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第1部 基調講演

「自治体議会の改革―パラダイム転換を目指して」
千葉大学法経学部教授(東京大学名誉教授)  大森 彌 氏

 こんなにたくさんの方がお見えだとは想定できませんでした。私は、時代が変わってきたと思います。議会についての議論をするのにこれだけの皆さん方がお集まりです。もっとも、年度末で研修の機会がちょうどうまく合ったという議員さんもおいでかも知れませんが、それにいたしましても、地方議会を巡る議論にこれだけの皆さん方がお集まりなのは、明らかに大きな時代の変化だと私は見ています。
 今御紹介いただきましたが、都道府県議会議長会のほうにこの問題についての研究会がございまして、そこでお手伝い申し上げていますけれども、そちらのほうは研究会でして私は取りまとめの役でございますので、本日はそれにとらわれずに、私の個人的な意見を申し上げたいと思ってまいりました。
 ただし、一人の人間が言うわけですから、どこかで研究会のほうの議論にも関係がございますけれども、本日はそちらのほうを代表してきているわけではございませんで、一介の地方自治の研究者としての立場でお話申し上げたいというふうに思っていますので、そういうふうに御理解賜ればというふうに思っています。
 小一時間でございますので、私としては全体として、地方議会についてのパラダイム転換の意義についてお話申し上げたいというふうに思っています。はっきり申し上げますと、本日お集まりの議員さん及び議会、首長、住民、ジャーナリスト、それぞれの皆さん方が地方議会について大きな誤解をしている、あるいは従前の考え方の中に閉じこもっている、そのことについて問題を提起したいというのが最初の私のテーマと、そういうふうに考えてまいりました。
 私はもともと口がいいほうではございませんので、議員さんについても少し口幅ったいことを申し上げます。これから私どもが地方議会の改革に乗り出すためには、何よりもまず議員さん及び議会が自己改革に乗り出してくれない限り、絶対に世間の支持は集まらない、そう私は思っていますので、そういうことについても一二申し上げますので、心ゆったりとお聞き取りいただきたいと思っていますし、あるいは聞こえようによっては行政の皆さん方にとっては、「これ以上議会が強まるのか。今だって大変なのに、これ以上強まるのはかなわないな」と思っている職員の皆さん方は、その考え方自身を改めてもらいたいというふうな話になりますので、そちらの方々の御不評をかうかも知れませんが、皆さん、どうぞ御寛大にお聞き取りいただければというふうに思っています。
 私どものような立場の人間は、思っていることを全部言ってしまって、言ったことについて自分で責任を取ればよろしゅうございますので、したがって、特段に配慮すべきことがございません。そこで、いろんなことを申し上げますので、お聞き取りいただければというふうに思っています。
 「パラダイム転換とは何か」ですが、地方議会が現にある活動を行っているには経緯、歴史とある事情、理由がある。したがって、現に行われていることにいくつかの合理的理由があると私も思います。ですから、全部が悪いなんていうことはございません。パラダイムというのは、ある既存の考え方を前提にして、それで成り立っている活動の全体のことを意味しますので、したがって、それが変わらなければいけないというためには、どこを見て変わらなきゃいけないと言うのかという、まずそこが出発点として大事なことではないかと思っています。
 皆様方のお手元に、便宜のためにレジュメがございますが、このとおりお話が進むわけではございませんので、これも御容赦いただきたいと思います。全体として、趣旨はパラダイムを転換させていきたいという、その理由と若干の内容についてお話申し上げるということでございます。
 エピソード風なことでお話申し上げますと、御案内のとおり全国で市町村合併が進んでまして、市町村合併を行うと必ず何が見えてくるかと言うと、地方議会の在り方、地方議会の決定の在り方が直ちに目に見えてくるということになります。
 特に、議員さんが、市町村議会の皆さん方が合併の後の議員さんについての特例制度を御自分にどういうふうに当てはめるかというのは、相当重要なことでございまして、この機会に在任特例でやろうというところもございますし、定数でやろうというところもありますし、特例は使わないで思い切って新しい議会に生まれ変わりたいというところもございまして、やっぱり市町村合併の何よりも重要な意思決定主体というのは地方議会であるということが明々白々に見えてきます。見えてくればくるほど、地方議会の振る舞い方というのが、住民にとっては重大な関心事になるということでございます。
 その中から、この機会に合併は将来にわたることであるので、住民に直接聞いて決めてしまいたいという議会もございまして、これは広い意味で住民投票を行っています。今回の市町村合併から出てきた一つの大きな流れは、議会が自らの意思で住民投票に踏み切っているということでありまして、これが本当に市町村合併にかかわることだけに限定できるか、今後の議会の運用上、議会の在り方に大きな影響を及ぼしていくかということも非常に重要な関心事だと私は考えます。
 中には、議会が非常に安易に住民投票にかけて、御自分たちで責任を負わないという、私から見たら甚だ不本意な議会がないわけではございませんが、それでも、将来にかけての意思決定を住民に委ねようとしている議会が登場しているということは、今後この住民投票制度と議会との関係について、大きな問題を投げかけているように見えます。
