たちは確かにひどい寒さと飢えに苦しんだのです。現在、我々の政府はフォークランド諸島(マルビナス諸島)の統治権を決めるために外交上の解決策を模索しています。また、全世界の国々と同じように、私たちは広島と長崎に原子爆弾が落とされた日のことを忘れません。そんなことが二度と起こることのないように祈ります。
 戦争では、勝者も敗者も存在しません。そのかわりに、破壊と傷跡が永遠に残るのです。
 こんなことわざがあります。
 「最後の川を汚し、最後の木を切り倒し、最後の魚を殺してしまってから初めて、人間はお金は食べられないということに気づくのだ。」

タイトル 戦争を知らない私たち
本文  "戦争″。あなたはこの二文字を見てあるいは聞いて、何を連想しますか? 私は今まで学校、TV、ラジオなどを通して、又祖父、祖母から戦争のいろいろな話を聞いたことがあります。そしてそれを聞く度、人として当たり前ですが、戦争の非人間さに驚き、恐怖感を覚えました。そして" いけないこと "だと学びました。
 でも、私はやはり″戦争を知らない子供 ″です。戦争を神話か何かの作り話のように、又「もう起こらへんやろ」と自分に関係のないことのように受け取り、すぐに″戦争 ″を頭の奥底にしまい込んでしまっていました。つい何十年か前のことなのに、何百年も前のことのように思え、″歴史 ″、日本の歴史として間接的にとるだけでした。そして、自分から進んで戦争に目を向け、真剣に考えることはあまりありませんでした。戦争=いけないこと。学校等で教わったように、何かの定義みたいに決めつけ、何がいけないのか、なぜいけないのか、どういけないのか、又どのようなものだったのか、学校等で教えられる範囲でしか知ろうとせず、それ以上は知ろうとせず、ただ″戦争 ″と聞くと、戦時中の悲惨な様子より先に、「あっいけないこと」という定義が頭に浮かんできました。
 戦争体験者の方から見れば「何て薄情な」と思われるかもしれませんが、″戦争を知らない子供 ″、それも戦後三十五年も経った平和な世の中で生まれ、育った私には″戦争 ″はそれだけのものでしかありませんでした。「何百万もの人々が犠牲になった」そういう大まかな数字を聞いただけではあまりピンとこず、「かわいそうだな」と同情するだけで、「やっぱりいけないことだな」とまた頭に浮かぶだけでした。
 そんな私を変えてくれたのは、文化祭でのクラス展示″VOICE OF ASIA ″でした。それは、日本軍の被害にあったアジアの国々、中国、タイなど六か国の高校ヘアンケートを送り、その結果を展示したものです。他に、南京大虐殺、従軍慰安婦や沖縄戦、原爆などの資料、写真パネル、それに軍服等の遺品を展示しました。
 それをし終え、本当に日本、今私が住んでいる日本、今私が立っている地、日本で戦争があったんだ、たくさんの爆弾が落とされ、たくさんの人々、罪のない人々が死んでいったんだ、又同じこと、それよりももっともっとひどいことを日本も他国にしていたんだ、と今さらだけど実感しました。
 そして、自分が思っていた戦争と、現実に起こっていた戦争とのギャップにとても驚きました。いかに自分が戦争に対して甘い考えをもっていたか思い知らされました。戦争は思っていたよりも遙かに恐ろしく、気持ち悪く、思わず目を背けてしまいました。先へ先へと調べていくのがとても怖く、すごくつらかったです。でも、それは本当にこの日本、私達が住んでいる日本で起こったことです。又私と同じ国、この地でまれ、育った人、同じ言葉を話していた人、同じ顔立ち、同じ文化をもっていた人、もしかしたら血がつながっているかもしれない人が、本心からではなかったとはいえ、他国にしてしまったことです。絶対に目を背けてはならないことです。しっかりと目を向け、真剣に考えていかなければならないことだ、と思いました。
 又アジアの高校生の戦争に関する知識の豊富さ、意見のしっかりしていることにとても驚きました。日本の高校生からは考えられなく、いかに私達が戦争に対して無知で、無神経か思い知らされました。
 今日、″戦争を知らない子供 ″はどのようにして戦争を知ることができるでしょうか。学校、TV、ラジオなどにおいて、体験者の祖父母から、広島、長崎、沖縄へ観光したとき。でもそれは、ごくごくまれなことです。学校は夏休みの登校日、社会の授業でちらっとです。TV、ラジオの報道は八月だけ。新聞はそうでないけど、子供はあまり読みません。祖父母とはなかなか話す機会がなかったり、体験者でない世代の孫も今からどんどん増えてきます。観光旅行はそんなに行けません。
 私達″戦争を知らない子供 ″は大人が思っている程戦争を知りません。「どこで何戦争があった」ぐらいしか知りません。戦争の上辺しか知りません。深い事はぜんぜん知りません。でも知りたいです。すごく知りたいです。
 このままでは私達は、情報の多いあわただしい生活の中に、平和で豊かな生活の中に溺れ、戦争を、犠牲になった多くの人々の″死 ″を忘れてしまいそうです。もっともっと、もっともっと私達に戦争にふれる機会を、戦争について真剣に考える時間を与え、私達の目を覚まして欲しいと思います。

