このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

スマートフォンサイトへ移動

三重県議会 > 県議会の活動 > 委員会 > 委員会会議録 > 平成17年度 委員会会議録 > 平成17年10月31日 東紀州地域経営調査特別委員会 会議録

平成17年10月31日 東紀州地域経営調査特別委員会 会議録

東紀州地域経営調査特別委員会

会議録

(閉 会 中)

開催年月日   平成17年10月31日 自 午後 1時03分 ~ 至 午後 2時55分

会議室     第601特別委員会室

出席委員    9名

委員長 森本 繁史 君
副委員長 田中 博 君
委員 青木 謙順 君
委員 桜井 義之 君
委員 萩野 虔一 君
委員 島本 暢夫 君
委員 橋川 犂也 君
委員 中川 正美 君
委員 藤田 正美 君

欠席委員    1名

委員 山本 勝 君

参考人     3名

三重大学   石田 正昭  君

紀南ツアーデザインセンター

橋川 史宏  センター長

熊野少年自然の家

小西 豊秀  所長

傍聴議員    0名

県政記者クラブ   4名

傍聴者     0名

議題および協議事項

I 調査

 1.東紀州地域関係有識者との意見交換

 2.その他の事項について

II 委員協議

 1.次回の開催について

 2.県外調査について

【会議の経過とその結果】

〔開会の宣言〕

I 調査

 1.東紀州地域関係有識者との意見交換

  1)紀南中核的交流拠点と東紀州振興について

○森本委員長 まず、三重大学の生物資源学部の石田正昭教授にお話をいただきます。

 石田先生は、皆さんのお手元に配布してあります紀南地域の振興策を作成に当たって、委員長として大変ご尽力いただいた方でございますので、あわせてちょっとご紹介させていただきます。それでは、石田先生、よろしくお願いします。

○石田教授 今、ご紹介いただいたように、15年2月にまとめた振興策の委員長をさせていただいて、その後、約2年間ぐらいブランクがありまして、今回、またさらに構想委員会の委員長をさせていただいて、まとめさせていただいたと、こういう立場でございます。今日与えられているテーマが紀南中核的交流拠点ということと東紀州振興ということなので、若干私も東紀州全体でどういうふうにとらえたらいいのかなということをちょっと今までとは違う切り口で考えてきましたので、そこの点をご披露してから、紀南の中核交流拠点施設のお話をしたいと、こんなふうに思います。よろしくお願いします。

 まず、東紀州振興というわけですから、基本的には、紀南と紀北の2つを1つのように考えて、どういうふうな振興方策があるのかというようなことが重要になるだろうというふうに考えました。そのときの視点というと、紀南、紀北を結ぶ大きな今のテーマは熊野古道であろうというふうにとらえまして、じゃ、この熊野古道を使ってどういうふうに2つの地域を結びつけるかと考えたときに、伊勢志摩の国立公園と、それから熊野吉野の国立公園を、伊勢神宮と熊野大社を結ぶというのが熊野古道であるかもしれないけれども、現代的に言えば国立公園と国立公園を結ぶ重要なルートだという、そういう発想をとってはどうかと。国立公園というのは基本的には自然を守るというようなことであれば、その自然と自然を守る間をつなぐ文化遺産だという位置づけで、この地域全体をとらまえてはどうかということが1点でございます。

 もう1点は、吉野熊野国立公園は、三重県だけじゃなくて、三重、和歌山、奈良、3県を網羅しているわけですから、実は要するに紀南というところでお話が終結するわけじゃなくて、いわばその3県をエリアとするような一体的な地域振興というのかな、観光というものが必要になるんではないかなと、こんなふうに思います。これは委員会を開いているときに東京からお呼びした先生もご指摘になったけれども、熊野古道とか言っても、3県がばらばらにPRしていては東京だとかに対するインパクトは全然ないとおっしゃっていて、このあたりのことは今後3県がもう少し連携を持ってやっていくと。そういう中で三重県の方は、伊勢志摩国立公園とを結ぶんだというような発想の地域振興策の考え方が必要ではないかなと、こんなふうに考えます。これが第1点です。

 それから、第2点は、東紀州と言ってやっぱりちょっと戸惑うのは、多分、僕以上に先生たちの方、お住まいになっている方々たちの方が多分戸惑うと思うんですけど、基本的にはどうも文化圏は違うというふうに思います。極端に言えば、紀南の方は新宮、和歌山と経済的に一体化しておりますし、尾鷲とは違う圏域になると。昔、そこは非常に矢ノ川峠は交通の難所であったということで、何というんですかね、道も険しかったというふうに聞いておりますし、海路で人々が往来していたと、こういうふうに聞いています。

 現在は42号線という道路があることによって、それは30分で結ばれるわけでありますけれども、本当の良さというのかな、あの地域の持つ自然の良さというのは、実は味わわないまま道路で30分で行っちゃうということがありまして、これからの地域の振興の一つは、伊勢志摩、吉野熊野を結ぶというときに、陸路も必要かもわからないけど、もう一つ、海路も考えていく必要があって、海から見た景観とかというものをやはり大事にしていく施策が必要ではないかなと、こんなふうに思いまして、ここには尾鷲から熊野あるいは志摩から熊野のクルージングルートというのをやってくれるような事業者というのを今回の中核交流拠点整備の中で連携して探し出してくる、あるいはそういうのを創り出すような事業体を連れてくるということが必要ではないかなと、こう思っています。

 第3番目は、紀南と紀北は基本的に違うというふうに思いますけれど、それでも一つになる論理って何だろうなと、こういうふうなことでございます。紀南の今回は中核交流拠点の仕事をさせていただいています。仕事上、紀北の方もよく行きます。今、名前が変わりましたけれども、海山だとか、紀伊長島、尾鷲の仕事もしますが、基本的に紀北は漁業と林業の町で、ほとんど農業というのはございません。尾鷲に至ってはほとんど農地は無いと。若干、夏ミカンのところがあるというのが、そうかなと。あそこはあそこなりに、また非常にいい景観がありますから、もう少し天満浦といったかな、あたりを開発する必要もあろうかと思いますが、基本的に紀北は林業・漁業だと。紀南は農業だと。

 だから違うんだという言い方もあるんですけれど、それらを合わせれば農林水産業という一つの、県民として守るべき価値を持っている地域であるという、そういう位置づけができるというふうに思います。北勢・中勢というのは、どちらかといえば開発、商業的な開発、工業的な開発という方向で行くんであれば、自然を守るような人たちの生活している地域としての東紀州と。あるいは海や山や、その間の陸や園地、こういうものがある東紀州というようなことで、一体感を創っていく必要があろうかと、こんなふうに思います。

 その上で、山を守るというか、海を守るというか、農地を守るというような、そういう考え方をとる必要があろうかと思いますが、今、例えば速水林業さんなんかが盛んにFSCということを言っておりまして、三重県全体もFSCという方向でいっていますが、あの言葉をここに英語で書きましたが、Forest Stewardship Councilということで、日本語に訳せば森林管理協議会、それの日本の第1号は速水林業さんでしたけれども、世界的に見るとMSCというのも実はございまして、海洋の自然環境を守りながら、適正な漁業をやり、品質の高い水産物を提供していくという、そういう世界的な団体であります。これをいち早く三重県の中へ取り入れ、特にあの地域で取り入れるということをやるということが、一つのトータルな意味の地域の価値を上げていくと思っています。

 その上で、実はASCという、これは僕が勝手に造語をしたわけですけれども、アグリ・スチュワード・カウンシルと。これは農地の管理協会ということで、スチュワードシップというのは、ここに書きましたが、全知全能の神の代理人として自然を適正に管理する人間行為ということで、この農林水産業を中心とした地域振興というときに、自然を適正に管理するという、そういう共通のミッションというか、そういうものを共有しているということで、全国的な意味での価値を上げていくということが重要じゃないかなというふうに思っています。

 以上3点、今回は、紀南中核的交流拠点ということだけではなくて、それと東紀州振興ということを結びつけた場合、どんなことが言えるのかなということを考えたことをお話ししたところでございます。

 今度、紀南中核的交流拠点というようなテーマに移っていきたいわけですが、交流拠点をこの振興策の中でもうたっていますが、これは北川県政時代からの流れをくんでいる考え方で、この振興策がまとまっていますが、基本的にはそれをやはり今回もずっと継続して持たせていただいているというふうに思っています。その中で、今日は後で橋川さんだとか小西さんから、そういう観点から集客交流する基本的な─基本的な考え方というのは、エコツーリズムとか、スローライフとかというのを含めた集客交流とはどういうものかということを後でお二人の方からお話しいただくと思いますので、私は全体的なお話をさせていただくとすれば、基本的には今申し上げた、まず第1点は自然を守ると。あるいは自然を再生するという地域の取組を全域でやっていただくというのが、あの地域の価値を上げるというふうに思います。

 後でお話しいただくかと思いますが、ほぼ、何ですかね、2007年問題というんですかね、60歳定年を迎える団塊の世代、実は私もそれに近い世代でございますけれど、今、この世代はものすごい忙しい立場で働いています。そして、神経をすり減らしてへとへとになって、昔だったらもう少し余裕があったと思うけど、もう一度この世界でビジネスで働いていこうというのは、よっぽどの成功者しかいないんじゃないかと思うんですね。もっとゆとりを持った生活をしたいという人が実は満ちあふれているんじゃないかなと、こう思います。そのときに世界、外国へ出ていくというのも一つの方法でしょうけれども、自分の残りの生活をどう楽しむかというとき、もっとのんびりできる、時間の流れがゆったりするようなところへ住んでみたいなというようなことは大いにあろうかと思います。全国のあちこちで農家の空き家を紹介するような、家賃も取らないで住んでもらうような、そういうようなことをあちこちでやっていますけど、そういうような人たちに応えられるような地域でもあろうかと、こういうふうにこの地域を思っております。

 しかし、そうはいっても、やはり第2番目の柱としては、交通基盤の整備というのは重要であって、今度、どこまで道路ができるんですかね、紀伊長島まで行くのかな、その手前かな。

