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平成25年01月25日

  2001(平成13)年、「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」において熊本地裁は、ハンセン病患者・元患者に対して長らく行われてきた隔離政策が憲法に反するものであったことを明らかにし、原告勝訴の判決を出しました(人権教育News「ハンセン病に係わる人権問題を考える 第1回」参照)。                  

かけはし

 同じ頃、小川秀幸さんは三重テレビ放送・報道制作部での取材を通してハンセン病問題に出会い、三重テレビ放送の番組として「石蕗(つわ)の花咲くふるさとへ~ハンセン病回復者 63年目の故郷(2004年)」「いのちの“格差” ~戦争に翻弄された病 ハンセン病(2008年)」などハンセン病問題を扱った4作品を制作されました。また、著書や講演活動においても啓発を続けておられます。

 小川さんがこれまでの取組を通して出会った人々とそこにある思い、そして差別や偏見の解消に向け、私たちにできることについて寄稿いただきました。  

小川 秀幸 著

 『かけはし ハンセン病回復者との出会いから』                     

              (近代文芸社、2009年)  

ハンセン病問題から学ぶ ~私たちにできること~

  三重テレビ放送 小川 秀幸 
(2013年1月作成)

105人から60人に

 「105人」は、この「みえ人権教育News」で初めてハンセン病問題が取り上げられた際、2003(平成15)年の数字として記載された、三重県出身の療養所入所者数です。

 それが2012(平成24)年11月現在は、「60人」になっています(県健康福祉部まとめ)。この10年余りの間に約4割の方が亡くなられたことになります。その中には、私が取材させてもらった人たちもたくさん含まれています。

 ここでは、その約4割のみなさんがどんな思いを持ってこの世を去っていったのか、そしてこの間、何が変わり、何が変わっていないのか・・・そんなことについて、三重でハンセン病問題を取材してきた者として書かせてもらいたいと思います。

 「遅すぎた法廃止」

 私がハンセン病問題の取材を始めたきっかけは、2001(平成13)年の国家賠償請求訴訟の熊本判決。それ以来、おもに長島愛生園(岡山県瀬戸内市)で暮らす三重県出身者から話を聞かせてもらいましたが、その内容の多くが印象深く、かつ衝撃的なものでした。

 「遅すぎた」と語ったのは、園でお話を伺ったある夫婦。それに続くのは、こんな言葉です。「昔は旅行なんかも隠れるようにさせてもらうだけでした。その頃に法律(隔離政策を続行させた「らい予防法」)が廃止されていれば、まだ何とかできたでしょうが、今となっては健康な人でも先が見えてます・・・」

 らい予防法(当初の名称は「癩予防ニ関スル件」)が制定されたのは、1907(明治40)年、廃止されたのは、それから約90年後の1996(平成8)年でした。

 「ふるさとを捨てさせられた」と語った男性もいました。この人は13歳の時に岡山県の離れ島、長島へ。三重の実家は“ハンセン病患者が出た家”として、天井裏から床下、それに井戸まで消毒されたといいます・・・・・・それも家の中が真っ白になるまで。「希望を持ってふるさとを後にした、というような格好のええもんじゃないんですよ。実際はふるさとを捨てさせられたんやからね、無理やりに」この男性は、まもなく80代を迎えます。

 県南部出身のある女性は37歳の時、15歳と10歳と5歳の3人の娘を故郷に残して療養所へ入所せざるをえませんでした。「無理に、生木裂くような状態で連れられてきました。楽しい家庭を持っとったのに、えらい目に遭うた・・・」この女性は取材の数年後、お亡くなりになりました。

 「ハンセン病」療養所

 一般的に、がんセンターにはがんの治療をしている人が、そして整形外科には骨や筋肉に疾患を抱える人が通います。ところがハンセン病療養所についてはどうでしょうか。

 実は、ハンセン病療養所に入所している人のほぼ100%は病気が治っているのです。うつる心配はないし、法律上も療養所に隔離する必要がない・・・にもかかわらず、この病気にかかった人の多くは、病が治っても全国のハンセン病療養所で暮らしているのです。そして、療養所で一生を終える人がほとんどで、「骨になって故郷へ帰れるだけでも幸せ」という現実があります。