タイトル 白い伝言板
本文  夏休みには、五十年前の戦争の苦しみを映画やテレビの画面の中でよみがえらせていました。
 家や建物が壊れて、ただの″ゴミ ″と化した中を、元気に歩く人々の姿はありませんでした。もちろん笑顔などもありませんでした。そして、失ったというより、奪われてしまったさまざまな物。失ったというより、奪われてしまったたくさんの大切な命。その中に与えられたものは、苦しみと悲しみという、何よりも悲惨なものです。
 一体誰がこのようなものを期待していたのでしょうか。確かに戦争当時の人々は、日本の旗を持って、戦争に賛成していました。しかし、それができたのはきっと、本当の戦争の恐ろしさを知らなかったからでしょう。戦争を何よりも大切なものだと考えていた人々も、きっとあとで後悔したでしょう。でももうその時は遅すぎたのです。怯えてすごすのは、たった一日だけではありません。何日も何日も続くのです。その日々の中で、きっと気付いたでしょう。本当の戦争の恐ろしさを……。
 私達はこのような事を、決して再びおこしてはならないのです。そのために被爆者の人々は私達に、戦争を語るのではないでしょうか。しかし中には、あの時の出来事を口にしない人もいるでしょう。今はまだ他にもたくさんの被爆者の方々がいて、私達に戦争の恐ろしさと無意味な事を教えてくれます。しかし、五十年もすれば、戦争を語ってくれた人達はいなくなるでしょう。
 そうなった時、私達は戦争を体験した人々が、今まで必死に語り伝えてきた後を引き継いでいかなくてはならないのです。もし、そこで私達が誰一人として、今まで必死に語られてきたことをやめてしまったら、新しい世代の子供達は、戦争という言葉さえも知らずに育っていくでしょう。そして五十年前の苦しみを、再びよみがえらせてしまうことになるのです。だから私達は、重要な伝言板なのです。そしてこの枠から逃げてはいけません。一人でも多くの人が大切に語り続け、一人でも多くの次の世代の子供達に伝えなくてはなりません。そして確実に、正確な事を伝えるのです。
 被爆者や被災者の人々の伝言板の内容を、今の私達の、まだまだ白い部分がたくさん残っている伝言板へ。そして私達の伝言板から真っ白な次の世代の伝言板へ。そして永遠にこの伝言の内容を、あやまった内容にならないように、一人一人が責任と自覚を持ち、語り続けなければならないのです。今の私達は実際に戦争を体験してはいません。画面の中でしか見ていません。だから本当の戦争は全くと言っていいほどわかりません。そしてそれについて語り続けるのはとてもむずかしい事かもしれません。しかし、五十年前のあの出来事は今でも叫んでいます。そして今、町はきれいになっても、被爆者や被災者の人々のあの時の出来事や傷害は、まだまだ生々しく生きています。
 私達は平和を選ぶのか、それともあの生々しい恐怖を味わうのか。選ぶのはこの二つのどちらかです。私は絶対戦争に反対し、平和に賛成します。