〔「高速道路は長島で、そのあとは熊野までは国土交通省の直轄で、熊野までは行きます」の声あり〕

 大体、今、津から熊野まで2時間半かかるけど、多分2時間ぐらいで行けるようになろうかと思います。こうなるとかなり随分違ってくることでありますが、なお整備は必要であろうと、こんなふうに思っています。

 第3番目は、今回の集客交流拠点の整備であります。

 今回の我々の委員会でも一番重視したことは、地域との連携ということでございます。この振興策をまとめてから2年間、ほぼ私はこの紀南地域の問題から離れていましたが、その2年間に相当、地域が分裂状態に陥ったというふうに思っていまして、それがゆえに私がまた再登場してきたというふうに私自身は思っていますけれども、それはどうしてそういうことが起こったのかというと、ややこの中核交流拠点施設というものをどういう拠点にするのかというものに対して、私の責任といえば私の責任だけど、大きな柱というのを出していなかったと思います。

 それは要するに地域との連携をした施設でなければいけないということであって、今日、橋川さんとか小西さんをお招きいただいているのは、多分そういう視点から、ただ人が来て、泊まって、飲んで、食って、物を買って帰るという施設じゃだめだよと。地域の人たちと交流して、地域の人たちの暮らし方を学べるような、あるいは自然と触れ合えるような取組を提供できるような施設じゃなきゃだめだよということ、それを方向づけるのに2年間かかったと、私自身は思っていますし、まだまだそれが完全に実っているというふうにはなかなか私もまだ断言できないわけですが、この点は今後とも守っていただきたいと。いつも私は委員会で言っていますが、そうじゃなければ県が金を出す論理はないんですよというふうに口酸っぱく言ってきて、ご理解いただいているというふうに思っています。

 それと、こういう地域のもう一つのあれは、スポーツ振興ということだろうと、こう思いますが、心と体の健康というのをやっぱりテーマ化する必要があろうかと思っています。

 余り私も詳しくは知りませんが、産婦人科が無いとかというような状況ですね。今回、三重大学の医学部も地元枠というのを設置したというようなことを踏まえて、ぜひこのあたりは改善の方向をしていただくということが必要であろうと思いますが、同時に、老化を予防するというような視点から、スポーツを大切にする地域として考えるべきではないかと、こう思っています。

 あそこでは、何ですか、「ツール・ド・くまの」というんですか、というのをやっていますよね。「ツール・ド・くまの」をやっていて、しかし、新鹿というようなきれいな湾がありますよね。三河湾のあんなところでトライアスロンやるぐらいなら─汚いですよ、実は三河湾というのは。ご存じだろうと思いますけど、富栄養化しましてね。そういうようなところでやるよりは、新鹿で泳いで、「ツール・ド・くまの」で自転車をして、そしてランニングするというような、地域として日本の中で最高だと私は思っていまして、今度の中核的交流拠点施設の事業主体に力量があれば、そういうものを招致するようなことも不可能ではない、むしろそのぐらいの力量のあるような事業体をお呼びできるような、これから広報活動ですね、これをぜひやらなきゃいけない。私も努力したいと思いますし、議会の先生方にもそれをお願いしたいと。多分地元の方々の一番の願いはしっかりした事業体に来ていただくということだろうと、こういうふうに思っていますので、こういう世界的なイベントを毎年やれるようなぐらいの力量のある事業体が必要じゃないかなと、こんなふうに思っています。

 それから、もう一つは、実は私はこのほかに木本高校と紀南高校の再編委員会の委員長もさせていただいていまして、ありていに言えば紀南高校の定員割れというような問題をどう考えるのかということでございますが、これをやっぱりもう一つの柱にしないと、あの地域はどんどん人材が弱くなり、脆弱化していくであろうと。

 熊野市長が聞いたら怒っちゃうかもわかんないけど、僕が思う限り、あの熊野市と御浜町の関係は、ちょうどこのあたりの都市で言えば、ショッピングセンターが郊外に行って町の中が空洞化していくのと同じように、熊野市の商店街はさびれ、御浜町に広がっていくような、新しいところに人が住み始め、そっちの方に商業地が移っていくという現象が僕は見られると思いますし、他方で、新宮市の経済力に引っ張られているということで、核が全然無い都市になっているというふうに思っているわけですね。

 それをどうするかというには、やっぱり人材育成ということが必要だと思いますが、基本的に委員長をさせていただいて、小・中・高の先生たちの何て言うんですかね、連携が非常に弱いというふうに感じています。これを今、一生懸命やっていますが、一方では私は、高・大連携といいまして、木本高校、尾鷲高校と三重大学全体の東紀州講座というのも今年から連続8回開講するようなことをさせていただいて、地元の方々、学生さんに大いに喜び、また先生たちも、非常に熱心な学生さんがいるということで喜んでいただいていますが、小・中・高が連携し、高・大が連携し、我々大学があの地域の産業と連携することによって、地元に戻れるというような、有能な人材が残れるというようなルートをぜひ創っていきたいなと。三重大学もおかげで法人化以後、やはり地域に根差した大学として、こんなことを言っちゃいけませんが、三重大学の主たるお客さんは北勢じゃないんですね。中南勢なので、ぜひともそういうところをやっていきたいと、こんなふうに思っています。

 同時に、木本高校の2クラスと総合科5クラスというのは、これは木本高校が中途半端な学校になっているという私は大きな原因で、特にこの総合学科5クラスは多過ぎるというふうに思うわけですね。進学校であろうと私は思っていますが、そういう性格が非常に、一部の学生たちだけがそういう気持ちを持っているというふうに感じて、あとは名前にすがって通学している学生さんが多いというふうに思っています。一方で、紀南高校は普通科と称していますが、実質は単位制の総合学科と言っていいんじゃないかと思いますが、こっちの方の魅力も、普通科と言いながら単位制の総合科になっていまして、これも魅力の無いことになっていますから、全体としてあの地域、これは私の仕事ですけれども、あの地域の高校の良さをどう作っていくかというのは非常に難しいものがあろうかと思います。

 どういうふうに作るかは別として、ここに書きましたが、樹木医とか、園芸セラピーとか、製菓パティシエというようなこういうキャリア教育ですね、こういうものができるようなことにした方がいいと思います。実は相可高校、ご存じだろうと思いますが、私も相可高校のやっぱり専門委員をさせていただいてて、大変な人気なわけですね、調理科と製菓パティシエ。調理学校というんですかね、ここで言うと大川学園みたいなですね、ああいう学校はあの地域には1校も無いと聞いています。だから、例えば自分は調理師になりたい、あるいはパティシエになりたいと思ったら、あの地域には何も無いですから、結局に津に出てくる、松阪に出てくるというようなことしか無いので、民業圧迫にならないと思います、そういうところで製菓パティシエコースを作ったりしても。というふうに思うので、もう少し、私も、再度、何回も言いますが、自分の責任とも思っていますが、もう少し特徴のある学校づくりをしたい、あるいはその旗振りを先生たちにお願いしたいと、むしろそういうふうに思っています。

 それから、もう一つ、あの地域を良くするのは、学術交流拠点を作ったらいいと、こう思っています。今、あそこにはかんきつセンターというのがありますが、かんきつというのもあそこの一つの産業でありますが、黒潮だとか、森林だとか、地震、津波、イルカ、クジラに、あそこで言う熊野学というんですかね、歴史とか文化、こういうものの先生たちをお呼びできる施設、あるいはそこでセミナーだとか、あるいは場合によっては長期滞在して研究できるような新しいイメージの研究施設にしてはどうかと。上級な人がたくさんそこにいるという必要は僕はさらさら無いと思うけど、全国で有名な先生が、これらの分野の先生が、そこに来て研究活動ができるような施設というのをお作りになるとすれば、その先生たちがセミナーを開いたり、学科を開いたりして、世界の人を呼んできます。そうすると、まさにあそこで世界の人が集まってくるような会議が開けるようになるはずです。

 実はこのかんきつだとか、黒潮だとか、森林、地震、津波、イルカ、クジラというのは、先程お話しした木本高校と尾鷲高校と三重大学の高・大連携講座というのを開かせていただいたその講義の中身でして、三重大学にはこういうことをやっている先生がいるんですね。いるので、こういうことのデザインをする場合には三重大学も大いに協力できると思うので、このあたりもあわせて地域振興の柱として考えていただきたいなというふうに思います。

 最後に、今度の中核交流拠点整備の極めて現実的な具体的な問題を申し上げて、終わりにしたいと思います。

 15年2月にこの振興策をまとめました。そのとき私は、買収する土地は一部であろうが、全体計画を作らなければ、地元の人のためにもならないし、できるものが中途半端になるよというふうに思っていました。今のまま、このまま進むと、非常にやっぱり私が懸念したようなことが起こると。起こり得ると思っています。どうしてかというと、多分、総務局との話し合いの中で、ある予算枠が決められて、その枠の中で買収できる土地が面積が決まって、その中でこういう土地を決めたというのが実態だろうと思います。それは現実としてはそれがいいかもわからないけど、全体の金山パイロットをどういうふうな形で集客交流に結びつくようなものにし、そしてこの不良農地をこういうふうな活用をするか。こういう優良農地を─優良農地というのは地元の農民も使いたいわけですよね。だから、今度のあれでも景色がいいようなところを買収しますけど、あれは本当は地元の農民からいえば売りたくない土地ですよね。買ってもらいたい不良農地を本当に買っているのかという問題があるだろうと。買ってもらいたい土地は全部買ってもらったのかというのは聞いていませんけれど、そういうようなことを本当にこの2年間やったのかと。やってこういう経過が出てきているのかというふうに私は思っています。

 不良園地を買ったのか、優良園地は買わなかったのか。あるいは全体の計画を作って、ここにこういうものを作る、あとはこういうフットパスを作る、散歩道ですね、遊歩道を造るとか、こういうアクセス道路を造るとか、このアクセス道路には電線を地下に埋設して、環境に配慮した交流拠点にするんだという発想を持ってやったのかと。どうもこの2年間、非常に私自身は不信、地振にですよ、不信感を持っていまして、何か予算の中だけで議論されていたような気がしてならないわけであります。