 あるいは、これは本当の実態のことが分からず申し上げますので叱られるかも知れませんが、実は、私ども政治学を勉強していますと、ある集団、ここで言えば自治体でございますが、自治体で誰が最も重要な、事実上の意思決定権を持っているかということはいつ明らかになるかと言うと、危機の時なんです。危機の時に分かる。自治体で「危機」と言うと、大きな災害が来ている時です。これは残念なことですが、阪神の時でもそうですし、今回の新潟の中越地震もそうですが、大きな危機が来た時に対策本部が設けられますが、あの対策本部の中に議長さんと議員さんはお入りであろうか。地域や住民にとって最も重大な危機が来た時に、即断、即決しなければいけない重要な本部の意思決定の機関の中に、議会の皆さん方はお入りになっているだろうか。少なくともマスコミを通じて出てくるのは、ほとんど首長さん、助役さん、職員、その中に議員さんの姿がほとんどないのはどうしてなのかというのは、私なんかは気になります。
 多分、現場では一生懸命奔走していろいろ活動されているかも知れないけど、危機の時の頼りになるのが議会だ、議員さんだ、議長さんだという姿をお示しにならないのは、マスコミの報道が悪いのか、およそマスコミは議会のほうにそういう目で見ないのか分かりませんが、残念なことに、そう伝わってきません。危機の時ほど住民にとって頼り甲斐のあるのは誰なのかということが示される必要があるのではないかと、私なんかはそうやっていつもテレビを見ていて、議会が出てこないかな、議長さんが出てこないかなと見ているんだけど、ほとんど出てきません。
 それは住民の中に入って、やっているのかも知れませんが、これからお話いたしますように、地方自治の仕組みは二元的代表制でございまして、二元的代表制というのは、危機の時ほど首長さんと議長さんが同時におられて、短期的に重要な意思決定をきちっとやって、責任を取っていくとの話ですので、したがって、私のように外から見ていると、「あぁ、切ないなぁ。この風景は切ないなぁ」というふうに見えるということでございます。
 だから、どうすればいいかということを言っているわけではありませんが、ちょっと風景として気になるようなことがあるということを最初にお話申し上げておきたかったのです。
 さて、そこでなぜ本日のようなこういうお集まりができてきて、このところ特に都道府県議会が一斉に活性化し始めたのか、どうしてなのかということについて、少し私の見方をお話申し上げたいと思います。
 6年間、地方分権推進委員会をお手伝いしたんですが、ほとんど地方議会を正面から議論をいたしませんでした。第二次勧告の時に地方行政体制の中に「地方議会の活性化」という、一章目をやっと設けて、これについて非常に限定的でございましたが、議会についてある種の光を当てたのが、我が国の公文書ではむしろ初めてではなかったかと思っています。
 私自身は、もう長い間地方自治をやって、行政学をやっているものですから、私自身も地方議会について勉強した人間ではないんです。圧倒的に行政について勉強している。しかし、どうして地方議会について目が向かなかったんだろうか、どうして最も重要な地域における政治という営みについて、これほどみんなの目が向かなかったのか。
 一つは、学者のほうが怠慢であったと。私もその責めを負わなければならないと思っていますが、しかし、非常にきついことを申し上げると、議会が私どもの関心を呼んでくれない。どう見てもおもしろいと思えない。研究者の関心を駆り立てないような議会ばっかりではないかというふうに、ある時期に誤解したんですね。
 何回か議会を観察に行くんですが、一回行ったら余り行きたくないところだなと思いました。御案内のとおり、全国でまちづくりとか、観光を基盤にしたまちづくりを一生懸命やっている。その時に一人でも多く外から人に来てもらいたい。外の人に来てもらいたい。しかも、リピーターを増やしたい。一回行ったら、また行きたい、そういう地域をどうやって作るかということが、どこの自治体でも重要だった。
 したがって、俗に言う「観光地」なんかを作ってもダメなんですね。私どもが俗に言う「観光地」とは、人生で一回行ったら二度と行かなくていい土地のことを言うと。したがって、俗に言う「観光地」的議会がいっぱいあると。一回言ったら、また行きたいと住民が思うか。どうして二回三回と行きたいような議会を皆さん方がお作りにならないでいるのか。どうしてそれでやり過ごすことができるのかというのは、行った人間からすると、非常に変だな、どうしてこうなるのかなと思います。
 実は、今私が申し上げているのは、第1番目のパラダイム転換に関係ございまして、実際に議員活動を行っている議員さん、議会及び議会の事務局の皆さん方は一生懸命活動を行っています。そして、自分たちについてはこうしたい、ああしたい、もっと住民の理解も得たい、こんなことをやってみたい、結構御不満やある種のイライラが議員さんの中にあるんです。そのことについても私どもはある時期に気が付きました。
 しかし、そういう皆さん方の自己イメージと、住民や県民が議会について持っているイメージの間に大きな落差がある。大きなギャップがあって、このギャップをどうやって埋めていくかというためには、まずは議会の皆さん方の振る舞い方を自ら変えることによって、住民の皆さん方の無理解、無関心、あるいは住民の皆さん方が議会を支持するような活動をあまりしないでいる、そのことについての変化を迫っていくべきだというふうに考えます。