 その理由のひとつは、社会(市民)の無理解。うつるのではないか、「天刑病※1」ではないのか・・・そんな誤った認識が幅をきかせていましたし、今でも一部に残っています。

 そして、隔離政策があまりにも長く続いたため回復者のみなさんが高齢になってしまったことも、大きいでしょう。国立ハンセン病療養所に入所している人の平均年齢は2012(平成24)年5月現在で82.1歳(厚生労働省まとめ)。社会へ出たくても“年齢”がそれを阻んでいるのです。

 また、回復者の方々の多くに子や孫がいないことが、彼らの社会復帰を妨げているといった面もあるのではないでしょうか。かつてのハンセン病療養所では子どもを産むことを許さず、それが法律によって裏付けられていた時代もあったのです。

※1 「天刑」は天が下す刑罰の意。ハンセン病に対する、偏見に基づいた呼称。 

 戻った絆

  “断ち切られてきた絆”が強調されがちなハンセン病問題ですが、絆が生まれた(戻った)ケースに触れ、感動した経験も紹介させてもらいます。

 「2003(平成15)年の春頃、田端 明さんという、私の父の弟がいると聞かされました。父は生前には明さんのことについて、私に何も教えてくれていませんでした。明さんのことを聞かされた時は本当に驚きました。また嬉しくもありました」

 この文章を書いたのは、松阪市の南端 千都子(みなみばた ちとこ)さん。読んでいただいてわかるように、明さんの姪です。千都子さんと明さんの“出会い”から説明しましょう。

 明さんは三重県出身で、現在、岡山県の長島愛生園で暮らしています。1940(昭和15)年、21歳の時に療養所へ入所し、その後失明。故郷や家族との関係を断ってきましたが、三重で差別解消に取り組むグループの訪問を受けたのをきっかけに2003(平成15)年秋、一泊二日の帰郷に至ったのです。63年ぶりの本格的な里帰りでした。その後、親族との面会も実現させたいと願った会のメンバーから、明さんのことが千都子さんへと伝えられたのです。 

 実家の仏壇にお参りしたいという明さんの意向を聞いた千都子さんは、すぐに答えました、「どうぞ、いらして下さい」と。亡き父にかわって叔父さんを大切にしようという気持ちからでした。

 千都子さんと話をすると、よくこんな言葉がでてきます。「叔父さんは目も見えないし、いろんな面で苦しんできた・・・これ以上つらい思いをさせたくないんです」

 千都子さんは定期的に岡山を訪ねて、明さんの生活上の世話をしたり、話し相手になったりしています。

 一方、明さんは「初めて(ハンセン病回復者と)会う人はちょっと躊躇しますけど、千都子はただちに私と会ってくれました。その見事な意思に感動したんです。今は親子みたいで、(療養所に)来てくれるのが待ち遠しいです」と話しています。

 市民の側から

 みなさんは、ハンセン病に関して2009(平成21)年に施行された法律をご存知でしょうか。通称「ハンセン病問題基本法」(「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」)です。国として療養所入所者への医療・介護を確実に進めるとともに、差別や偏見の解消にむけた啓発に努め、療養所を必要に応じて地域に開放していこうというものです。

 法律の施行をきっかけに、市民の側からハンセン病問題に取り組んでいこうという動きが三重で始まりました。「ハンセン病問題を共に考える会・みえ」の発足です。

 中心となったのは、ハンセン病市民学会共同代表の訓覇 浩(くるべ こう)さんと、三重高校教諭の岩脇 宏二さん。二人は設立の際にこんなことを話しています。「(隔離をしてきた)社会が何も変わらなければ解決にはなりません。回復者の皆さんが“最後の戦い”と位置づけ成立に至った基本法を空文にしてはいけないし、血肉を通わせたい。そして私たちの問題として受け止め、新たな関係を作りだしたいんです」

 このグループには、県内で人権問題に取り組む人たちや教育関係者らが加わり、2009(平成21)年から毎年、講演会や作品展を開いています。このうち作品展は、岡山や静岡の療養所で暮らす三重県出身者の絵画や陶芸、写真などを展示するもので、2010(平成22)年の展示では、長島愛生園自治会で架橋促進※2委員長を務めた加川一郎(園名※3)さんの絵が中心となりました。

