災害伝承
このコーナーは、過去に起こった大災害についてその経験者に語っていただき、その教訓を伝承しようというものです。
今回も、先日「防災の星」で取り上げた佐藤嘉平さん美江さんご夫妻のご紹介で、桑名市長島町にお住まいの方々に桑名市長島防災コミュニティーセンターをお借りしてインタビューさせていただいた伊勢湾台風のお話です。
最後の方は、当時長島町の押付(おしつけ)にお住まいだった、長島防災支援ネットのメンバーの中野礼子さんです。
Qこの台風で肉親を亡くされたそうですね。 |
A母親を亡くしました。 |
Qその時のことを何か覚えていらっしゃいますか? |
A父が畳屋をやっていて、出来上がった畳を濡らさないように家の中に運びこんであったのですが、他の畳と一緒に浮き上がってきたのを見ました。
それから、家族10人バラバラに逃げました。屋根に上がった者もいれば、土手に逃げた者、庭の木につかまっていた者もいたと後で聞きました。 |
Qバラバラということは、お母さんのことは後で知ったということですね?
ところで、中野さんはどのような行動をされたのですか? |
A妹と尾張大橋(国道1号)の近くにあったお菓子屋に避難しました。
そこは高所にあったので、私と妹以外にも結構避難している方がいて、あっという間に店の品物が売れていったことを覚えています。
母のことは、一夜明けて親戚の人が私達を探しにお菓子屋まで見にきてくれた時に、行方不明になっていることを知りました。 |
Qお母さんはお一人で逃げたのですか? |
A別の妹と、押付にあるお宮の方に流されたそうです。
ただ、妹は幸運にも薪の上に体が乗って助かり、母は何かの下敷きになって見つかりました。 |
Qそうすると、中野さんはよくお菓子屋さんまでたどりつきましたね? |
A妹と地面に鼻を付けるように進んでいきました。 |
Q自宅はどうなりましたか? |
A全壊しました。父はしばらくの間、堤防で畳を作っていました。 |
Qその後どうやって生活されたのですか? |
A近くに親戚が多くいましたので、そうした助けを受けて生活しました。 |
Qところで、中野さんご自身は当時何をされていらっしゃいましたか? |
A高校3年で、それ以降は学校にほとんど行かずに卒業してしまいました。
台風の後、学校から「家が大丈夫でない者は家にいろ、大丈夫であれば赤須賀(桑名市赤須賀)の老人が集まっている場所で手伝いをせよ」という指示がありました。 |
Q中野さんは、大丈夫じゃないから長島町にいたのですね・・・ |
Aそうですね。 |
Qあと何か憶えていることがあれば? |
Aそれまで住んでいた家は、柱と家具が少し残っていただけで、汚れ物は木曽川で洗濯して干して着ていました。水が引くまでは何もできませんでした。妹は、学校疎開をしていて、私は、台風の後1ヶ月位しか高校に行かなかったですね。 |
Q教訓みたいなものはありませんか? |
A洪水の場合は、いざというとき時防災用品などを持っては、逃げられないのではないかと思いました。 |
ありがとうございました。