 それから、もう一つは調整地、これもまた予算の話になってあれなんだけれど、2つ調整地を大きいのを造ろう、小さいのを造ろうとなっています。小さい方は、確かに今度の中核交流拠点の何ですかね、集水域に入るかと思いますが、大きい方のかなりの部分はほとんど防災拠点施設ですよね。ヘリポートですよね。その大きい方も、何かこう全体面積で割り当てる、アロケーションするというんであれば、ちょっとこれは不公平じゃないのというふうに私は思っているんで、このあたりも本当はもう専門家に入っていただいて、あの2つの池のですね、本当にどうアロケートしたらいいのかというのをきちんとやったらいいといつも言っています。言ってますが、きちんとした回答をいただいていません、いつも。いうことがあります。

 それから、もう1点、いつも言っていることは、募集するんだったら、地質調査をやって、そのデータを提供するのかと、こう私は言っています。これもまた、いつまでたってもきちんと回答がもらえません。どうしてそういうことを言うのかといったら、例えば来年1月から募集するとなったら、ある30億円規模の設計をしようと思ったら、まず地盤の造成にいくらかかるのというのをやっぱり確定しなければ、建物だろうが決定できないと思うんですね。そうすると、もし応募者は、例えば3つの会社があそこに入っていったら、もうそこだけであの地域は混乱しますよ。あの会社が来た、あの会社が来たと。ここのところはうんと考えていただかなきゃいけないけれど、まず大ざっぱでもいいから、きちんとそこまでの現地調査に行かなくても把握できるような地質調査結果を応募者に提供すべきだと、こんなふうに私は思っています。

 それから、最後でありますが、中山間活性化施設というのが今年の12月までに実施設計に入ると、こう聞いています。ここで何をやるのかというのがはっきりしないといけないと思うんですが、同時に、事業者の応募は1月から始まりますので、その応募者とは関係なく、まず中山間活性化施設の、加工施設ですけど、何を作るのかということを決めます。例えば、そこで仮に積極的な加工アイデアが出たとしたら、今度の中核交流拠点とどう手をつなぐのと。

 うまく手をつなげば、そんな加工施設を連携するんであれば、今度の中核交流拠点施設にそれほどの、むしろ連携するという視点で考えれば、それほど投資する必要は無いわけです。あるいは中核交流拠点で入ってくる事業体が、いやそんな農林が作るようなのじゃおれたち困るんだと言い出したら、二重投資になりますよね、同じものを作る。おれたちもジャム作るんだ、いやおれたちもジャム作って、両方で、あっちではこっちのジャム、こっちではあっちのジャムを作って、あっちは有機だよとか、こっちはあれだよなんてこと、ばかみたいなことをやらなきゃいけない。そこのところは、だから調整できるような仕組みにしておかないといけないんだけど、このタイム差にやはり問題を起こす原因が潜んでいるというふうに私はひそかに思っています。

 以上、時間ちょっと延びてしまいましたが、今、私が考えていることを率直に述べさせていただきました。ありがとうございました。

○森本委員長 ありがとうございました。今までのいろんな形での研究なり、議論の中でいろんな自分の持論というのを発表していただいて、私らもまた、ずっといろいろ先生のお話を聞かせていただいた中で、また目新しい話も聞かせていただいたんですけど、委員の皆さんの方から何らか、先生の方にご質問なりがありましたら、どうぞよろしくお願いします。

○桜井委員 今日はありがとうございます。先生のご指摘の中で、特に景観であるとかというキーワードですね、ここらは議会の我々も幾つかの提言を過去にさせてきていただいた、やっぱり空間の快適性を高めたり、それは自然環境もそうですし、その地域トータルの話になろうかと思うんですが、そこらが非常に弱いんであろうと。今回の東紀州振興については、そこらキーワードを幾つかご提言というか、いただいておるわけでありますし、なかなかそれが具体的に次の展開になっていかないというのがじれったい思いもあるんですね。

 ここで景観条例云々というようなお話もさせていただいておるんですが、そこらをどのように具体的に一歩進めていくか、そして全体の空間の質、景観、もう一枚磨きをかけていくことができるかという視点でのご所見というか、お考えがありましたら、ぜひこの機会にお伺いします。

○石田教授 委員会でも、実は、あれは長野県飯山市で、例の取組を鍋倉高原というところの支配人に来ていただいてお話を聞いたときに、飯山市では、景観条例を作ったとは言ってませんでしたけれども、例えばコンビニの看板も、普通であればこのぐらいの高さがあるんであれば、このぐらいの高さに下げたと。それを商業界というんかな、地域の商業者の人たちのご理解をいただいて立てたとか、あるいは看板を取り外しただとかということをおやりになったと。飯山市がですね。

 したがって、ありていに言えば、熊野市さんがどれほどその気になるかと、こういうことだろうと思いますが、前回、知事にこの提言をお持ちしたときに、私の3ページ目に、ちょっと先程言いそびれましたが、5つ程、事業外での今後の地域振興に向けての展開ということで、委員長私案ということでさせていただいております。これはどういう意味かというと、今回の30億円という予算の枠ではできない範囲の仕事なので、委員会の仕事ではないけれども、この中核交流拠点の効果を高める上では絶対やらなければならない仕事でしょうというお話をさせてもらいました。その中で2番に、景観の確保とうたっております。委員、先生のご指摘のとおり、私もそう思っていまして、そのように知事にお話ししたところ、知事の方から、景観条例はあの地域で定めたいと、こういうふうなお答えをいただいたので、これはやっぱり、県がこれだけの金を出す以上は、地元はそれに応えるようなことは必要であろうと僕は思うんですけども、いかがでしょうか。

○桜井委員 ぜひトータルの何か景観を高めていくような制度、仕組みを県なり、市なり、あるいは地域レベルでも、この間も商工会議所の皆さんが鬼ヶ城センターのこの隣の廃墟になっておるところを自主的に撤去するというようなことをこの間おっしゃっておられましたですね、そういう動きが始まってきたり、官民全体のこの取組の質が上がるようなお声、議会も考えていかなあきませんが、それも先生方のさらなるご指導をいただきたいなというふうに思っていますので。

○石田教授 これもまた手前みそになって恐縮ですけど、うちの大学にもやっぱりこういう景観の研究をしている先生がおりますので、そういう先生のご協力も、今後もし必要であればとらせていただきたいと、こんなふうに思っています。

○森本委員長 あと、どうですか。

 それでは、予定時間でありますのであれですけど、今、もう先生、再度言われましたけど、この学術交流拠点の創造というのは、私たちも非常にこれは大切なのかなというのと、教育機関の再編成というようなことも一つのやっぱり今後課題にさせていただきたいと思いますので、またその節はいろいろご協力いただくということで、本日はどうもありがとうございました。

  2)紀南ツアーデザインセンターと東紀州振興について

○森本委員長 それでは、橋川参考人からお願いしたいと思います。橋川さんは、ご存じのように、紀南ツアーデザインセンターの所長をしていただいております。県の紀南地域のプロデューサーということでいろいろご活躍をしていただいておりますので、橋川参考人の方からお話を伺いたいと思って、よろしくお願いします。

○橋川センター長 今、石田先生のお話の質疑の中で景観の話が出てまいりましたけれども、例えば景観を整備することによって観光客の増大が見込めるというふうな読みのもとに、景観整備をしていく向きも大事な視点なんでありますけれども、もう一つ、美しい景観を保ちたい、美しい景観の中で生活をしたい、美しい景観の地域へ行ってみたいという、そういう人間の根源的な欲求に基づくような動き、そういうものを創り出していくという発想も私は大事だというふうに思っておりまして、物事の因果を解明するといいますか、紀南地域が集客交流の場としてこれから発展していきたいという一つの希望を持ってますけれども、道の駅を整備したり、いろいろ施設整備をすると同時に、紀南地域へ行きたいという、そういう理由を作っていくという発想が、今の時代、特に大事なんではないかなと。そのような考え方を基本にプロデュースの仕事をさせていただいて、ちょうど今、3年と3カ月余りたったところでございます。割合、熊野通になってまいりまして、少し他人様からもよく知っているなということで、自他ともに通になってきたぞというふうに思っているようなところでございます。

 そういう中なんですが、この9月1日から9日間、私、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステラ及びサンティアゴの巡礼道を訪問してまいりました。パリから入りまして、フランスの最南端のサン・ジャン・ピエド・ポーというピレネー山脈の北側の小さな町をスタートしまして、ピレネー山脈を68キロ歩いて越えて、スペインのパンプローナという昔のナバーラ地方の、ナバーラ王国という国もありましたけれども、その地域の中心都市まで歩いて、そこからまだ800キロ程残っておりますので、これは飛行機で飛ばせていただいて、少しばかり巡礼をした後、巡礼道を歩いた後、サンティアゴ・デ・コンポステラの大聖堂で巡礼者のための儀式に参加させていただいて、帰ってきたんですが、私はカトリック教徒ではないんですけれども、カトリックはいいなと思わず思ってしまうようなすばらしい体験をさせていただいてきました。

 巡礼道を歩くということは、これは日本だけではなく、やはり西欧の聖地巡礼においても大変な苦難を伴う作業でありまして、私どもはたまたまフランス人、それからニュージーランド人、カナダ人、それからスペイン人等々と一緒に歩いておったんですが、お互いが、大変だねということで励まし合いながら歩く様子を体験して、最後、大聖堂にたどり着くと、巡礼者、100キロ以上歩いた人、それから200キロ以上自転車もしくは馬に乗ってやってきた人に、巡礼証明というのが出るんですね。その巡礼証明を得た人たちのすべての人の出身地と、それからどこから歩き始めたかということを読み上げます。1対1のサービスが立派なカトリックの権威を誇るような教会の中で行われるんですね。イエスキリストの血と肉を分け与えるための聖餐式という儀式に参加して、それからボタフメイロというテレビなどでごらんになられた方もいらっしゃるかと思いますけども、大きな香炉を大聖堂のホールの天井いっぱいまで振って、香をすべての参列者に振りまくという儀式をして終わるわけですけれども、人間の感性に訴えかけるような見事な演出がしてございまして、それはイベントの演出のようなものではなくて、千数百年、人が磨きに磨いてきた、地味だけれども心にじんとくる、はっとするというふうな演出がございまして、それに酔いしれて帰ってきた次第です。

