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平成25年10月01日

 今年度の人権学習教材「わたし かがやく」活用のための連続講座は、外国人の人権に係わる問題を解決するための教育について具体的な取組や指導方法を考えることを目的として、8月2日(金)に開催しました。 

 そのなかの研修の一つとして、チグアラ・エチェバリア・マックス・エイビンさんをお招きし、お話を伺いました。チグアラさんは、十代でペルーから来日し、三重県で中学・高校時代を過ごされました。その頃の経験や思い、また教職員に向けてのメッセージを語っていただきました。

講演風景2
 

 

2013(平成25)年度 人権学習教材「わたし かがやく」活用のための連続講座 講演記録

 日本への旅

Chiguala Echevarria Max Eibinさん

1.来日まで

 私が、遠いペルーから日本に来た一番の理由は、父に会いたかったからです。二番目の理由としてはロボットや日本のアニメが大好きで、日本に行ってロボットや機械・情報技術を勉強したかったことがあります。

 私の家族は、父と母、それから私を含めた男三人の兄弟です。父母はペルーで教師の仕事をしていたのですが、警察への就職を希望していた兄を経済的に支援するために、父は別の職業を探す必要がありました。当時、日本の景気が良かったことと、父が日系人だったことから日本で仕事をすることにしたのです。

 私が小学校4年生のときでした。父は日本へ、兄はペルーの首都リマの学校へ行くことになり、家には私と母・幼い弟が残りました。それまで活発で自由に過ごしてきた私でしたが、このとき初めて家のなかの一番年上の男“家の男”になり、兄としての実感を持ちました。「弟を慰めるのも叱るのも、自分の役目だ」「自分はもう悪いことしてはいけないんだ」「でも、自分が泣きたい時は誰が慰めてくれるんだろう」そんな思いがありました。学校で授業参観がある日には、母は勤めがあるので、弟の授業参観に行くのは私でした。周りの子どもたちが親と一緒に登校するなか、「なぜ弟だけが親と行けないのかな」と思いました。弟は何も言いませんでしたが、私は胸が苦しかったです。

 父が渡日して四年が経ち、私が中学2年生の終わり頃のことでした。ある日、父から電話で「マックス、日本に来るか」と言われ、迷わず「行きます」と返事をしました。手続等に一年程かかり、いよいよペルーを離れるとなると、やはり淋しい思いがありました。小さい頃からともに過ごした友だちや家族と離れるのは、なんだか自分の世界が二つになるような感じでした。一方には父がいるけど、もう一方にも大事な人たちがいて、そのみんなからは離れてしまうのだ、と。出発の時、弟と母が見送りに来てくれました。絶対泣かないと決めていたのに、母と抱き合ったとたん、それまでの四年間いろいろと辛かったことが思い出されてポロポロと涙が出てしまいました。弟に「お母さんをよろしくね」と伝えて飛行機に乗りました。

2.日本の学校へ

 飛行機の中では、「日本ってどんな国かな」「お父さんと早く会いたいな」という期待で一杯でした。ペルーからは23時間かかりました。久しぶりに会った父は白髪と皺(しわ)が少し増えていました。父と再会して三日後、「日本の学校に行かないといけない」と言われました。「日本語わからないのに、勉強やっていけるかなぁ」と父に聞くと、「日本の学校では勉強しなくても進級できるんだ」と言われ、びっくりしながらも「勉強しなくていいんだ。やったぁ」と思いました。ペルーでは、小学1年生から留年もあり得ます。「絶対留年したくない」「年下と一緒に勉強するのは恥ずかしい」と思っていたので、それから解放されるのが嬉しかったのです。

 登校初日は、周りの子たちの方から集まって来てくれました。みんなとても賑やかでした。「外人だ、外人だ」と騒いでいたのですが、自分には彼らの言っていることが全くわからなかったのです。ただ、みんなの表情を見てなぜか安心感を覚え、「日本でもやっていけそうだな」と感じていました。でも、一週間も経つと誰も近づいて来なくなり、一人になっていました。「日本語を話せないのだから、飽きられても仕方ない」と思い、家でも学校でも必死に日本語を勉強することにしました。