 したがって、最初の大きなギャップはここにあると思っています。特に都道府県議会の議員さんの皆さん方は、モデルがどう見ても国会議員にございますものですから、国会議員並みになりたいという非常に強い、おそらく一種の願望がおありになると推測できます。しかし、そこから見ると、現在の自分たちが置かれている制度上の位置付け、処遇から見ると、とてもそれに追いついていないではないか。もう少しそちらに追いつきたいんだという、そういう御希望がおありになる。でも、県民から見たら、「何をおっしゃっているんですか。もうちょっと足元からお話になったらいかがですか。なぜ国会議員並みになりたいんですか」と。口の悪い県民は、県議会に行ったら、県会議員のところに赤絨毯が敷いてあったと。あれは国会と同じかと。なぜ県会議員の中に赤絨毯が敷かれるのかと。私は、赤絨毯を敷くことが悪いとは言いませんが、赤絨毯が敷いてあるのは何か国会を真似しているのかなと、そういう意識を住民が持ってしまうのは、明らかに皆さん方が、都道府県議員さんたちがこうなりたいということと、県民が持っている県会及び県会議員さんに付いているイメージは違うんですね。
 個別には確かに、個々の議員さんが一生懸命活動していることは知っているかもしれませんが、一般的に都道府県議会の活動についての価値付けが県民の中で高いとは、私のように県議会を充実したいと思っている人間から見たって、お世辞にも簡単には言いにくいようなところがある。これはしかし、どちらが悪いと言うよりも、大きなギャップがあるということですが、このギャップをどうやって埋めるかということではないかと、私自身は考えています。どうしてこんな大きなギャップが生まれてきているのかということであります。
 これは、いろんなことから言わなきゃなりませんが、いくつかこの後お話申し上げたいんですが、実は今回、先ほど知事からも御挨拶がございましたが、分権改革、私どもの言葉では「第一次分権改革」というのがやっと成り立ちました。それの第2ラウンドが三位一体改革でありまして、これはまだ半ばと言うか、緒に着いたばかりですから、これからもやり抜かねばなりません。
 当初から私どもはそうなると思っていましたのは、中央省庁が例えば国庫補助負担金について自ら廃止して、これを一般財源化するなんてことを言い出すはずはない。絶対に総理は、地方6団体を頼りにせざるを得ない。事実そうなったんですね。国のほうで自ら調整する能力を失っている。したがって、6団体が乗り出した。6団体が大きな改革の主役に踊り出た。これは明白に国政参加が始まったということです。自治体にかかわる国の重要な意思決定について、6団体の意思を無視して、6団体の意向を無視しては国が政策決定ができない。その実績を築いた、築き始めたというのは非常に大きな出来事です。これを含めて、第一次分権改革がまだ進行中であるというふうに考えます。
 これはこれとして推進しなければならないということでございますが、実は、第一次分権改革の最大のメリットはどこにあったか。それは都道府県の扱い方を変えたことにあった。御案内のとおり、都道府県は戦後、知事さんが公選になった。県議会はもともと県住民から選ばれていた。問題は、首長さんの在り方にあった。戦前はもともと国の機関でありますから、都道府県そのものについてあれやこれや言うまでもなかった。戦後、知事さんが公選になったために、国はその段階でいろんなことを考えた。公選の知事さんになった後、都道府県がみんな思い思いにバラバラにものを考えられると困る。これをどうやって縛ればいいかというふうに考えた。そうすると、議会そのものをコントロールすることなんてできない。そうしたら、首長をコントロールしようと考えた。
 首長をコントロールしようと考えたということはどうなるか。国のほうは、首長さんをコントロールすればいいわけですね。そうすると、その分だけ議会はわきに置けばいい。首長さん自身を意思決定の中に取り込めばいいわけですから、議会ははなから住民代表なんだけど、そこがいろいろゴチャゴチャ言われるのは困るから、議会はそばに置いといて、首長をコントロールすればいい。その仕組みをずっとやり抜いた。はっきり申せば、2000年の3月いっぱいまでこれをやり抜いてきた。したがって、この中で育まれた仕組みはどうなるか。当たり前のことですが、絶対にこれは執行部優位の体制になるんですよ。したがって、都道府県の扱い方の中に現在の、これから申し上げます制度の中に、首長さんを中心にして営んでいこうという、そういう発想と考え方がずっと根強く続いてきた。はっきり申し上げますと、明治以来100年を超えて、議会の存在を許しながら、議会は基本的にお呼びでなくて、首長さんをコントロールすることによって、集権体制全体を維持してきた。これが経緯なんです。
 私どもは、この体制そのものの転換を図りたいと考え、第一次分権改革をやり抜くということになりました。したがって、ここから解放されたということ自身が、実は議会の在り方、議会の見方について、根本的な変化を迫られたはずである。これがパラダイム転換の最も重要なポイントなんです。
 その時に、立ち返るべき考え方はどこにあるんだろうか。私は、最初に、大学を出た後に地方自治を勉強した時に、当時は「二元的代表制」なんて誰も言っていなかった。みんな言っていたのは、「首長主義」ですね。大統領制の変形の形態だと言っていた。しかし、その概念にとらわれる限り、地方議会の充実をしていくという発想は、とても持ち得ない。それで私どもはある時期から「二元的代表制」ということを強調し始めた。首長さんも、なるほど住民から直接選ばれているけれども、議会も直接選ばれているじゃないですか。これは政治の形態として、行政形態じゃなくて政治の形態として、二つの代表制で地方自治全体を運用する制度になっているではないか。この観点に立ち戻ってみて、現行の考え方や制度の在り方をもう一回見直してみようというふうに考えた。