 サンティアゴ・デ・コンポステラは、詳しいデータがなかなかとれないので大体の数字ですけれども、10万人弱の人口、そこへ年間50万人の巡礼証明を受けた人たちがいる。その中にはもちろん聖職者、純粋のカトリック教徒も含めて、一般の歩いた人も含めて、巡礼証明を受けた人が50万人、それからバス等でやってくる観光客数が約1,000万人ということで、さすがキリスト教の3大聖地の一つと言われるだけの賑わいを見せておりました。

 日々、生活をさせていただいている熊野はどうなのか。これ、日本の聖地の一つでありますけれども、歴史をひもとくと、平安時代末期から鎌倉時代にかけては大変な賑わいがあったと。蟻の熊野詣でという言葉も残っておりますけれども、現代における熊野の位置づけというのは、明らにサンティアゴ・デ・コンポステラのカトリックの人たちがやっていることとは全く違うことが行われているだろうと。私は宗教あるいは信仰の活動をやりましょうと言うつもりは毛頭無いんですが、サンティアゴ・デ・コンポステラに行きたいという気持ちを持った人がたくさんいて、人が集まってくるという現実を見たときに、やはり熊野にも、何らかの意味合いで熊野に行きたいと。熊野を見なきゃだめなんだという理由をつけない限り、大きな、地域を動かしていく変革というのは難しいだろうなという気がいたしました。

 熊野地方はかんきつの栽培が非常に盛んでございます。特に御浜町を中心にパイロット園地がたくさん広がっておりまして、約40億円の売り上げのある重要な産業になっておりますけれども、これは昭和30年代に始まった事業としてのかんきつの栽培なんですね。40年代に、儲かるぞということで次々と山が切り開かれていって、いわゆる産地化していったわけです。

 このかんきつの栽培というものが紀南地域における熊野らしさを物語る一番の武器なのかどうか、この辺の見きわめがとても大事なんじゃないかなというふうに思うんですね。私は、産業の一つとしてかんきつの栽培をさらに振興し、品質を上げていく努力、これはやっていかないといけないと思いますけれども、戦略として、地域のイメージを創っていく手段としてかんきつが一番の手段なのかどうか、これは別問題だと。このあたりの議論を、つまり紀南地域をブランド化していこうと思えば、ブランド化のための戦略を練るという別の作業をしなければいけないんじゃないかという観点で紀南ツアーデザインセンターを作らせていただいて、それを私なりにできるプロデュース活動として位置づけをさせていただいているところであります。

 お手元に簡単な資料をお配りさせていただきました。

 1、紀南ツアーデザインセンターの目指すものとして、幾つか書いてあります。基本的なことですのでちょっと読ませていただきますと、去年の6月7日に設立、プロデュース活動による集落交流事業の私なりの改革の提案として、これにツアーデザインセンターの事業に乗り出していきました。紀南地域振興協議会の機関として運営されてはいかがですかという提案を受理していただいて、設立の運びになりました。

 現在、従業員が8時間換算で3.6名、実際、頭数とすると6名がおるんですが、運営をしております。昨年度、ちょうど1年間で1万845人の来客がありました。年間20から30のペースでモデルツアー、ミニイベントを実施しています。平成16年から3カ年ということで、平成18年度まで環境省のエコツーリズム推進モデル地域に指定をしていただくことができました。それに基づいて活動している中で、本年度、環境省のエコツーリズム大賞特別賞を授与していただくことができました。

 事業目的のところなんですが、名前の紀南ツアーデザインセンター、これの名前のとおり、旅を設計する、旅のあり方を設計する、それはひいては紀南という地域のデザインにつながっていくだろうと。そうすることによって、人の関心が集まる魅力的な紀南地域を作っていこうという事業目的を持っています。実際にやっていることは、モデルツアーをやったり、松本峠の木本側登り口のすぐ近くですので、古道客をおもてなししたり、それ以外のお客様も休憩施設として使っていただいています。それから、地域産品の販売等を含めた地域情報を発信すると。

 それから、地域づくりの拠点と書かせていただきましたけれども、いろんな地域づくりに貢献している人たちの活動のアドバイザーとして私が参上させていただいて、一緒に活動をしています。例えば、紀南地域における熊野市というのは、地域のやはり中心都市であるべきだというふうに思っているんですね。ほかにも中心箇所はあっていいんですが、歴史を考えるとやはり中心の一つであるべきだというふうに思います。そこで、松本峠から木本の旧街道の町を通って花の窟に至るまでの一角を集客交流の拠点として整備をしたらどうでしょうかという提案をさせていただいて、住民の方々と活動をする、そういうふうな地域づくりの拠点として活動をしています。

 もう一つ、環境省との連動の中でエコツーリズムの推進ということをやってきておりますけれども、その中で、エコツーリズムというものがまだまだ地域の中で理解をしていただいていません。一般的にはエコツーリズムの定義というのは3つの観点から説明をされていて、1つは自然や歴史や文化をテーマにした旅である。そして、それらの活用と保全を目的意識として持っていると。それから、それらを通じて、その活動を通じて経済的メリットを享受できる、そういうものをエコツーリズムというふうにとらえられていますけれども、どれか一つ当てはまればいいんですかということではなくて、やはり全体として地域の中に、地域をトータルで取り込んで、地域の環境や地域の発展の方向性に対してなじみのある、そういう旅の姿を実現できるものがエコツーリズムであるというふうに考えるべきだというふうに思います。

 そういう活動は、最終的に紀南地域の振興策の中でうたわれておりますプロデュースセンターの活動そのものになっていきますので、将来は紀南ツアーデザインセンターというのは、プロデュースセンターへ脱皮というふうに書かせていただきましたけれども、もっと単なる集客事業だけではなくて、地域の考え方、地域を切り開いていく考え方そのものを正面から扱う機関にしていきたいというふうに私は今のところ考えています。

 こういう活動の中で、ちょっとこのメモには書かせていただかなかったんですが、私は地域おこしをしていくためのキーワードは、基本的に2つあるというふうに考えています。キーワードの一つは宝探し、もう一つはスローという言葉ですね。

 宝探しというのは、地域に眠っている大事な宝物を探しましょうという、これはもう全国で今言われている言葉でありますけれども、何をもって宝と認識するかという大事な問題が残っております。例えばある農作物を持ってきて、市場へ持っていけば売れたよと。これはもうお金にかわったから、これは宝だという認識の方法もございますけれども、紀南地域らしいものをですね、紀南地域でしかありませんねというものを持ってきて、それを売るのは苦労したけれども、喜んでいただいて、お金にかえました。おそらく今の時代で言われている宝物というのは、後者の方だというふうに思うんですね。そういう宝物を探す。それはもう現場、フィールドの中でしかないものです。ですから、地域の中にいろんな知恵や技術や、あるいはこれまで地域を動かしてきたというエネルギーが眠っているんだという、そういう信念を持って、ツアーデザインセンターというのはフィールド重視の活動をしていきたいというふうに考えております。

 それから、もう一つのスローについてなんですが、やはり基本的にはビジネスで物事をとらえないと永続性というものが考えられませんので、消費者ニーズをいかにつかむか、時代の動きをどう把握するのかということが大事なテーマになってまいります。私は、スロー、それからファースト、そしてもう一遍スローという、この流れを大事にしたいというふうに思いますけれども、日本の社会も西欧の社会も、ほかの地域の社会もみんなそうですが、基本的にすべてスローでありました。そのスローは、私たちの原体験、子どもやあるいは若い頃の原体験に残っているぐらい、古いスローはまだまだ新しいものなんですね。すべて死に絶えているものではない。それが昭和30年代ぐらいから突然ファーストの世界になっていって、気がついたときに、このファーストの世界の向こうに何も見えないじゃないかという、そういう認識が今広まっているんだというふうに思います。だから、もう1回スローなんだというのが今の時代なんですが。

 よく言われることがあります。田舎へ行ったときに、非常に田舎っぽい。そういう環境に入ったときに、これは田舎くさいですよ。それから、古いものを好きですよということで古いものばかり集めていると、古くさい。こういう問題がありまして、今の時代のスローというのは、昔のスローの要素を持ちつつも、現代人が求めている快適性やあるいは豊かさとフィットする、そういうスローじゃないとだめだということですね。それから、古いものを大事にしようというその古さというものも、やはり同じように新鮮な古さ、矛盾するような言葉ですが、新鮮な古さというものが求められているんだろうというふうに思います。だから、ただ単に懐古的にスローだと言って古いものを尊ぶ姿勢では、地域開発というのは恐らくできない。やはりファーストという洗礼を受けたスローを探し出すと。これが実は一番の宝探しなんだろうというふうに考えていますが、消費者はそういうものを正に求めているんだろうというふうに考えています。

 そこで、ちょっとレジュメの2の方へ移らせていただきますけれども、エコツーリズムをどのように推進しているのかということなんですが、私はこの理念というものがとても大事だというふうに思っています。エコツーリズムをやってみましょうということで、エコツーリズムの形をとってツアーを実践することは可能であります。目的意識だとか、基本コンセプトだとかということなしに、エコツーリズムは成立します。

 しかし、たくさんの人たちがその考え方を共有して、それから地域外の人たちもその動きをサポートする、そういう一つの動きを作っていくためには、理念というものを明確にする必要があるんではないかというふうに考えて、お手元にまた配らせていただいたこのエコツーリズム宣言という、このパンフレットのちょうど中面の真ん中に書かせていただいていますけれども、これからは自然とともに生きるということを大事にしていきましょうと。その生き方を生活文化としてとらえて、紀南エコツーリズムの中で一緒にそのすばらしさを共有していきましょうということを書かせていただいておりますけれども、その理念を最後まで忘れない、エコツーリズムの事業を開始したその気持ちを最後まで忘れずに持っていきたいというふうに思っています。