タイトル 今に生きれる私達は
本文  私は、直接経験していません。しかし、いかに戦争が悲さんかはとても良く知っています。
 私は、特に沖縄のひめゆり部隊について考えました。私くらいの女子が、とてもつらい怖い、そんな現場で働いていた彼女達は、
「戦争などしないでほしい、これ以上私達を苦しめないでほしい。」
と言いたかったと思います。きずついた兵士をつれてにげるのがいかに怖かったか、両親の所に帰りたかったか、そんな事を考えると日本は、そして世界中の国々は、なぜこんな事を起こしたのだろうか、今しっかりと考えなければいけないと思います。
 今年は、戦後五十年目ですが、これで戦争は終わったとは言えません。五十年たった今でも被害者はたくさんいるのです。もし、もう五十年後に、戦後百年と拡大するでしょうか、その頃には、被害者は、居なくなっていると思います。平和の大切さを語り続けるには、今が一番大切だと思います。
 平和、この言葉を実行、続けるためには、一人一人の考え、平和に対する気持が大切だと思います。これが無くなってしまえば、日本でも又戦争をしてしまうかもしれないし、今まで多くの人々が戦死されたのは、一体どうなってしまうのか、私達が平和を愛し続ける限り戦争は起きないと思います。
 しかし、日本が平和になるだけでは、いけないと思います。日本が世界に、特にアジア地域において行った事柄については、深く反省し、一日も早くその方々に平和が来る様にしなければならないのです。
 平和、人々によって考え方は違うでしょうが、誰もが「戦争、色々な武器等の実験」は必ずやってはいけないと考えていると思います。今、フランスの核実験は世界中で問題となっています。いくら自分の領地だからといっても実験を行うことは、平和を乱す行動だと思います。
 私は、平和な時代に生まれ、平和な時代に育っています。私達が大人になる時、世代は「戦争を知らない平和な世代」と呼ばれる様になる事は、確実です。写真がいくら確かでも、心や考えには残りにくいはずです。だから、平和に対する教育を、もっともっとしなければならないと思います。私は今まで教わったのは、本当に少し、大きな出来事のみで戦争の作った爪あととしての、残留の人々、アメリカが散布した枯葉剤等、新聞等でしか見る事はないと思います。だから、学校の教科の中に、「戦争」「平和」だけを教える時間がつくられても良いと思います。社会科や特別活動、集会でほんの少しだけ話すのではたりないと思います。今の大人の人が、平和がいかに大切かを私達、次の世代に伝えていかないと、取り返しのつかない事がおきる様な気がします。
 テレビ等で戦争や内戦をみると、私達は幸せか分かります。それに戦争で勝つと何が良いのでしょうか、きっと喜べるのは、国のえらい人達だけだと思います。そんな人に限って、つらい、苦しい、悲しい思いをしていないと思います。戦争を一番いやがるのは、国民です。権力で押さえられるのは一番つらいと思います。
 私の願いは、世界の人々の幸せ、平和です。これがかなうには、差別を無くさないと出来ません。今、世界で起きている戦争の多くは人種差別から起きていると思います。だからこの問題を解決すれば、世界は、平和に近づく事が出来ると思います。
 私は、戦争を起こす人が居たら、一人になっても反対を続けます。それは、私の平和への考え方であり、平和を愛しているからです。私は、自分の考えを押し通せなくなるまで言い続けたいです。平和には利益があるけれど、戦争には、なんの利益もない事が分かっているからです。
 私の世代が平和であった様に、次の、その次の世代も平和であってほしいと思います。そして、今まで日本が起こしたあやまちをもう二度と起こさないでほしいと思います。そしていつまでも平和を乱さないで、平和という一本のとおとい線を切らないでほしいと思います。
 世界中の人々が戦争をしてしまった今、平和の大切さを、もっと表現していく事が一番良いと思います。
 平和な今に私は生きれてうれしいです。