 しかし、そういう目で見ると、もう圧倒的とは言いませんが、それは首長優位の体制でやってきたということは歴然としている。そして、この体制の中でずっと長い間暮らしてきたために、地方議会と議員さんもまたこの中で自分たちの役割を限定してきた。それでいいものだと考えてきた。つまり、執行部優位の体制を担ってきたのは、単に国の大きな集権的な仕組みだけではなかった。その中で、自分たちの役割を限定的に考え、自分たちの持っている意欲や能力そのものを発揮しないで済んできた地方議会の皆さん方の考え方の中にもある、そうではないんだろうかと考えました。
 そうすると、改めて二元代表制とはどういうことなんだろうか。これは直接住民から選ばれますから、基本的に言えば、選んでくれた住民に直接責任を取る仕組みになっている。首長さんも、なるほど住民に責任を取る。議会も直接責任を取る。両方とも、選ばれている限り代表機関ですから、住民に責任を取っていくという仕組みになっている。そうすると、この仕組みは理論上はどういうことが出てき得るかと言うと、首長さんを選んでいる民意と、議会を選んだ民意と、あるずれが起こり得るということが予め制度に内包されている仕組みになっている。いつも別に対立する必要はございませんが、時代の中で、地域によっては、首長さんを選んだ民意と、議会の構成に表れた民意がずれるということはあり得る。はなからそのことを前提にして成り立っている仕組みではないかというのがまっすぐ出てきた。
 もう一つは、実は執行部優位の体制の中であった議会は、どういうふうにものを考えやすかったかと言うと、ここから先が第3番目のパラダイム転換の話なんです。日本国憲法は「地方議会は議事機関」と書いてある。「すべての地方公共団体に議事機関を置く」と書いてある。したがって、読みようによっては、これは必置になっている。自治体の政治形態の中で、議会を置かない自治体はあり得ない。憲法上は。しかし、これに類した規定は、少なくともこれと並んだ規定は首長さんにはない。日本国憲法に照らし合わせれば、私自身は、個人的な意見は、住民自治の最後の砦は地方議会だと思っていまして、首長ではないのではないか。これは私の考え方ですが。したがって、議会が必置になっているのは当たり前のことだと思っています。
 そうすると、しかし、議事機関とは何か。議員さんは、憲法が想定している議事機関とは何であるか、どういうふうにお考えになっているかということになります。一般的な用語は、地方自治法上の用語はどういうふうに使われて一般化したかと言うと、地方議会は議決機関であります、そして首長さんは執行機関であると言っている。この呼び方の中でスッポリ抜け落ちている議論があるんです。これがパラダイム転換をやらなければいけない理由です。
 もし、議決機関ならば、執行機関ならば、誰が議決すべき案を考えるんですか。誰が立案するんですか。執行部優位な体制は、当然のように執行機関自らが執行する案は執行機関が自ら考え提案するということを前提にしてやっている。およそ議会のほうが、議事機関としての議会が執行機関に執行すべき案そのものを企画立案するということを前提にしないで、この二つの言い方をずっとやってきた。そのことに議会の皆さん方は最近お気づきになった。本日は、その二つの代表的な議会の代表者が本日おいでくださっているんです。自分たちは、憲法は規定している議事機関の議事という活動の中から何が落ちてきたんだろうか、いつも執行すべき執行機関が政策案を考えれば、当たり前のことですが、最もやりやすいように考えた内容を考えます、それは。少なくとも議会のほうから政策を立案して、これを執行せよということは前提としない仕組みに今まではなってきたんですね。それが執行部優位な体制です。そのほうが、一見してものが運びやすいように見える。
 ところで、これと微妙に結びついている第4番目のパラダイム転換はどこにあるかということですね。もし、県民や住民の皆さん方が自治体とある関係を持っていろいろ調べ始めると、当然何に気が付くかと言うと、執行機関のほうが案を考えて、議会に上程して執行するんだったら、議会のほうはそれを受けて審議をして認めるということが分かると、住民はどちらのほうにいろんな意味で物事を言っていくと思いますか。どうしても首長さんになりますよ。当たり前のことですよ。そちらのほうが頼りになるのですから。
 そうすると、議会はどういう対応を取らざるを得ないかと言うと、住民のほうからいろいろ要望が出てくる。私は「陳情」なんて言い方はやめるべきだと思うんですが、陳情なんていうのは、お上に頭を下げる発想でしょ。あれは住民の提案だとお考えなら、すぐに言葉自身も私は変更すべきだと思うんですが、ともかく、議会はどうなるかと言うと、住民のほうから出てきた要望を執行機関につなぐという、中継地点と言うか、仲介の役割になるんです。それをやればやるほど住民のほうは、議会はそういうものかと。本当に頼りになるのは首長さんだとお考えになるんですね。
 ところで、もう一つここで微妙に結びついていて、ある時期から首長さんが、自分は住民から選ばれているんだから、住民から選ばれているけど、選挙の時に全部民意を問えるはずはありませんから、したがって、選挙から選挙の間に、ちょうど議会に託されている機能を公選の首長さん自らがやるようなことをやり始めたんですよ。特に改革派の首長さんが。議会が持っている機能は三つですよね。住民との関係で言えば。住民を代表する機能、2番目は民意を調整する機能、そして最終的には、基本的には、自分たちで決めたことについていろいろ監視をし、批判をして正すという機能があるんです。
 ところが、首長さんもこれをやろうとすればできるんですよね。例えば首長さんのもとに審議会を置いて、住民の意向を吸収するんですよ。そうすると、議会よりはるかに代表性ということを内実があるものにすることができる。2番目に、そうやるとどうなるかと言うと、住民、県民の中にいろいろな意見があるから、やっぱりこれはこれで特定のことだけではできないんだから、うまく合うように調整して、ある案を考えようと。考える案の中に、民意を調整するということをおやりになる。