 それから、次に教育というふうに書かせていただきましたけども、人材育成の問題です。

 エコツーリズムを推進していくためには、地域の価値をお客様に紹介し、気づいていただくためのガイド役が必要であります。そこで、紀南エコツーリズムの推進ガイドリーダー養成講座という名前で、平成16年度、基礎編ということで、エコツーリズムとは何か、もてなしをするとはどういうことか、インタープリテーションというのはどういうことなのかということについての基本的な講座を開講いたしました。このときに約80名、79名の方が参加していただきました。その中からさらに、自分がエコツーリズムをやってみようという方が本年度、27名いらっしゃって、実践編ということで本年度もこのガイドリーダー養成講座を継続しています。本年度のテーマはメッセージ、いかにメッセージを自分の企画の中に込めるのか、あるいはいかに自分のガイドの中にメッセージを乗せるのかということについての現地訓練をしていただいているところです。ちなみに、来年度、平成18年度には、事業家編ということで、これを地域に根づかせていくために地域の人たちに知っておいていただきたいこと、それを学んでいただく講座にしていきたいというふうに考えております。

 それからもう一つ、理念、教育と並んで、次のページに入らせていただきますけども、広報ということを大事にしていきたいというふうに思います。やっていることをちゃんと周りの人たちやあるいは将来お客様になっていただく方々に知っていただくということが大事で、そのために、今ご覧いただいたパンフレットと、それの第2号も一緒に置かせていただきましたけども、この3年間で第5号まで作りたいというふうに思ってますが、これを現在、地域内約2万戸、全戸配布をさせていただいて、地域の方々にエコツーリズムに対しての理解を持っていただきたいというふうに考えています。それから、残部については地域外の方々にもお配りをして、紀南での動きというのを知っていただくように努力をしているところであります。

 あと、インターネットを通じまして、これとは内容を少し変えて、ツアー情報を中心にした紀南エコツーリズムWeb通信というものも発行しておりまして、大体月に2回ぐらいのペースで、この1年間、紀南エコツーリズムWeb通信の方も出し続けております。あと、ホームページを持っているということと、来年度、できればエコツーリズムというものをテーマにしたシンポジウムを開催したいということで準備をしておりますけれども、予算等の調整を今しているところでございます。

 最後に、エコツーリズムの実践ということで、モデルツアーを下にざっと書かせていただきましたけども、このようなツアーをモデルツアーとしてやっています。中見出しだけ読ませていただくと、「とっておきの熊野 山村の暮らし体験講座」、「とっておきの熊野 ふるさとの伝統の技術体験講座」、「とっておきの熊野 自然の楽しみ方講座」、「熊野古道エコツーリズム」、「熊野古道を学ぶ旅」、「熊野の自然と一体となる体験を!」、このような内容で今後ともツアーを展開していきたいと思っております。最終的に50から100個ぐらいはこういうものを挙げて、それをいかにメニューリスト化していくかということが今後の課題であります。

 ちょっとページをまたいでおりますけども、この理念と教育とエコツーリズムの実践、この3つの項目の右端に書かせていただきましたけれども、エコツーリズムの推進団体の組織化、そして顧客を巻き込んだネットワークの形成という組織化の問題、それからエコツーリズムを推進していくガイドあるいはリーダーたちのプロ意識を喚起していくということ、プロ化、そして実際にモデルツアーを展開する中でエコツーリズムの商品を作る、これは地域おこしで終わってしまっては意味がありません。売れるもの、この商品を買いたいという商品を作らないことにはいけませんので、この商品化、この3つがエコツーリズムを推進していく上での一番大事な点ではないかなというふうに考えております。

 先程、かんきつの話を少しさせていただきました。同じような問題が、例えば、現実にいろんな公の事業や民間の事業を進める上で問題は無いんですけれども、もう少し理念的に考えたときに、なぜ尾鷲地方、熊野地方が東紀州と呼ばれているのかという大きな問題があるように思います。これは例えば東熊野と言ってもいいわけですし、奥熊野、これは実は江戸時代まではそう呼ばれていたわけですけれども、そういう呼び方があっても構わないわけですね。なぜ東紀州なのか。想像するに、道がどんどん開けていって、国道42号線の旧道ができて、そしてJRの関西東線と関西西線が結ばれたのが戦後、昭和30年代ですね。そして、国道42号線が今の姿になったのがやはり戦後の随分後の時代であります。そういう交通網の整備の中で、紀州というものが一躍観光地の一つとして脚光を浴びた時代がありました。そういう中で、紀州に対するロマンのようなものが広がった時代があったんだろうと。

 そういうことも関係しているというふうに思うんですが、その時代を終えた今、もう一回、この地域を振り返ってみると、やはり地域を作ってきた原点に熊野というものがあるんではないか。熊野古道世界遺産登録も、そういう流れの中で見つめられてきたんではないかと。人々の価値観やあるいは生活のリズム、それから祭りや生活習慣は、江戸時代の幕藩体制の前までさかのぼっていくと、やはり熊野というものがどうしても出てくるんではないかというふうな気がしておりまして、現実、動いているものは何も私は申し上げるつもりは無いんですが、この紀南地方の地域振興の戦略として、先程申しましたけどもブランド化の戦略としては、やはり紀南における熊野的なもの、これをいかに表現するかということが大事な点ではないかなというふうに思っております。

 そのためにも、やはりフィールド重視、現場の中に埋もれているこの地域の最も根源的な大事なものを掘り出す作業を大事にしていきたいというふうに思いますし、さまざまな地域振興のための施策、これは道路交通網の整備から、あるいは産業基盤の整備、それから観光施設の設置等々さまざまな施策が行われている中で、一つそれらとともに忘れてはならない視点として、地域に固有の要素を大事にしていくという、そういう活動を続けさせていただきたいなというふうに思って、紀南ツアーデザインセンターを運営させていただいている次第です。時代がどんどん変わっておりますので、もしかすると、この紀南地方においてこういう古くさい考え方をしているのはツアーデザインセンターだけかもしれないななどというふうに最近心細く思っているところですけれども、もし仮にそうであったとしても、最後のとりでとして頑張りたいなというふうに思っているところでございます。

 以上、つたない説明で申し訳ございませんが、どのような考え方でツアーデザインセンターを運営させていただいているかということについて説明をさせていただきました。失礼いたしました。

○森本委員長 ありがとうございました。

 それでは、委員の皆様方からご質疑、ご意見等がございましたらお願いいたします。少し時間ありますので、どうぞ何かありましたら。

 そしたら、ちょっと時間あれで、私から質問させてもらいますんで、あと委員の皆さん考えておいていただきたいと思うんですけど、橋川さん、このツアーデザインセンター、私もお邪魔させてもらったことがあるし、非常にいいところだと思うし、そこのところは否定しないんですけど、これをずっと継続していく、今の時点ではやっぱり橋川さんの力によっておるのが大きいと思うんですけれども、こういうのを継続していくという、それなりの意義があることは認めるんですけど、そこらの方策というのは何かあるんですかね。

○橋川センター長 何か今の過疎地の問題点がこの機関には凝縮されているようなところがあるというふうに私も常々思っておるんですが、いろんな自由化のための変革というのが始まっています。もう極端に言えば、それはビッグバンまで、あるいはその前の価格破壊の動きまでさかのぼっていくわけですけども、今、紀南地域あるいは東紀州が迎えている高速道路の建設も、これは距離が遠いという一つの制約を取り除く、いわばまたと無い発展の機会になっているわけですね。つまり、消費者にしてみても、地元の人たちにとっても、時間的自由度が非常に高くなっていく、そういうきっかけになっていくわけです。つまり、基本的には市場化が進んで、競争の中に紀南地域もさらされていく度合いが高まってきているわけですが、残念ながら現在はそういう自由競争の中で勝ち残っていく商材が余り無いというのが今の姿ですね。

 ですから、今、観光市場において、ツアーデザインセンターのような組織が一つのたくさんの競争相手とともにツアー企画でもって戦いをしていっても、残念ながら今の紀南地域が持っている商材では勝てないというふうに考えています。というのは、ツアー企画一つを作るにしても、大変な手間暇がかかって、それはもうガイドをお願いする人の生き方にさえ口を出さざるを得ないようなことが発生したりして、それでも頑張ってくださいよと。それでも協力してくださいよということで現地の受け入れをお願いしたりしておる次第なんですけども、ただこれに成功しないと、そういう方向性での地域開発が閉ざされてしまいますので、何としても頑張りたいというのが先程来の私のメッセージなんです。これをやらないと、いわゆるパッケージ化されたツアー企画だけが東紀州にも蔓延していくということになってしまいますので、特にローカル性の豊かな地区においては、それは紀南だけではなくて、紀北でも志摩の方でも、あの町はねと。あの集落はねというものがありますけれども、そういうところは私は採算度外視でもそれを守っていくという、そういう姿勢もまた一つ必要なんではないかなというふうに考えてます。

 ただ、経費的にだから全部見てくださいよという、そういうふうに開き直ることもまたできませんので、経営努力をしていくと。今はできませんけども、ツアー企画の中で多少のマージンを取って運営費に回していく、それから物販を今は、公共としては営利行為である物販をしないということで、やむを得ず私は個人で物販をあの施設の中でさせていただいてます。本当はツアーデザインセンターとしてやりたいんですが、協議会がやりませんということで、困って、やむを得ず、お客様が求めておられるので、私がやっていますけども、多少の収益が上がってきます。そういうものを運営の方に回していくというふうな努力はやっていきたいなというふうに思っております。

○森本委員長 あと、いかがですか。

○桜井委員 長年ご苦労さんでございます。今のお話の中で、今の商材では勝てない、だからこそ、このツアーデザインのさっき先段でご説明いただいたところをやっぱり組み込んでいくんだということですよね。感銘を受けておるんですが、例えばプラスですね、例えば今、スローというテーマもありましたし、食であったり、先程の空間であったり、こういうものを本当に東紀州全体が、レベルというか、質をトータルで上げていくというのが、やっぱり本当に必要なんだろうと私もつくづく思っておるんですよね。

 そこで、前段でスペインのご経験をお話しいただいたんですが、南イタリアの、去年1回あったんですが、アマルフィ海岸という世界遺産に登録されたあの田舎町が、本当にまさに熊野を中心にした東紀州の南イタリア版みたいな、そういう要素を持っておるような本当感じて、県の方にも提言をさせていただいておるんですが、その中にはやっぱり例えば感性にも触れるような景観であったり、非常に単純な食であったり、地域の人々との交流であったりという部分がやっぱり基本にはあるんですよね。機会があったらぜひ行っていただきたいな、あるいは東紀州の皆さんに一回、機会があったらあそこのノウハウというか、そんな大したことをやっておるわけでは決して無いわけでありますが、あれは本当にぜひエッセンスだけ東紀州にいただきたいなと思うんですが、その中で、すみません、食という部分を、これもツアーデザインというか、どうしていくのか、お考え方があったら少しこの機会にかしていただきたいなというふうに思うんですが。