 日本語がわからなかった当時、自宅から出るとなぜか必ず迷子になっていました。だから「あまり家から出るな」と父に言われていました。ほとんど外出することもなく、意味がわからない日本語の放送のTVを見ている毎日でした。しかも、その頃の父は夜勤続きで、会えるのは日曜日ぐらいでした。「父に会うために来たのに」「日本に来なければよかった」という気持ちが私のなかに生まれていました。

3.「いじめ」という言葉

 三ヵ月程が過ぎ、少し日本語が理解できるようになってきた頃のことでした。学校に、もう一人ペルーから来た子がいました。彼は小学校6年生のときに来日し、日本語も日本の習慣もある程度理解していました。ある日の休み時間、教室で彼と話していたときに、同じクラスの女の子が他のクラスの男の子に殴られるということが起こりました。「ええっ!!女性を殴るなんて男じゃない!助けにいかなきゃ!」と私が言うと、彼は必死で止めるのです。「なんで!?殴られているんだぞ」と言う私を教室から引っ張り出し、こう言いました。「あの女の子はいじめを受けているんだ。助けに行ったら、自分たちもやられる」と。 

 「いじめってなんだろう」と思いました。それまで日本語を勉強してきて、新しい言葉を覚えると嬉しい気持ちになっていました。でも「いじめ」という言葉を知ったときから、「もう日本人の友だちをつくりたくない」と思うようになりました。その日から誰のことも信用できなくなり、日本語を勉強する理由も変わり、「自分の身を守らないと」と考えるようになりました。そのために、汚い言葉を覚えたり、誰かに話しかけられただけで大声で怒鳴り返したりするようになっていきました。

 父とはあまり会えないし、日本には“レディファースト”という感覚もないし、「なんて国だろう。ペルーに帰りたい」と思いました。でも、四年間一人で頑張ってきた父のことを思うと言い出せませんでした。

 4.中学卒業間際に

 卒業式の練習をしていたとき、何人かが私のところへ寄って来ました。彼らは、それまでにも何度も自分のところへ来てくれていたのですが、いつも自分の方が逃げ出したり、怒り出したりしていました。彼らの一人から「一度、話しかけに行った自分をマックスが殴ったの、覚えてる?」と尋ねられました。私は覚えていませんでした。「あのとき、サッカーに誘いたかったんだ」と、その子は言いました。それを聞いたとき、すごく悲しくなりました。自分が逃げていたこと、「友だちをつくりたくない」という気持ちになっていたことに気づきました。

 日本語もよくわからず、本当に辛かった時期に「いじめ」という言葉を知り、目の前に曇ったガラスを置かれたように何も見えない気持ちになっていました。誰も怒ってなどいないのに、みんなから怒られているように感じていたのです。卒業式の練習のとき声をかけてくれた子たちに「本当にごめんなさい」「友だちになりたかった」と今は言いたいです。

 5.高校での出会い

 日本の工業技術を学びたいと思っていた私は、工業高校への進学を希望していましたが、当時の日本語力では難しいかもしれないということになり、別の高校へ入学することになりました。

 「高校では絶対友だちをつくろう」と思っていました。自分がいじめられる不安はまだあったので、用心しながらみんなの様子を見ていましたが、高校生になって少し身体も大きくなっていた私は、むしろ「いじめる側」のイメージで見られていたようでした。そこで、まず後ろの席の人に「話しかけてみよう」と決めました。「ペルーから来たマックスです。よろしくね」と言ったら、彼が「えっ!日本語しゃべれるんだ。すごいな」と興味を持ってくれました。その彼とは同じ部活動にも入り、今でも友だちです。あのとき声をかけて本当によかったと思う場面が、その後いっぱいありました。でも最初はとても勇気がいりました。