 今度は、そういうことでやるとどうなるかと言うと、自分たちで決めて、自分たちでやるわけですから、住民のほうだってうるさいですから、いろいろ異議を申立てたり、批判を受けますから、したがって、議会の監視機能と同じような機能を住民のほうが果たすことになるんですね。これをやればやるほど、議会は相当頑張らない限り、公選首長に太刀打ちできないというような事態がある時期に起こった。起こったことについて、気が付いた議会は、改革に乗り出した。今でも全国でのほほんとしている議会があります。私は、のほほん主義は決して嫌いではありません。生活のスタイルとしては。でも、首長さんのほうが頑張って、住民の代表機関であるということを、代表性を豊かにしようという試みをすればするほど、議会が従来どおりであったならば、住民は議会を頼りにするなんてことはない。ないとどうなるかと言うと、もともと議会のことにあまり関心もないし、誤解をしていると、ますます議会について冷たい、議会について積極的な議論を住民がしなくなってしまう。そうすると、極端に言えば、議会は必置になっているものですから、憲法上も法律上の必置になっているから、法律上の存在になっているから、存在しないと困る。でも、それ以上のものではなくなってしまう。
 このことが、これからお話申し上げますが、議会の皆さん方の処遇問題にみんな連動する、定数問題に連動して行くんです。ろくなことをやっていないんだったら、人数も多いだろうと。何で月給のように毎月毎月お手当をもらうんだと。ボーナスももらっていると。議員共済もやっていると。これは何だという議論にすぐなってしまいますね。自分たちの議会、自分たちが選んでいる議会だから、自分たちでこの議会を大事にして、議会をいいものに変えようというふうに動かないで、何か議会をソデにするように、議会から離れるような行動を住民が取ってしまうというのは、どこかで、どうやったらこれを正して行かれるかということを考えなければならないというふうに私は考えました。
 行政学者は行政の勉強をしていると、首長さんや行政のほうに肩入れしたく思うものなんです。したがって、私が自分で議論する時には、自分の中にある種のバランスを働かせなければいけない。あんまり行政のほうばかりに身を置いて、議会のほうを知らないまま議会を批判的に見て、「どうせろくなもんじゃないから」というように議論を立ててはいけない。研究者自らもそういうふうにものを考えてはいけない。もっとバランスのある考え方を、見方を取るべきではないか。そうすると、自らもそういう目で見ると、どう見ても今までの議会の扱いの制度は、バランスを欠いていると私には見える。実際の首長さんと議会の関係を見て、この関係を規律している現行法を見ると、どう見てもこれはバランスを失していませんかと。もう一度バランスを取り戻すように、制度そのものを変えてみたらどうでしょうかということに必ず気が付くということになりました。それでいくつか、この後、つまり、具体的な制度改革にかかわっていくような在り方について、ある種のパラダイム転換が必要になるんだという議論とこの議論が連動します。
 この議論は締めくくりにお話するといたしまして、その前に議会の自己改革問題について、これも改革の考え方でございますので、考え方の転換として一二申し上げて、制度改革の話で全体をまとめたいと思っています。
 どんな仕組みでもどんな制度でも言えることですが、現在与えられている、現在使い得る制度を最大限活用できない人は、新しい制度でもさしたる能力を発揮できません。したがって、現在の仕組みの中で地方議会が活用できる制度を精一杯使って、住民との新しい関係を築くというのが、議会改革の最初です。制度改革が最初ではないと私は考えます。まず、自らの手で議会改革に乗り出した上で、なおかつ、自分たちはこういうふうに新しい住民との関係や議会の在り方を充実したいために、現在のこの法制度が壁のように立ちはだかっているから、少なくともこれは改革すべきではないか、そういうふうな議論をすべきだと考えます。
 すると、前段で、議会の自己改革問題でたくさんのことが出てまいります。すでに都道府県議会をはじめとしまして、市議会も町村議会もいろんな改革に乗り出し始めておりますので、そういう改革を全体として見て行けば、どういうことをおやりになろうとしているかということが分かります。
 一言で言えば、戦後与えられた標準議会会議規則、標準的な議会の運営規則ですが、あれを事実上打ち破っていこうとする動きだと思います。私は、この点ではラジカルでして、あれは直ちに破棄すべきだと思っています。ただ、これを言うと、議会の事務局長さんがお困りになる。議会の事務局長さんは、議会が滞りなく平穏無事に終わるということが非常に大事な問題意識だと伺っておりますので、それぞれの議会が独自に会議規則を作って運用するなどは困ると。今のように、だいたい同じになっていると、困ったら他の議会に聞いて、そういう時は前例はどうなっていますか、どうやっているんですかと聞けば、他でもこうやっているから、この議会もこうやれば済むというほうが便利だということはもとよりございますし、政治の世界でございますので、そうそうユニークなことだけやればいいという話ではございません。しかし、やっぱり戦後、都道府県議会の皆さん方が導入した、あの標準的な会議規則こそ、市議会及び町村議会も縛った。あれが諸悪の根源とは言いませんが、あれ自身をやっぱり自己改革すべきではないかと思います。