○橋川センター長 ちょうど一昨日の毎日新聞でも、ちょうど新聞に書かせていただいた、これは熊野だけで配布されている版ですけども、させていただいたところなんですが、熊野へ行けば、サンマ寿司、メハリ寿司、あとお造りというふうな相場みたいなのがあるんですけれども、必ずしも皆さんがすばらしいものを食べたよということですべてが喜ばれるわけでもない、それが現実なわけですね。特に魚を酢でしめた姿寿司については、全国でいろんなおすしがある中で、サンマ寿司が格別、味覚上飛び抜けているわけでもない。メハリ寿司のような、非常に健康的なイメージはあるけれども、おなかを膨らませて腹もちをよくして、それから何か栄養もありそうだというふうな観点で見ると、非常に質素な食事でありますので、これが熊野のごっつおですよというわけにもいきません。食の分野において、観光市場で今、消費者にハートヒットする商品というのはないんじゃないかなというふうに私は今のところ思ってます。

 それよりも、日々生活の中で食べる食べ物、それは先日ウルメのお造りを食べたんですが、ものすごくおいしい。ウルメってこんなおいしいんやと私は初めて知ったんですけども、そういうものであるとか、それから最近ではタチウオの塩焼きをいただいたんですけれども、わざと濃い目に塩をして2日置いて、そして塩焼きにして作ったんよということで食べさせていただいた。それはもう鮮度勝負ではないんです。だけど、塩かげんがとてもおいしい。これは自分はいつもこうして食べるんですよという方から食べさせていただいた。そういうもっと生活レベルでおいしいものというのが、探していくと出てくるんですね。それは家庭菜園あるいは自分の山で見つけた食べ物、あるいはもっと大昔の狩猟生活につながっていくようなそういう採集したもの、恐らくこういうものも、珍しい、食べるとびっくりするというふうなものがたくさんあると思いますけれども、もっとそういう意味で、紀南を代表する、あるいは東紀州を代表する食べ物というものについては、考え直していく必要があるなというふうに私自身考えています。

 ただ、量的な問題、それから価格的な問題、それから実際にそういう手間を惜しまずにやってみようという人がいるかどうかの問題、ここに最大の問題があって市場化してないわけでありまして、これはエコツーリズムで誰かに現地案内人をお願いする手間と同じように、あなた、忙しいかもしれないけど、ちょっとこれ、しばらく作り続けてみていただけませんかというふうな調整をしないと、全く市場に乗ってこないようなものがたくさんあって、やはりこれも一つ一つ作っていくしか仕方がないなというふうに思いますが、そういう方面に、食については私は可能性を見出していきたいなというふうに思っています。

○桜井委員 ありがとうございました。この話すると明日の朝までかかるかわかりませんので、もうこれでやめておきますが、ぜひ頑張っていただきたいと思いますし、またいろんなご提言いただきたいなと思います。ありがとうございました。

○森本委員長 ありがとうございました。少し時間の都合がありますんで、橋川さんにはこれで終わらせていただきます。

  3)熊野少年自然の家について

○森本委員長 続きまして、熊野少年自然の家の小西豊秀所長さんにお願いするわけでございますけれども、小西さんは、いろいろこの少年の家のなかなか経営が厳しい状況の中で、赴任前は1万人ぐらいであったのが、小西さんが赴任されてから16年は2万4千人という、2.4倍ぐらいに宿泊人が増えたというような実績もございますので、そんなこともあわせていろいろな形でのご説明をお願いしたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

○小西所長 本日はこのような場にお招きいただきまして、誠にありがとうございます。

 熊野少年自然の家の現状及び改革とその成果について、簡単にご説明をさせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

 まず、熊野少年自然の家ですが、昭和52年1月15日に、自然体験活動を通じて豊かな心を持つ子どもを育もうじゃないかということで設立されました。昭和52年1月といいますのは、私ごとではありますけれども、ちょうど教員として採用されまして、紀宝町の中学校に赴任した年でありました。野球の指導もしておりまして、今ここにみえます萩野先生も隣の学校におりまして、何とか一回でいいから勝たしていただきたいということで頑張ったんですけども、指導者としての力量の差はいかんともしがたく、一回も勝たしていただくことができなかったという苦い思い出があります。その52年1月15日に設立しまして、学校利用者第1号が紀宝町立相野谷中学校でした。私が行ったところなんですけれども、初めて使わせていただいて、また所長として赴任したということで、非常に感慨深いものがあります。

 この自然の家も、以後28年間経過いたしまして、現在29年目に入っております。毎年1万人前後の利用者がございまして、累計、こちらの資料の方では32万と書いておりますけれども、現在35万人程度までいっております。平成15年8月に30万人を突破しました。紀北中学校という紀伊長島町の学校がちょうど30万人目を記録しました。ということで、その役割は十分果たしてきたのかなと思っております。

 そういう経過の中で、熊野少年自然の家、そのすぐ隣接する金山パイロットに紀南交流拠点施設というものも建設が、設置が決まりまして、その中に熊野少年自然の家とほとんど同じ類似の施設を設置するということで、熊野少年自然の家もその歴史の幕を閉じる予定でございました。幸か不幸か、平成13年4月にその構想が突然断念ということになりまして、本所も閉鎖を免れるといいますか、そういうことになりました。私がちょうど少年自然の家に着任いたしましたのは、翌14年2月、途中人事で所長として参りました。その当時は、当然もう自然の家は無くなるんだ、予算もどんどん減らされますし、事業も主催事業をしてはならないとか、いろいろありまして、職員の士気も非常に上がらないという、そういうような状態であったと思います、それはいかんともしがたいといいますか、仕方が無いのかなと思っておるんですが。

 そこで、4月からいろんな事業を行うわけなんですけれども、こういう事業案内を、新しい新年度の事業案内を印刷がまだされていなかったわけです。ですから、営業にも行けないというような状況でした。それで、これはすぐに印刷しなきゃならんねと。でも予算がありません。いや、来年の印本費は一体いくらあるの、ちょっと予算書を見せて。7万円しかありませんと。宣伝に努めなけりゃならないこういう施設が、印本費が7万円しか無いというようなひどい状況だったわけですね。それはどういうことだ。それしか削るところがなかったんですということでですね、そういうことだったんですが、何とかするから、とにかく印刷しようじゃないかということで、印刷をして、4月に間に合いました。

 今でも強く記憶していることですが、14年3月に行われました行政経営品質の判定で、Dというのがありまして、最低レベルの判定を下されて、谷口さんから、君、君、企業では、こういうDレベルなんていうのはとうの昔に倒産している最低の組織なんだよと。わかっているんですかと。酷評された覚えがあります。非常にショックを受けました。そこで、これではあまりにも惨めだと。一踏ん張りしようじゃないかということで一念発起したわけですが、そこで4月当初に全職員に対して、新しい自然の家を目指してと題した指針を示しました。それがこの資料1のものですが、大きな目標を、参加したい、また行ってみたい自然の家を目指そうと、そういうふうに定めました。

 参加したい自然の家とは何ですか。それは魅力的な主催事業を企画することでしょうと。さわりじゃない本物の体験をできる施設にしようじゃないかと。そして、企画したならば、それを非常に参加者といいますか、市民の皆さんに、県民の皆さんにわかりやすいチラシを作ろうじゃないかと。目的とかそういうのを書くんではなしに、本当に行ってみたいようなチラシを作ろうじゃないかと。そういうことを示しております。参加したい自然の家と。

 それから、また行ってみたい自然の家とは、ホスピタリティーあふれる職員の態度。ただ単に言葉だけではなしに、本当に心から、お客さんを泊めてあげるんだというような役人の考え方ではなしに、本当に泊まっていただく大切なお客さんという、そういう感じで、その気持ちを態度にあらわそうじゃないかと。そういうことで職員と十分話し合いを持ちました。

 一つのホスピタリティーの例なんですが、今年の8月に鹿児島県の神村学園高等学校という、今年の春ですか、甲子園で準優勝したチームですが、そちらは毎年ずっと長沢監督さんは熊野にずっと来ておられました。熊野バッテリーキャンプをできたのも長沢先生のおかげなんですが、その先生から突然電話がかかってきて、小西さん、津田学園の野球組んで、今から終わってからそちらへ行きたいんや。泊まれるかと。いや、無理です、いっぱいです。何とかならないか。うちは何ともなりませんと。熊野市の青年の家を紹介しましょうと。これはいっぱいでした。なぜかというと熊野大花火の晩だったんですね。どこもあいておりません。それではということで、鈴鹿青少年センターはだめでした。高田の方はあいてましたけれども、ちょっとお金の関係で私とこはよう泊まらないと。それではということで、四季の里ということがあいていまして、そこは経営してないんですけれども、無理にちょっとお願いしてそこへ泊めてもらうことにしました。でも、花火の日に果たしてそこまで着けるのかどうかということで、ダブルヘッダーなんかはしないで、1試合だけして早く来てくださいと言ったんですけども、10時頃到着しました。私たちが待っておって案内をいたしまして、何とか泊めることができました。そういうこともホスピタリティーあふれる態度と言えるんじゃないかなというふうに思っています。民間に決して負けない施設を目指そうじゃないかということです。

 それで、具体的な目標を利用者1万5千人、過去最高を目指そうと、そういうふうに決めました。昭和60年度1万4,750人という記録があるんですが、それを超えようじゃないかと。スローガンをチャレンジ15001と定めて、名刺にそれを刷り込みました。15001という名刺を出したら、一体これは何ですかと。いやいや、これはISO14001をちょっともじって、やったんですということで、相手もちょっと興味を示してくれましたもんで、チャレンジ15001と、そういうふうにしました。