 2年生になった頃、進路について父に相談したら「大学で工業にチャレンジしたらいい」と言ってくれたのですが、高校の先生に「工学部にいきたい」と話すと、とても驚かれました。そのとき経済的に条件の合う大学は一校しかありませんでした。しかも受験科目の点でも不利でした。一度は考え直すように言われたのですが、中学生のときには「工業高校に行きたい」と一回言っただけで、あきらめてしまったことを思い出しました。「今度は絶対に行きたい」と思い、繰り返し訴えることにしました。最後には「お願いですから、行かせてください。チャレンジさせてください」と頼み込むと、先生も頷いてくれて、他の先生方にお願いして課外授業や面接指導を行ってくれました。本当に嬉しかったです。 勉強のために職員室に通うこともよくありました。職員室はとても温かい場所でした。授業をしているときとは違う先生の表情を見るのが面白かったし、「自分も、こんな雰囲気の先生になりたいな」と感じました。

 みんな応援してくれているというのが何より嬉しいことでした。3年生になる頃には「○○大学を受験するチグアラ・マックス」という噂をみんな知っていて「がんばれよ」と応援してくれました。勇気をふるって声をかけた彼は、私のためにお守りを買ってきてくれたりしました。試験当日、他校の生徒は何人かで受験に来ていたり、学校から応援の先生が来ていたりしましたが、私は一人でした。でも、なぜか「自分は一人じゃない」という感覚がありました。友だちも増え、いろんな支えももらい、「日本っていいな」「もっと日本について勉強したいな」という気持ちになっていました。

 受験は、残念ながら二次試験で不合格になってしまいました。とても悔しかったですが、受験をきっかけにいろんな友だちや先生と関われたことはよかったと今も思っています。ただ工学部への進学はあきらめられず、自分がとても信頼していたA先生に相談しました。A先生は、高校での人権活動の担当でした。私が人権活動に参加した理由は「外国人はどんなイメージを持たれているのか」「いじめについてももっと知りたい、なぜいじめがあるのか」ということに関心があったからです。ペルーでは、「差別」という言葉はあっても「いじめ」にあたる言葉は一生懸命考えても思いあたりません。

 A先生には、様々な活動の場に連れて行ってもらいました。そして、その行き帰りに先生といろいろな話をするのが楽しみでした。自分の家族のことも話せたし、進路のことも相談しました。時々スペイン語で挨拶してきてくれるA先生に「先生、(スペイン語)へたくそや」と返しながらも、先生の温かさを感じていました。A先生が、奨学金のことや専門学校から大学への編入について教えてくださり、私は専門学校でコンピューター技術について勉強することに決めました。

 6.専門学校での出会い

 その専門学校には、近隣の日本語学校から多くの留学生が進学してきていました。教室の半分くらいは外国人で、いろんな顔がありました。スペイン・韓国・中国・・・八ヵ国はあったと思います。一日目、私の席の隣に身長二メートルくらいのアフリカ系の人が座っていました。思わず「怖いな」と感じてしまった後で、高校のとき、私のことを怖がっていた生徒が何人かいたことを思い出しました。恐る恐る隣に座ったのですが、しばらく動けませんでした。でも、「高校のときも勇気を出して声をかけて大親友になれた。まずは声をかけてみないと・・・」と考え、思い切って英語で自己紹介してみました。すると、彼は「いいよ、いいよ、日本語で大丈夫だよ」と返してくれたのでした。彼は日本語がとても上手だったのです。我ながら「アホやなぁ、自分はなんて偏見を持ってるんだろう」と思いました。彼はその後、私の父のような存在になり、一人暮らしをしている私に「ちゃんと飯食っとるか。服洗っとるんか」と気遣ってくれたりしました。

 その彼とも、「日本人女性のイメージ」の話ではすれ違うことがありました。彼は、来日当初、ある出来事で傷ついて以来「日本人女性」に対してネガティブなイメージを持ってしまい、悪いところしか目に入らなくなってしまったようでした。例えば、電車のなかで化粧している女の子を見て「だらしないよね」と私に同意を求めてきます。私は「まあ、そんな人もいるよ」とそのときは返すのですが、また次の日には別の批判を聞かされることになります。実は私の祖母は日本人です。「日本人女性」といえば、私にとっては祖母のことを言っているように聞こえます。でも最初から「何を言ってるんだ。僕のおばあちゃん、日本人なんだよ」とは、なかなか言えませんでした。ただあまりに何回も繰り返されるので、さすがに黙っていられなくなりました。仲が良いからこそ言わなければ、と思いました。いつものようにその話になったとき、「あのね、確かに悪いところもあるんだけど良いところもあるんだよ」と、一つ一つ自分の知っている良いところを話していきました。彼は「でも、でも・・・」と反論してきましたが、私も返し続けました。「私のおばあちゃんは日本人なんだよ。悪口言われたら、自分のおばあちゃんのことを言われているような感じなんだ。今まで黙って聞いていたけど、ちょっと辛いんだ」と。彼は謝ってくれました。それからしばらくして、彼には日本人女性の恋人ができました。