※2 離れ島だった長島と本土を結ぶ橋を架けようという運動があり、橋は1988(昭和63)年に架けられた。

※3 本名とは別に入所施設内の通名として用いた名前。社会の差別や偏見が親族に及ぶのを恐れて、本名を名乗れない人も多かった。

作品展 作品展の様子(2010年12月、津市で)

 絵画が好きだった加川さんにとって、その没後ではありますが作品だけでも「里帰り」できて良かった反面、帰れなかった絵もあるのです。それは、加川さんの自画像でした。療養所の関係者が未だ社会に残る偏見などを気遣い、顔がわかる作品だけは療養所を出ることができなかったのです。そういう面はありましたが、グループの活動によって多くの人たちがハンセン病問題に関心を持ったことは間違いありません。

市場  加川さんの作品

 人権の問題を考える際、制度は整っても実情は変わっていないというケースがよく見受けられます。例えば「解放令」が出されて150年近く経ちますが、部落差別はなくなったでしょうか。そして「らい予防法」が廃止されることにより、入所者が一斉に園を出て、自分の故郷に帰ることができたでしょうか。そうではありません。だからこそ、三重で市民の側から始まった動きには注目してゆきたいと思うのです。 

 ところで、法律の施行を受けて各療養所では、施設の将来を見すえた動きが始まっています。

 多磨全生園(東京都)や菊池恵楓園(熊本県)の敷地内では保育所が運営を開始したほか、いくつかの療養所では他の病院と同様に保険適用で外来入院ができるようになりました。一方、「将来構想」が進んでいないところも・・・。

 しかし、療養所の中から子どもたちの声が聞こえるということは、これまでになかったことであり、社会との関係において新たな局面を迎えたといえるでしょう。

※4 1871(明治4)年、近世社会の被差別民を「身分・職業ともに平民同様とする」とした太政官布告。

おしまいに

 「骨になって帰れるだけでも幸せ」「絵が里帰りできて幸せ」というほど深刻な側面があるハンセン病問題。また、国立の療養所へ入所している人の平均年齢は82歳をこえています。そういった時代に私たちがすべきことは、「知ること」と「交流すること」に尽きるのではないでしょうか。

 もちろん持っておくべきスタンスは、回復者のみなさんに故郷に帰ってもらうことでしょうが、それがかなわない場合がほとんどです。ですから、市民があらゆる機会をとらえてこの問題について学び、そして回復者のみなさんと交流するチャンスが増えることを願っています。

 療養所を訪ねると、入所者のみなさんは私たちをあたたかく迎え入れてくれます。そして彼らと接していて、“強さ” “広さ” “深さ”・・・そんなものを感じるのです。それは、家族との別離や社会の偏見といった筆舌に尽くしがたい苦難を乗り越えてきた裏返しではないかとも思います。

長島愛生園 長島愛生園(岡山県瀬戸内市邑久町) 

 私は仕事か否かを問わず、岡山の療養所へ行って三重出身のみなさんと伊賀肉ですき焼きをするのが楽しみのひとつです。その時はまさしく「ハンセン病回復者の○○○さん」ではなく「三重の大先輩としての○○○さん」に会っています。

 みなさんも一歩ふみだしてみませんか。シンポジウムへの参加や療養所訪問※5(資料館や歴史館がある施設もあります)など、できることは少なくありません。

※5 「『わたし かがやく』教職員用活用資料集」p.87参照。療養所への訪問等については、三重県健康福祉部 医療対策局 医療企画課 医務・看護グループ(電話059-224-2337)に相談ができます。

 参考

三重県ハンセン病対策ホームページ

ハンセン病市民学会 

国立ハンセン病資料館 

長島愛生園歴史館 

 

本ページに関する問い合わせ先

三重県 教育委員会事務局 人権教育課 調査研修班 〒514-0113 
津市一身田大古曽693-1(人権センター内)
電話番号:059-233-5520 
ファクス番号:059-233-5523 
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