 この具体的な1万5千人を達成するために、魅力的な事業を企画する、主催事業をうまく宣伝する、そして主催事業は必ず満員とすると。そういうふうに決めました。以前は、新聞に掲載をして、チラシを学校に配布して、それで終わり、それで何人来るかは関心外というような感じでした。それではだめだよと。とにかくみんなセールスマンとなって、生命保険の外交員のように一族郎党、誰でもいいからとにかく身内から始めて、とにかく自然の家へ来てもらおうじゃないかと。あそこの芝生から海を見ると非常にいいところだというのがわかるよと。とにかく来ていただこうということで、14年度、第1回目の事業、スターウオッチングは、何と、例年10名集まれば上々だったのが、150名の応募者がありました。果たして150名集まって運営できるのかどうかということを心配しましたけれども、とにかくやろうということで上々のスタートになりました。

 次に、熊野少年自然の家の弱点というのは数多くあったわけですけれども、その中でも一番の弱点でありました食堂営業人ですね、非常においしくないと。愛想もよろしくないと。そういうような感じで、何とかしたいというのを歴代の所長が言っておったんですけども、なかなかできなかった。なぜできなかったのかというと、何と売り上げが年間600万円しか無いんですね。600万円しか無いその施設に参入しようという業者は、まずこれはありませんですね。ですから、代替の業者がいないということで、逃げられてはだめなんだと。その業者に逃げられたら、もうあとをやってくれる人はいないということで、本当にはれものにさわるというような感じでお願いするというような状態でした。

 そういうときに、私が、近畿地区の少年自然の家の総会が京都府立るり渓少年自然の家というところでありました。ここに参加したんですが、そこの食事が大変おいしかったわけです。これはうまい、うちとは違うと。大阪府立の方と一緒に、これはすごいということで、すぐに事務室に行きまして、どこの業者ですか。業者をすぐに紹介していただいて、東京都庁にも入っている業者だよということで話をしまして、すぐに1週間後に来てくれました。3名来てくれました。大手の業者じゃなければやっぱりこれは無理だなということで、大手の業者を3社に絞って、いろいろとお話ししました。今は600万円だけども、来年は1,200万円にすると。そうすれば何とか赤字、プラマイとんとんでしょうと。絶対に黒字にするよと。お互いに、あんたたちも食事で人を増やせるように努力してくれと。お互いにもうけようじゃないかなんてことを言って、そして半年後の11月末、現在の食堂営業によって食堂営業が開始されました。第1号のお客さんが日生学園日生第二高校のサッカー部の皆さんでした。大パーティーをして、そして非常に幸運なことに、日生学園さんもサッカー部が全国選手権に行くことになりました。

 そういうことで食事が変わりました。Aコース、Bコース、Cコースです。Bコースは、スポーツ合宿の皆さんのためにボリュームたっぷりです。Cコースは熊野産の食材を利用したものです。1,000円です。変わりました。食事が変わりました、ぜひ来てくださいということで、宣伝に努めました。

 それから、広報活動を充実させるという意味で、ホームページを新しくしまして、楽しそうな事業の写真をどんどん載せ、頻繁に更新しました。それから、メディアを活用させていただきまして、新聞に事業案内、事業の結果をどんどん載せました。毎週のように記事が掲載されて、自然の家は変わったね、頑張っているね、今一番元気のある施設だねと、そういうお話をいろんな方からいただきました。

 幾つかの改革をしたわけなんですが、中でも一番効果の上がったのは、食事の変更とともに、会員組織、くまのネイチャー倶楽部というのを作ったことです。会員になったら3つの特典があります。1つは、事業案内を必ずあなたの家庭に届けますよ。それから、人気のある事業は一般の皆さんよりも3日前に申し込みができますよ。人気がある事業って、その当時はあまりなかったんですけども、そういうふうにあおったんですね。それから、会員券ですね、判子をぽんぽんと押していくんですが、それがいっぱいになったら、あなたたちの写真をパネルにして差し上げますという、これがそうなんですけども、これは今年の夏、リバートレッキングをやった写真なんですけども、こういうあなたの子どもさんとか、あなたのご家族の写真を差し上げますということで、この3つの特典がありますと。ということで、スタートしました。

 最初は、新聞に載せていただければいい、宣伝効果だけをねらっておったんですが、それが予想に反して現在では何と240家族、1,000人を超える会員、そのようになってきました。1,000人を超えるようになりました。リピーターに支えられる今の少年自然の家、参加者の子ども同士が仲よくなって、また来年ここに来ようね、一緒に来ようと。家族同士も仲よくなる。そして、こちらで、熊少で会おう。職員と参加者も仲よくなりました。職員にお客がつくという、そういうインタープリターにお客がつく、そういうような状況になりまして、何と1カ月に3回、桑名からわざわざ来ていただくというお客さんも現在みえます。

 そういう改革の結果、平成13年度の利用者1万1,580名が、70%増で、14年度1万9,701名と、こういうふうになりました。目標の1万5,000人を軽くクリアいたしました。15年度は2万3,691人、16年度は2万4,111人、こういうふうになっております。この資料は、こちらの資料の3、一番最後のところにグラフにして示しております。13年度と比較すると、平成16年度で208%、そういうような感じです。

 今後、これを見てみますと、14、15、16というのは余り増えてないんですね。特に15と16は増えておりません。これを一気に増やそうと思ったら、なかなか今の経営資源では非常に厳しいなということを感じておるんですが、いろんな知恵を絞ったつもりなんですけれども、これを3万、4万と一気に増やそうと思った、その切り札は、修学旅行を、体験型の修学旅行を熊野に誘致すると。現在、静岡県のホールアース自然学校というのがあるんですね。富士のすそ野にあるわけですが、我々の仲間なんですが、これは修学旅行を4万人から5万人、この体験型の修学旅行を呼んでおります。そして、30人の常勤職員、そして夏期には非常勤職員を雇っていると。すごい組織です。そういうことを今後目指していきたいなと思っております。今年の夏から秋にかけて、ターゲットを大阪、名古屋に絞って、3時間程度で来れるところに絞って、営業を開始しております。来年は1校でもいいから呼ぼうじゃないかと。そういうふうにしております。

 それから、県内の学校に対しては林間学校、臨海学校、どんどん来ていただこうということで、熊野や尾鷲だけじゃなしに中勢、北勢、松阪、伊勢の方からも来ていただこうということで、現在営業中でございます。三重県内から熊野に修学旅行に来るって、これはまあまず無いと思いますので、県内は臨海学校、林間学校ということで誘致したいと思っております。

 こういうような結果を残せたのは、当然のことですが、全職員が一致団結して頑張ったということと、それから周りの皆さんが非常に温かい目でご協力をいただいた、こういうことがあります。これがなければ、本当にここまで再生するということは不可能だったんではないかなと思っております。2万4,000人という数値は大したことないんじゃないかと。210人の定員のところで、もっともっと稼げるはずじゃないかとお思いかと思うんですけれども、確かにそのとおりでございます。でも、我々の誇りは、限られた予算と限られた人員の中でこのような数値を達成できたと、そういうことであります。

 しかし、こういうことで全職員の頑張りでここまでは伸ばしてきたわけですけれども、こういうような改革は長続きはしないなと。土曜日も日曜日ももちろんなしに、夏休みはありません。9月に何とかちょっととってくれよと。9月から12月にかけては毎週土日、事業があります。そういうような中で、指導系の教員から来た職員は、10月、11月は小学校が来てくれます、ずっと指導に入ります。夜はスターウオッチングしますから、夜も10時まで今。そして土日に主催事業があるということで、そういう厳しい仕事をしているわけなんですけれども、そういうことは現在の改革によって効果は上がっているけれども、これは長続きはしないなと。人事異動で簡単に振り出しに戻っていく可能性があるなと、こういうふうに思っています。仮に人事異動があった場合でも、新しい職員がその特性を生かして、さらに魅力的な自然の家とするためにも、それなりの経営資源というのを整えることが必要じゃないかなと思っております。

 今後も熊少の運営を通じて、県内青少年教育の充実と、そして東紀州地域の活性化のために、微力ではありますが尽力したいと思っています。先生方のご支援をぜひお願いしたいと思います。

 以上で、熊野少年自然の家の現状並びに改革の状況についての報告を終わりたいと思います。ありがとうございました。

○森本委員長 ありがとうございました。

 それでは、少し時間が15分程度ありますけれども、皆さんの方からご質問なりがございましたら、よろしくお願いします。

○青木委員 熊野の方、先生、野球の方では萩野先生に連敗されて、悔しさをこの経営にぶつけていただきまして、大変な効果を上げていただいているということで、本当にすごいなと。数年、僕も現場にいたんでわかるんですけど、自然の家がこんなに変わったというので、久しぶりに今日聞かせていただいて、非常にうれしい気持ちです。

 これからいろんな課題があると。経営についても限界、アイデアもいろいろ駆使していただいて、すべての万難を排してやっていただいて、この効果が出ているんだけども、今後のことが心配だというお話なんですけども、私もちょいちょい海外の青少年との交流については興味があるんですけども、海外の方とか、外国人の方の対応とか、修学旅行、例えば隣の国から修学旅行に来たいという希望があったときの受け入れ態勢とか、そういうのは考えてみえるのか、これは熊野自然の家だけではないとは思いますけども、どうでしょうね。

○小西所長 まだ実は海外の修学旅行の受け入れというところまでは考える余裕が無いという状況ですね。実際に大阪府立の自然の家は、中東の方とか、中国でしょうか、そういうところからの修学旅行生を受け入れると。非常に多くなっているということをお聞きしているんですけども、ちょっとうちの体制としてはそこまで頭が回っておりませんでした。

○青木委員 また、そういった課題ということで、また教えていただきたいと思います。

○森本委員長 あと、いかがですか。

○萩野委員 橋川さんの方でもよろしいですか。いろいろ聞かせいただいたんですけど、さっき橋川さんがおっしゃっていただいたように、あそこの地域の中にいると、なかなかわからんのですよ、地域のことが。本当にどっぷりつかっているという感じで。正直言って、さっきもおっしゃっていただきましたけども、サンマずしやメハリずし、何でこんなものうまいのやというふうな人がたくさんいらっしゃるじゃないですか、よそから来た人は別にしてですよ。それと同じように、地域の良さをなかなか地域によってなかなかわかりにくいということと、それを今一生懸命やってくれておるんですけども、いわゆるそこに来ていただいた人にもてなしの心というんですか、そういうものを醸成していくというのはどうしたらいいんかなと思うんやけども、その前に、やっぱりこの地域はこんないいところがある地域なんだよというところをやっぱり理解していないと、このもてなしの心なんて、それは出てくるはずがないという気がするんです。