 私自身もそうですが、日本に来るときは素晴らしいイメージを持っていてワクワクしています。でも私が「いじめ」を知ったときのように辛いことにぶつかり、イメージが悪くなってしまうと、今度は何を見ても悪いイメージでしか見られなくなってしまいます。でもそんなときに、誰かが「こんな良いところもあるよ。もうちょっと良いところを探してみようよ」と伝えることができたら、気持ちは変わるかもしれません。

 私が日本に来たばかりの頃、初めて和食の店に入ったときのことです。「チャワンムシ」というメニューを聞いて「日本では虫を食べるのか!」と戸惑いました。実際にその料理を目の前に出されましたが、「ちょっとお腹がいっぱいで」と断りました。それ以来、和食と聞くと「すみません。僕はいらないです」と言っていました。それから随分あとになって、寿司を食べさせてもらうことがありました。とても美味しいと思っていたら、食べた後に「これ和食だよ」と言われて驚き、「和食についてもっと知りたい」と考え直しました。一旦悪いイメージを持ってしまうと、良いところがあってもなかなか見えなくなってしまうのだと思います。

 


 

  大学進学の夢はまだあきらめていなかったのですが、高い学費をどうするかが問題でした。そんなとき、パチンコ店でのアルバイトを紹介されました。毎日学校とアルバイトの往復をして、できるだけ貯金をしようと努力しました。目標を定めて一生懸命取り組んでいれば応援してくれる人は必ずいるのだな、と思います。そのアルバイトでは、毎日ティッシュ配りがあり、私が配っていると、いつもお婆さんたちが集まってきてくれました。とても温かい人たちで、「またお兄ちゃんか、頑張ってるなぁ」と声をかけてくれます。あるとき一人のお婆さんから「血、混ざってるやろ」と言われました。「その言い方・・・(イヤだな)」と思いましたが、「そうなんです。外国から来たんです」と返すと、お婆さんは「そうなんだね、それなら日本の良いところを覚えて帰ってよ。それをみんなに教えてよ。日本は良いところよ」と言ってくれました。

 一人じゃないと感じることは、とても大事だと思います。一人だと思い込むと、周りに人がいても気づけなくなってしまうことがあります。だから「側にいるよ」という一言も大事です。「一人じゃない」「彼(彼女)がいる」そう感じることで、頑張ろうという気持ちになれるのです。階段を昇っていくときに、一人だと怖くて、落ちたら嫌だということばかり考えてしまう。でも、何人も一緒だと「もうちょっと行けるな」と思いながら、どんどん上がっていける。さらに上の景色が見えてくると「もうちょっと上へ、もうちょっと上へ」と昇り続けられます。そんなイメージです。

 この専門学校時代に、いろいろな人たちに出会うことで、いろいろな考えがあることを知るとともに、学んだことがあります。一つは、少しでも良いところを探してみること。もう一つは「私はこう思うけど相手はどうなのかな」と相手の立場に立って考えること。そして、自分の気持ちも伝えること。それを伝えないと相手のことばかりになってしまいます。お互いにうまく通じ合える点を探すことが大切なのだと思います。