 私から見て、あの会議規則の最大の弱点はどこにあるかということでございます。個別のいろいろ政治の世界の手続については、それなりに共通する部分があってもいいと思っているんですが、あの会議規則にほとんどない発想というのは、議会の審議のプロセスへ住民の意見、意向をできるだけ反映していくという手続きを作るべきだとおよそ考えていない会議規則です。したがって、日本の地方議会の最大の弱点があの会議規則の中に内包されてしまっている。これももともと旧内務省から出た案ですから、やっぱり執行部のほうに都合のいいような議会運営になっているはずです。これは検証問題ですから、すべてとは言いませんが、あの会議規則そのものが大きな全体の体制の中で作られたものですので、当然、そういう運用になるものだと思います。
 その運用になっているものを、ごく普通の住民の目で見ると、実に変なことが行われている。第1に、普通、学生たちに法律を読ませると、議会の審議に即して言えば、国会と違いまして、執行部は必要な時に出て来ればいいと書いてある。でも、だいたいいつも出ている。一応形としては要請されて、いつも来ている。いつも来ることを前提にしてしか議会は開いていない。私から見ると。議会が独自に会議を開くのは、議会の中の役職人事などをお決めになる時ぐらいでして、およそ政策の審議に当たって議会独自に議論するなんてことはまずない。そうすると、執行部が出てこないとやらないんですね。そういう運びになっている。執行部が出てきてやることになったら、執行部のほうも議会に出て行っていろいろ答弁などをするわけですから、立ち往生をすると困ります。執行部のほうも、滞りなく答弁できるようなやり方をとってもらわないと困るということになります。現にそうなっている。今の議会の運用は、実に執行部にとって都合のいいようなやり方をとっていると私は思います。
 まず、すぐに分かることですが、どうしてああいう姿になったか。私は最初に見に行って、変だなと思ったのは議会の風景だったんです。議長が真ん中に座っていて、雛壇があって、議員さんがそちらにみんな並んでいて、しかも本会議というのはやっぱり見せ場ですから、張り切ってやるんですが、その時にまず立場に「質疑」と称して質問されるんですが、あれは質問の向かっている先が同僚議員なんですよ。本当に私、口が悪いですが、漫画的風景だと思います。雛壇のほうへ向かって言うならともかく、質問する相手がこちらに座っているにもかかわらず、こう向いて言わないで、こちらを向いて質問しているでしょ。迫力ないです。しかも2番目に、質問する内容がほとんどみんな分かっている。首長さんのほうが。こういうのを「八百長」と言うんです。
 なぜそうなっているか。議会の運用上、通告制度があるというのはおかしくないですよ。議員さんたちが、どうやって運用するかについて議長さんのところへ、どういう順番でどういうことをやるのかということをさばくのが議長さんですから、質問通告について議長さんの手元に出るのは、私は何もおかしいと思っていない。でも、どうしてあれが筒抜けに全部首長に伝わるんですか。伝わったら、首長さんは全部用意しますよ。ちょうど国会の質問の想定問答集と同じようなものを作るんでしょ。こういうのを「猿真似」と言うんです。
 私なんかラジカルだから、質問通告制を直ちに破棄しなさいとなります。そうすると、すぐ何が起こるかと言うと、現在の議事手続は変えなければなりません。どうしてかと言うと、仮に議員さんが執行部に対して質問に立つでしょ。そうすると、議員さんの中には、首長さんのほうは聞いていて、何を質問しているかよく分からない質問をする議員さんが出てきますでしょ。そうしたら、首長さんのほうから議員さんに、あなたは本当はどういう根拠で、どういう趣旨で質問しているか質問できないと困りますでしょ。これは「反問権」と言うんです。反問権を作らないで済んでいるのは、およそこういう事態を想定していないんです。だからそうならないんですよ。そして、執行機関に向かってもっぱら質問するんです。したがって、議員さんたちの能力は相手にもっぱら質問する、それも答えの分かっている質問をする能力なんですよ。自分で答える側に向かわないから、能力は半減になるんです。聞かれるほうはこわいから、事前に知らないと答えられないから、特に幹部職員はそうなるんですよ。すべて首長さんが答えるわけではないんだから。委員会もございますから。したがって、執行機関のほうは、執行部の幹部職員になると、みんな聞かれることが分かっていて、無難にちゃんと答えられるようなことを答えているんですよ。したがって、この議会の水準以外に絶対に都道府県の職員の応答能力は高まらない仕掛けになっているんです。都道府県の職員の、幹部職員の能力をこの水準を止めているのは、議会の皆さん方の責任なんです。
 自分が所管していることについて全部文書にしたためて答えなければ答えられないような部長さんがおいでになることのほうが、ずっと私から見れば変だと。知事さんは、全部に答えるなんてことは不可能です。だから、大筋の政策論議をおやりになればいい。細かい点についてはちゃんと文書で出させれば済む。なぜそうならないのか。やっぱり議会の議事の手続きが何かおかしいんじゃないかと。どこかで議会が本当に議会らしくなれないまま、そうやってこれでいいんだと思い込んでしまっているのではないか。  議会の議事手続きについて何か上級機関があって、こうすべきであるということはどこにも決められていない。もともと首長さんは行政をやっていますから、少なくとも2000年の4月までは通達行政があって、国の機関として行動してきましたから、いつも上級官庁があったんです。しかし、あの時代だって、2000年4月以前だって、議会に上級機関なんてどこにもなかったじゃないですか。国会は上級機関じゃありません。市町村議会にとって、都道府県議会は上級機関じゃありません。したがって、議会は独自に、自分たちの手でどういうふうに審議をすればいいかということをお決めになれたはずなのです。自己決定権は議会にあったはずではないか。どうしてそのことを自分たちの権限として十分行使しなかったんだろうか。どう見ても、やっぱり大きな執行部優位の体制の中で、そういうふうに自分たちの役割を限定してきてこういう手続きの話になっていないか、そのことについて一回きちっととらえ直してみたらどうかというふうに私は考えました。