タイトル 戦争のつらさ、苦しさ、悲しさ
本文  今年で終戦五十年をむかえました。
 祖母や祖父に戦争の時の思い出などを聞こうとすると、なぜか悲しい顔をしたり、はぐらかされてしまうことがよくあります。その祖母や祖父の様子を見ていると、「戦争とはとてもつらく、苦しく、悲しい出来事だったのだなぁ。」と言うことが伝わって来ます。
 私達、現在の子供は、戦争をその場で見たことがないので、戦争のおそろしさなどは、戦争を体験したことがある人以外、だれも知らないと思います。だから反対に私達は、平和があたりまえと言う風に考えてしまい、平和の美しさ、喜び、尊さに気づかないのだと思います。
 戦争とは、どう言ういきさつで始められるのでしょうか?
 私は思ったのですが戦争のきっかけとは、国同士のけんかみたいなものではないかと思います。別に、普通の人が誰かとけんかをしたかと言うことだけで、戦争なんかになるとは思えません。だから国同士の意見があわなくてけんかのようになったとか。そう言う考えかたをするしかないのではないかと思っています。
 今年の夏、私は祖母の家の近くでやっていたお祭りに母達といっしょに行きました。そこのお祭りでは、終戦五十年企画で広島の原爆後の写真などの展示会をやっていました。
 私は、母達といっしょにその展示会の写真を見に行きました。展示会の写真はとてもひどいものでした。私が始めに見た写真は、子供が母親の背中で真っ黒になって死んでいた写真でした。その写真を見たとき、涙がぼろぼろ流れて来ました。他には、井戸のようなものの中で二、三人で抱き合っている人が死んでいる写真や、とても人間だと思えないぐらい皮膚がたれ下がっている人の写真や、顔が誰だか分からないほど大やけどの人の写真や、手足がない人の写真や、手や足などからたくさんの血を出して布団に横たわっている女の子の写真や、原爆の光で、影だけ残っている写真や、大きなトラックの荷台に何十人もの死体が乗っている写真や、とても悲しそうな顔をした人の写真などがありました。
 中でも私が、一番忘れることができない写真は、原爆の光で自分の着ていたもんペや着物などのがらが身に焼きついて残ってしまった女の人の写真です。その写真を見たとき、写真に写っている人達が語りかけてくるように思えました。写真の中の人達は、「もう戦争などおこさないで、お願い。もうこんな苦しみは現在の子供達にあじあわせたくない」と言う風に聞こえました。私は「ああ、そうだなぁ。この人達のような苦しみは、もうだれにもあじあわせ
たくないな」と思いました。
 以前、祖母に聞いたことがあります。昔、戦争をしていたころは、おしゃれもできず、みんな同じような、つぎはぎをしたもんペなどをはいていたそうです。それに砂糖などは、「戦争に勝つためだ」と言われてほとんど、兵隊さん達に送っていたそうです。私は、戦争をしていても、えらい人達は、とても楽なくらしをしていて、普通の人達はなにもない、とてもまずしいくらしをしていたのではないかと思います。私はときどき「今はとても平和だな」と思う時があります。昔、戦争をしていたころとはちがい、甘い物もたくさんあるし、とてもいい服を着れておしゃれもたくさんできるからです。
 私は今まで、他の国の争いや戦争のことなどには、あまり興味をもっていませんでした。しかし、今年、終戦五十年企画で色々な戦争の話をテレビでやるようになってから、少しずつ他の国のことに興味をもつようになって来ました。なぜか、人事のように思えないのです。私でさえ人事のように思えないのだから、戦争を体験したことのある人は、もっと人事のように思えないと思います。
 平和とは、この世にぜったいになくてはならないものだと思います。現在の若い人達の大半は、「平和」と言うことをよく考えたことがないと思います。なぜかと言うと、現在日本はとても平和だからです。平和すぎて、平和だと言うことが当たり前だと思っているからだと思います。だから「平和」と言うことにひたりきっていると思います。もちろん、その中に私もはいっています。
 私はこれからこの日本や世界を背負って行くのは私達現在の子供達だと思います。だから、もう二度と五十年前のようなあやまちをおかさないようにするには、世界の人々が手をつなぎ合えばいいと思います。
 そのために私は、優しい心を忘れずに、そして大切にして行きたいと思います。世界から戦争をなくすと言うことは、すごく大変なことだと思います。だから後、何年先になるか分かりません。何十年も先になるかもしれません。それでも私はがんばって行きたいと思っています。

本ページに関する問い合わせ先

三重県 子ども・福祉部 地域福祉課 保護・援護班 〒514-8570 
津市広明町13番地(本庁2階)
電話番号:059-224-2286 
ファクス番号:059-224-3085 
メールアドレス:fukushi@pref.mie.lg.jp

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