 7.大学へ、そして就職

 頑固な私は、国立大学への編入学を考え続けたのですが、単位不足や制度の条件が合わず、最終的に私立大学を受験し合格しました。ずっと学びたかった分野に入れたことが嬉しくて、1時間目から7時間目まで時間割を全部埋め、朝から夜9時までひたすら勉強しました。何も食べていなかった人が、食べられるようになったときのような感じでした。そのようななか、教員免許が取れることがわかり、高校時代のことを思い出しました。初めは行きたくなかった高校だったのに、その高校を好きにさせてくれた先生たちの姿がよみがえってきて、「自分も先生になって生徒のために何か恩返しをしなければ」と思うようになっていきました。

 数学の免許を取ろうとして教務課に相談すると、「数学の単位が不足している。考え直した方がいい」と言われました。「またか」と思いましたが、ここで諦めるわけにはいきませんでした。「私のために言ってくれているのはわかりますが、お金は無駄になってもいいのでチャンスをください」と言いました。教務課の人は呆れた顔でしたが、「数学は無理だけど、情報の免許から取ってみたら」と提案してくれました。

 ところが、情報の免許取得は決して簡単ではありませんでした。担当の先生が厳しい方で、容赦なく現実を突きつけられました。これまでは、勉強に関して間違えることがあっても「外国人だし、日本語を頑張っているんだから、大目にみてやろう」ということがよくあったように思います。その先生と出会ってそのことに気づかされました。「そんな日本語で先生になれるのか。ダメだな」と言われ、自分も「そうだ、これは甘くないぞ」と覚悟して、日本語もさらに勉強するようになりました。「先生に嫌われている」と感じながらも努力し続けたのですが、その一年では免許を取ることができませんでした。あるとき、校内の「教師会」(教員をめざしているクラブ)の集まりで、その先生とお酒を飲む機会がありました。先生とお酒を飲むということに戸惑いはありましたが、そんな席だからこそどうしても聞いてみたいことがあったのです。「私は情報の免許を取れますか」というのが、その質問でした。先生はこう答えました。「君は自信がありすぎる。自分のやっていることを正しいと思い込んでいて、こちらの言うことに耳を貸そうとしない」と。自分でも思い当たるところがありました。そして、先生が「もう一年頑張ったら取れると思う」と言ってくださったのを聞いて、諦めないでおこうと思いました。

 その後、数学科教育法も受講できることになり、母校で教育実習もさせていただいて、情報の他に数学・工業の免許も取ることができました。負けず嫌いな性格なのだと思います。「できない」と言われると、「いや、絶対できる」と思ってしまう。でもそんなところがなかったら、ここまでやらなかったかなと思います。大学卒業時に、私立の工業高校で教員を募集していることを知り、「ずっと行きたかった工業高校にもう一回トライできる」と思って試験を受けに行きました。今はその学校で、教員として仕事をさせてもらっています。

 8.先生たちへのメッセージ

 来年1月で来日十年目になります。九年前は「日本ではやっていけない」と思い、ペルーへ帰りたくて仕方ありませんでした。外国から来ている子どもたちのなかには、今、同じことを思っている子どもがいるかもしれません。言語や習慣の違い等いろいろな壁にぶつかって、最初は本当に辛い思いをします。そんななかで光が見えてくるのは、誰か信頼できる人が現れたときです。親以外でいえば、例えば学校の先生です。きっかけとして、私にとってのA先生のように母語で挨拶するのもいいし、ただ声をかけるだけでもいいと思います。その子どもが「自分のことを気にかけてくれているんだな」と少しでも感じ取れることが大事です。私は、そんな先生方が周りにいてくれて運が良かったと思います。

 学校にはいろいろな生徒がいます。「外国人か、日本人か」という国籍だけで考えず、みんな「生徒」として見てほしいと思います。例えば「数学が苦手な生徒や体育が苦手な生徒がいるように、日本語が苦手な生徒がいる」という風な捉え方からスタートすることはできないでしょうか。日本語が苦手な生徒にも、得意な教科はあるかもしれません。「できない」というイメージを、まず無くしてもらえたらと思います。そして、誉めてあげてください。叱ってあげてください。「普通の生徒」として接してください。なかには、家族の問題を抱えている生徒もいるかもしれません。そんなときも外国人・日本人関係なく「生徒」として接することが大事だと思います。先生の側が「外国人だ」と思いながら接していると、生徒は逃げてしまいます。「特別扱いされている」と本人にはわかるからです。だからまず、先生の側が一人の「普通の生徒」として声をかけていくことで、少しずつその子にとって信頼できる人になっていけるのだと思います。

 今の私は「日本に来て本当によかった。あのとき帰らなくてよかった」と思っています。いろいろな人と出会い、日本の良いところを見つけたり、教えてもらったりしました。日本には良いところが本当にたくさんあります。それを先生方から子どもたちに教えてあげてください。

 

 質疑応答より

講演風景3Q.学校での日本語指導について、どう考えますか?