 議会独自にいろいろ議会の審議のプロセスや住民との関係についてさまざまな自己改革が進み始めていますので、それ自身は別に制度改革をやらなくてもできるわけですから、まずそのことから乗り出して行って、そのことを住民に伝え、議会自らが新しい時代の担い手なんだということを住民の皆さん方によく伝えてくださって、「なるほど、これだったら議会を自分たちも支持し、応援していいじゃないか」というふうな、そういうことをまずやっていただくこと、それが改革の第一歩だということになります。
 そのことを前提にした上で、実は今日、最初の私の話の中に「パラダイム転換」でございますので、この機会に個人としての私もどうしても直したいことがございます。そのことについて一二申し上げてみたいと思います。
 地方自治全体の充実というのは、国と都道府県と市町村の関係するものを改めるということだけではございませんで、住民自治というものをどうやって豊かなものにしていくかということでもあるのです。この問題を今日のテーマで考えれば、それは首長さんと議会との関係論、あるいはそれぞれの公選職と住民との関係論になる。議会は議会として住民との関係を深める。と同時に、首長さんとの関係についてもいろいろと手直しを必要とするのではないかと見ています。
 それで、私も分権改革に少しお手伝いしましたから、私にも責任があるかも知れません。少し不遜に言えば。実は、私どもは地方議会について、地方議会の活性化論を言った時に気が付いていたんですが、なかなかそれを総理に対する勧告文書まで書けなかったことがいくつかございます。あの時にきちっと書いておくべきではなかったかなと思うようなことが、宿題として残ってしまったんです。分権改革は一歩一歩でございますので、やむを得なかったということもございますし、私どもとしては、国と地方の関係そのものを改めるということにエネルギーを費やしたものですから、住民自治の観点から見て、地方自治の運用そのものの改革は、むしろ自治体の個別の独自の改革問題ではないかというので、国のほうの機関としては少し遠慮したということもございました。しかし、遠慮せずに言い放ったほうがよかったかなと思うことが何点かございました。それについて、少し自戒の念を込めまして、本日申し上げてみたい。
 先ほど言いましたように、パラダイム転換で立ち返るべきは、二元的代表制でございますので、二元的代表制の観点から見て、どう見ても変だ、これはどう見てもおかしいと思うことがたくさんあるのですが、その最も代表的なものは何であるかということになりますし、都道府県の議員さんの方々が、「少なくともこれは制度改革をすべきだ」とだいたい意見の足並みがそろい始めている最も代表的なものは何か。皆さん方は住民から直接選ばれて、議会が招集されるとまいります。議員さんですから。首長さんは自ら選ばれますから、それできちっとして行政の担当者というお仕事をされますけれども、我が国の議会は、変なことですが、独自に選ばれた議員さんを、ある日、議会へ出て来いという命令を首長がやっている。議長さんがやっていない。この国は。これは本当に宿題として、何と言うか、見過ごしちゃったんですよ。だから私は申し訳ないと思っているんです。これはもう2000年4月の時に直さなければいけなかったんです。
 住民が直接選ぶ議員さんの招集権が首長にあるというのは、僕はもしかしたら憲法違反じゃないかと思うんですね。自治法違反だと思いますね。法律に違反しているんじゃないかと思うんですよね。こんな権限が首長にあるはずないですよ。だって、皆さん方は住民から直接負託を受けているんですよ。その議会の招集を首長がやるんでしょ。出て来いって。拒否してください。次の議会の時に。あんたから招集される覚えはないと。少なくとも議長から言ってもらいたいと。
 それで、これはちょっとおかしいなと思っているからどうなっているかと言うと、妥協していまして、臨時議会は議会のほうから申請しなければいけないでしょ。これも本末転倒していますよ。もともと。首長が臨時議会を開きたかったら、首長が議会に挨拶に来るべきでしょう。こんな議会は、私から見ると議会じゃありません。私は本当に忸怩たるものがございまして、こんなのは分権改革の最初の時にやらなければいけなかったことを見過ごしたんですね。
 だから、最後にお話申し上げますが、次の地方自治法の改正の時に、少なくともこれぐらいのことを直してもらいたい。これぐらいにしないと、首長とのバランスなんか保つはずはないと考えます。
 それから、これも変な話ですが、都道府県に固有なことじゃないかと思うんですが、都道府県の首長さんのほうにもいろいろお仕事があって、首長さんの御都合があるんです。実は、住民代表ということと、つまり、住民との関係で最も重要なこと、つまり、デモクラシーの根幹にあたることは、住民に負担をお願いする、端的に言えば課税する、税についての条例を改めたり直したりする場合は、誰ができるかと言うと、代表機関以外はできない。「代表」ということと「課税」ということは、デモクラシーの命綱になっているんです。