 橋川さん、来ていただいて、外から見ておって、橋川さんがおつき合いになっている人は、町おこしとか地域おこしとか、あるいは熊野古道の語り部であったりとか、主にそういう方が中心なんじゃないかなという思いはするんですけども、そういう人たちとまだまだそこにかかわっていない人たちのすごくギャップがあるような気がするんですけども、そのへんの思いというのはないでしょうか。

○橋川センター長 まず、ふだん地域づくりでおつき合いさせていただいている方は、私の場合、よく頑張っておられる方々ではありません。むしろ頑張っておられる方々はスタイルができてしまってて、魅力を私自身が感じないんですね。そうじゃなくて、これまでそういう場面には出なかったけれども、個性を持っている方がたくさんいらっしゃることに、これはもう地域に入ってすぐ気づきました。ですので、床屋さん人脈とか、定食屋人脈とかですね、そういうものを駆使しまして、一般の方々と、地域のおもしろさというものを考えるという時間をたくさんとるように努めています。

 もちろん上手に物事を進めるノウハウのようなものがありますので、ふだん活躍している方々ともおつき合いをさせていただいて、参加をいただいておりますので、そういう人は違うんですよということじゃないんですが、やはり日々地域づくりについて論じられている中ではないところに、この熊野らしさというものを感じることが多いです。それは、実はふだんあまり表舞台に出てこない人たちがしっかりとあたり前のようにエンジョイされているというものであることが多いように思っております。

○萩野委員 ちょっと安心したんですけども、素直に、何かそこで生活を素直にしていたら、それでいいのかなと。まず基礎的には。そんな思いを今、お話聞いてしたんですけども、そんなんでええんでしょうかね。

○橋川センター長 自然にやっぱり、役職じゃなしに、自然にリーダーシップを発揮しておられるような気がいたします、そういった方々は。

○萩野委員 さっき地域に学ぶとかって石田先生がおっしゃったもんですから、本当に地域に学ぶものがあるのかなという思いで、ちょっと不安になっとったもんですから、今ちょっと安心しました。

 小西さん、すみません。これ、夏と冬と、お客さん、大変違うだろうと思うんですけども、どうなんでしょうか。冬が少ないですか。

○小西所長 そうですね、うちの繁忙期は4月、5月、7月、8月、10、11、3月ですね。3月というのは、スポーツ合宿のお客さんが非常に多いわけなんです。1月は、確かに1,000名いくか、いかないかということで、閑散期なんですね。そちら、何か無いかな、あまり無い、真冬に人を集めるというまだアイデアは浮かんでこないんですけども。

○森本委員長 あと、いかがですか。

○藤田委員 橋川センター長、ちょっとお願いしたいんですけど、宝探しとスローということで、非常にお話を聞いていると奥の深い、誰でもその地域に自然に生活をしているようなことが、その中に入ってみれば、非常に食べ物にしても、文化にしても、非常にすばらしいものがあると。その中に、ある意味ではスローライフというんですか、ゆとりというんですか、人間の心の中にそういうゆとりとセットじゃなければ、なかなかそういういわゆる本当においしいもの、ちょっと塩が効いておって、ちょっと鮮度がよかって、こんなもん食べたことないというの、いっぱいあると思うんですよね。

 これは例えば単なるそういう観光ツアーとか、そういう金もうけ主義というんですか、だけではなかなかそういうところへ入り込んでいくわけにはいかないと。しかし、そういうプロのそういう観光業者でも、お金にはならないけど、将来そういうものを掘り起こそうということで、多分やってると思うんですよね。そうすると、橋川さんがそういう旅の設計とか、そういうものがどんどん広がっていくということは、多分そういう熊野古道という一つのメジャーなこれからの流れとともに、ボディーブローを打っていくというんですか、そういうふうな役割をしっかり打ってくれてるんじゃないかなと思ったんですよね。

 そうすると、金もうけだけじゃなくて、行政ですね、行政とか、こういう我が三重県がやっていかなあかんことは、やっぱりそういう大企業がそういう商売して利益を得るというメジャーなところじゃなくて、むしろそういう生活の中とか、そういうところのそういうものをやっぱり行政がしっかりハチとしてやっていかなきゃいかんのかなと。橋川さんの話を聞いとってそう思ったんですけど、何かコメントがあれば。

○橋川センター長 そのとおりだというふうに思うんですが、実はそのことをもう考えないと、消えてしまうコミュニティーがいっぱいあるんですね。特に東紀州の場合はそうだというふうに思います。理屈じゃなしに、あなたの代ですべて終わりにするつもりなのか、いや、そうじゃないのかというところまで考えないとだめな、そこまで追い込まれているように私は思います。

 そういうところが、近郊農業で高品質なものを大量に作っているところと農作物で競争できるわけがない。そういうところで作られたものが、近くの、熊野でもスーパーに入ってきているわけですね。じゃ、その人が作った庭の野菜をどうやって売ったらいいのか、それを家計の収入に位置づけることができるのかどうかというと、多分できないと思うんですね。だったら、あなたしかできないことをやって、それを喜んでくださる方に分けてあげたらいかがですかという、その個性化しか道は残されていないんじゃないかなというふうに私も思っております。

○森本委員長 ちょっと僕から小西さんにちょっとご質問したいんですけどね、何かがあると、先程言われたように、少年の家をつぶせというのは、何かのきっかけが、例えば前回はこれは交流拠点のときもくっつけと。今回もこの中核交流施設とくっつけて、つぶすというようなあれがあるんですけれども、これは県行政の運営という中で見ると、そういうふうなものは、あってもなくてもいいようなものはというような感覚なんだろうと思うんですけれども、私は、最近あれしたのは、熊野の神川町なんていうのを先生もご存じだろうけど、非常に山奥ですわね。あそこは小学校と中学校が一つの学校にせざるを得んような僻地ですけど、そこが最近、電源開発の住宅をなおして、都市住民に開放したら、いわゆる都市からの移住者が増えてきて、学校そのものが10人ぐらい、保育所もああやって増えたんが、倍ぐらいになったんかな、生徒が。非常ににぎやかになった。いわゆる登校拒否というんか、何か不登校の子どもたちのいやしの場になっておるというのか。

 そういう観点から考えて、やっぱり野外体験なり、屋外体験なり、こういうものに対して、例えばさっきに四季の里へも我々行ってきたんですよ。行って、あそこで夕食食べたんですけれども、ああいうもっと広い熊野、紀南という、東紀州というフィールドを作ったような野外体験というものについて、やっぱり教育面なり、そういう面でのプラスなり、効果なり、そういうものは必要だというようなあれは持っておられますかね。

○小西所長 当然、国の方でも今現在、いろんな子どものとにかく事件とか事象が出ておりますね。それで、何でかなといいますと、当然、社会の変革が理由になるんですけれども、体験活動といいますか、家庭での体験、子どもたち同士での体験ってほとんど無いわけですから、自律性の無い子どもが増えてきているのは当たり前だと。そういうような中で、家庭や学校の中でそういうことをするのはなかなか厳しいと。じゃ、自然の家で長期に子どもを預かって、徹底的にそういう体験活動をさせると。そういうことによって子どもたちの目の色が変わるといいますか、そういうような施設にぜひしていきたいなと思うんです。それで初めて社会貢献のできる施設であると、そういうように思います。

 ただ、子どもたちはどんどん東紀州の周りは減っておりますし、いろんな遠いところから、県内でも来ていただくというのはなかなか困難なことではあります。ですから、利用者が増えなければ、どうしても廃所せよというような声が上がってくるのは当然かなと思いますので、こちらの振興策にも載っておりますように、体験活動、自然体験、それから産業体験で集客交流をしよう、その少年自然の家もその一助を果たせということがあるんですけども、そういう自然学校的なことを、自然の家が今どんどんプログラムを開発しております。それによって実際にどんどん効果を上げておるわけですから、そういうやっぱり数値を上げなければ、そういう声が出てきても仕方がないのかなという、そういうことで、日々新しいプログラムを開発し、いろんなことを営業しながら、熊野にしか無いプログラムを提供しようと。

 そういうことで、こちらの方に、熊野にしか無いというわけじゃないんですけれども、熊野はリアス式海岸ですから、自然の家の周りは自然は大したことないんですよ。自然の家から30分移動すれば、こういう漁業体験ができるんですよ。ホエールウオッチングもできます。そして、リバートレッキングというのに適したすばらしい川がすぐ近くにあります。それを生かして、インタープリターを養成しながらいけば、これはきっと大きな数値を残すことができるかなと。下の新施設と協力し合いながら、頑張っていけば、そういう声も起こらなくなるんじゃないかなとは思っております。ということで、何とか残してくださいということじゃなしに、そういう声が起こらないような、何といいますか、努力をこれからも続けていきたいと思っております。

○森本委員長 そういうことでぜひ頑張っていただきたいと思いますし、そういう今のいろいろお聞かせいただいた橋川さんのお話、ツアーデザインセンターだとか、少年の家というのは、やっぱり熊野にとっての一つの大きな宝というか、先程言われましたけれども、そういうふうな一つの核になるんではないのかなという気がしますし、私たちも存続については一生懸命にサポートしていきたいというような感じをさせていただいたところなんです。

 それでは、ちょっと時間になりましたもんで、いろいろ3人の先生方にはご苦労をかけましたけれども、これで終わらせていただきたいと思います。ありがとうございました。

  2.その他の事項について

 II 委員協議

  1.次回の開催について ・・・後日調整

  2.県外調査について ・・・・行程案どおり

 〔閉会の宣言〕

以上、会議の要綱を記し、ここに押印する。

平成17年 10月31日        

東紀州地域経営調査特別委員長   森 本 繁 史

ページID:000019423
ページの先頭へ