A.私の中学校には日本語教室があったのですが、私はそこよりもみんなと同じ教室で勉強させてほしいと思っていました。先生方は一生懸命教えてくださったのですが、これから日本で他の子たちと同じように勉強していくためには、普段の授業がどんな感じなのか知りたいと思っていましたし、特別扱いされることに違和感もありました。わからないことがあったとしても、みんなと同じ教室の中にいたかったのです。「わからない」のも大事な経験だと思います。もちろん日本語教室の方がいいと思う生徒もいます。だから、どうしたいかを聞いてあげるのもいいと思います。そんな風に気にかけてもらっていることは、どの子にとっても嬉しいと思います。

Q.名前を省略されることについて、不満や不快感をもつことは?

A.よくあります。日本に来て名前がカタカナになりました。その時点で「自分の名前じゃない」と感じました。「マックス」ではなく「Max」なのに、と。日本では「一つの名字に一つの名前」というのが一般的なのだと理解はしていましたが、高校や大学の卒業式では、自分のフルネームの入った卒業証書がほしいと思いました。ただ、例えば日本人がアメリカへ留学に行った際に「私の名前を漢字とひらがなで書いてください」と求めてもなかなか叶わないでしょう。それと同じことなのだと思います。卒業式等、何かの節目のときには本来の名前を大事にしながらも、日本で生活していくうえでは、日本式のやり方があるということを教えるのも必要だと思います。

Q.親への関わり方について思うことは?

A.南米から仕事で渡日した人の多くは、忙しくて子どもといる時間が少ない現状があります。親たちは「会えないけど、あなたのためだ」と思いながら一生懸命仕事しているのです。ですから、子どもにとっていろいろなことを覚えられる場は学校になります。「これは学んでおいた方がいい」ということは、親たちにも伝えておく方がいいと思います。そのためにも、親たちとこまめにコミュニケーションを取ってもらえるといいと思います。

Q.外国人児童生徒に関わるうえで大切なことは?

A.目標があるかないかで子どもたちの毎日は全然違います。外国から来た子たちのなかには「夢なんて無い」と答える子も少なくありません。日本で何ができるかわからないので夢が持ちにくいのだと思います。そんなとき私からは「頑張ったら先生にでもなれるんだ」ということを伝えるようにしています。選択は、選択肢を与えられないとできません。日本の子どもたちと同じように、外国から来た子どもたちにも「何ができるんだろう」「何になれるんだろう」ということを、周りのおとなも一緒に考えて目標を見つけていくことが必要だと思います。

Q. 目標とした人物は? 

A.大学進学の相談にのってくれた二人のペルー人の先輩がいました。彼らは「この道だけじゃない。いろんな選択がある」ということを教えてくれました。二人とも私の第一希望の大学を卒業した人たちでした。そのうちの一人は今、別の大学で教授をしています。また、三重県で人権活動をされていたブラジル出身の方との出会いも印象的でした。彼が日本に来た頃は、外国人はもっと辛い立場にあったようです。彼の生き方を知って「今、自分があるのは彼のような人たちが道を切り拓いてくれたからだ」「自分も後輩たちのために何かを残したい」と思いました。これからも、日本にいる子どもたちに「一生懸命やれば、どこの国にいても夢は叶う。地球の反対側から来ている人間が言っているんだから!」と伝えていきたいです。

本ページに関する問い合わせ先

三重県 教育委員会事務局 人権教育課 調査研修班 〒514-0113 
津市一身田大古曽693-1(人権センター内)
電話番号:059-233-5520 
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