 ところが、これを平気で都道府県議会は抜いている。国のほうの税法の改正が年度末に集中するということもあるかも知れませんが、それでも今、都道府県議会はあの条例改正の時にほとんど専決処分でやっている。専決処分の理由が、「議会を招集する暇がない」んですよ。おちょくられているでしょ、この法律規定は直ちに削除です。明らかに。こんなことは誰が見ても、「暇がない」なんてことは証明できません。なぜこんなことをやるかと言えば、面倒でしょ。だから、首長さんは専決処分をやってしまうんですよ。しかも、後で、仮に議会のほうでそれについてものを言っても、別に直す必要がないような解釈になっているでしょ。これは議会が住民の負託を受けて、代表機関である最も大事なことをないがしろにしています。このことを直さないでいる限り、県民は絶対に議会を支持しません。と、私は思います。少なくともそんなことはとうの昔に直していなければいけなかったことではないかというふうに私は考えます。
 それから、本日、議会の事務局の皆さんがおいでですが、議会の事務局の扱い方も、これも圧倒的に執行部優位の体制のパラダイムの中で仕込まれてきました。その証拠に、これだけのお仕事をする議会の事務局のスタッフの数の少なさ。それからもうちょっと言うと、実は私はこれも変だと思っているんですが、議会はある集団になっていまして、機関ですから、議会が議会として固有の活動をする時に、この予算編成権と予算執行権を持っていない。この国の議会は。
 同時に、これも今回勉強して変だなと思ったんですが、本会議の議事堂の秩序維持権は議長さんにある。ところが、本会議の議場を出た廊下の秩序維持権は議長さんにはない。議会事務局長さんが、知事の委任を受けて始末をつけるんですって。議会が独自の二元的代表制の一角、住民の代表機関として、集団として、最低限自分で自分のことを組織、管理する権限さえも奪われている。この国の議会は。それが集中的に事務局に表れるんですよ。
 御案内のとおり、事務局の職員の人事権は、本来なら全部議長さんにある。これは運用問題ですから、議会のほうに責任はないとは言いませんが、実は私が、これも前から変だなと思うのは、議会の事務局が果たす役割は、法的には何て書いてあるかと言うと、「議会の庶務をやる」と書いてある。庶務とは何か。つまり、議会を補佐する議会事務局の活動は庶務的な活動でいいという発想なんですよ、これは明らかに。文言からそうなんです。庶務も万般ですから、うんと拡大したらいろんなことができますが、庶務なのです。古色蒼然とした庶務を担当しろと言われている。これで議会の事務局の職員が張り切れるでしょうか。少なくとも、こんな文言も許しているのは、やっぱり議会としては怠慢の限りだと思います。これで議会の職員に働けとは言いにくい。
 ということは、それならば議会の事務としてはどういう活動を補佐するのか、議会のどういう役割について、議会の職員が意欲や能力を問われるんだろうか、そのことについて本格的に考えられるべきだと思います。したがって、圧倒的に執行部優位の、これは行政をやるからなんですが、行政をやるにしても、議会の事務局のこの手薄の状態を前提にしながら、今後、議会の機能を強化しろとは何のことでしょうか。もうちょっと二元的代表制の一角を占める議会が、議会の機能をきちっと果たし得るための体制をどうやって作ればいいか、そのためには人事のやり方を含めて、全体として議論すべきではないかと思います。
 最後に一言だけお話申し上げて閉じたいと思います。それは、実は私どもが今研究会のほうで悩みつつ、やっぱり思い切ってものを言っていかなければいけないかなと思っているのは、戦後のさまざまな法律の扱いの中で、議員さんの公的任務、議員さんの活動がとっても曖昧になっている。どことの関係で曖昧になっているかと言うと、さっき言いました、身分と定数と報酬の関係が実に曖昧になっています。現在のところ、法的に言いますと、一般行政職と同じように、一般職と特別職に分けて、特別職のうち、皆さん方議員さんは非常勤になっています。非常勤だから、実働に合わせて報酬を払うということになりますから、したがって、報酬になっている。そうすると、議員さんたちの活動というのは、この活動が報酬に値する公務であると、どこかで限定しないと、この報酬は決められないという、甚だ変な恰好になっている。
 私は、パラダイム転換の一つは、この地方自治法の扱いを改革すべきだと思います。公選職である議員さんは、独自の分類基準で独自の地位を与えて、したがって、この公選職の議員さんは何をやる活動で何人がふさわしくて、したがって、どういう報酬がふさわしいかということについて、きちっとした体系で成り立たせるべきだ。これをやらない限り、必ずゴチャゴチャ、マスコミを含めて、ろくな活動をしていなくて議員の頭数が多いとか、報酬が多いとか、この旧来の議論から脱却できない。したがって、地方自治法上の公選職としての議員さんの位置付けについて、新しい位置付けのカテゴリーを作り出す、この改革をもってする以外に、議員さんたちの新しい時代の中で果たす役割をはっきりとした形では設定できないのではないかと思い始めています。
 多分今程度の議会でも大変だからこれ以上重視しては困ると考えている首長さんからは、私どもの議論は歓迎されないかも知れない。そういう首長さんは、実は本当は意欲と能力に欠けていると私は考えていまして、どこの改革派の首長さんも、みんな議会改革をやれとおっしゃり始めた。地方自治がいいものになるためには、議会自らがいいものになって、はじめて自治はいいものになるんだという首長さんがおいでになるところが、議会の活性化に至っている理由が明白だと私は考えます。地方自治論者として、行政を勉強している人間として、もう一歩、地方議会をいいものに変えたい、そう思って本日まいりました。
 ありがとうございました。

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