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三重県戦争資料館

出征・軍隊・戦地

タイトル 兵隊送り
本文  ひぐらしやかつては兵の征きし道
 NHK学園で俳句を学んでいるが、この句は私が選んだ互選句のひとつである。小学生だった頃私は多くの出征兵を見送ったのだが、その情景は今も鮮明である。しかし、現在の私には非常に重いものに感じられる。征ったまま帰らぬ人もまた多かった。ひぐらしはその象徴に思えるのである。つらい句である。
 兵隊送りの日は早朝五時に村の神社に集まるのが慣例であった。社殿前では軍服に身をかためた出征者が村人の挨拶を次々と受けている。夏の朝はさわやかだが、冬の五時はまだ暗く冷たかった。家族、親戚、隣組、青年団、婦人会をはじめ、村中総出である。社殿で武運長久祈願の式があり出発である。
 天に代わりて不義を打つ 忠勇無双のわが兵は 歓呼の声に送られて
 今ぞ出でたつ父母の国 勝たずば生きて帰らじと 誓う心の勇ましさ
 歌い出せば今でも最後まではっきりと覚えているのが不思議である。この歌を歌いながら村はずれまで一粁(キロメートル)余、小学生を先頭に日の丸の小旗を手に手に行進である。昭和十九年四月、私は村の国民学校高等科二年に進級、川原区の通学団長となる。前年度の団長から受け継いだ兵隊送り用の日の丸を掲げ、一年間その先頭に立って歩いた。
 当時は木の橋だった川原橋を渡ると、道はほぼ直角に右に曲り坂にかかる。ここが「別れの坂」である。
区長さんが激励の言葉を述べ、出征者が別れの挨拶をする。その締め括りは「では元気で行きます」と決まっていた。出征者の多くは若者だったが、妻子持ちの人もあった。どんな思いで別れの挨拶をしたのだろうかと思うと心が痛む。「行って来ます」ではなく「行きます」と言うのである。「行って来ますは、行って帰って来ると言うことで、女々しい事だから言わないのだ」と父から聞いたことがある。当時の禁句のひとつであった。深く意味を考えることもなく、むしろ浮き立つ思いで歌っていたことが恐ろしいことだったと、今思うのである。「勝たずば生きて帰らじと」の句は、大君の為に死ぬことこそ本懐という当時の風潮を見事に表わしているからである。妻子のために生きて帰りたいと思ったに違いない。しかし、それを言葉には絶対に出せない時代であった。
 最後に万歳三唱があり、兵隊送りは終る。出征者とその家族は、電車の駅まで更に六粁余を歩くことになる。「別れの坂」を通る度にこんなことを思い出すのである。
 出征者はまた、武運長久と書き、家族や親戚の名を寄せ書きした国旗を肩から斜めに掛けていた。生きて帰ってほしいとの願いのこもっていることを、出征者自身が一番重く感じとっていたはずである。
 また、千人針があった。私の記憶では、手拭二、三枚を合わせて針を通し玉結びするものだったが、母や姉が作っているのをよく見たものである。一人がひとつの玉結びを作るのだから、一枚の千人針ができ上がるためには数多くの女性の参加が必要であった。でき上がった千人針は刺し子のように丈夫であった。出征者はこれを腹に巻いて弾除けにするのだとも聞いた。しかし、永遠の別れになる可能性の多い夫を、子を、恋人を、兄弟を送る人達にとって、この千人針にこめられたものは、言葉にはならない「祈り」以外の何ものでもなかったろうと思う。そして、それを受ける出征者はその千人針を肌身離さず持つことで、一針々々縫ってくれた女達の祈りを決して忘れることはなかっただろう。それにしても、千人針は誰が考え出したのだろうか。国策に協力するものとして創り出されたとしても、千人針をつくる者と、受ける者との間に生まれる共通感情は、兵隊送りの歌や別れの坂での出征者の挨拶とはちがったものであったと、今私は思うのである。戦争が生み出したものでありながら、戦争を越えたものとでも言えばよいのだろうか。
 昭和十九年九月、師範学校を繰り上げ卒業して教師になっていた兄も、間もなく出征者の仲間となった。しかし、千葉県の松戸の戦車学校で終戦を迎え復員したので、わが家は遺族にならずに過ぎた。
 川原区は当時も戸数百七十戸程であった。近藤重太郎著「川原郷土史」によると、太平洋戦争への出征者は百名を越え、そして遂に故郷の土を踏むことのできなかった出征者は三十五名だったと伝えている。官・階級・氏名・年齢・散華年月日と場所・続柄が詳細に書かれている。二十歳代が殆どだが、三十歳代六名、四十歳代二名が含まれている。
 あれから五十年の歳月が流れた。太平洋戦争殉職者の「合祀碑」が村はずれの出合と呼ぶ地に建っている。高さ八尺、巾三尺余で、くずれ積みの台石に乗っているが、だんだんと忘れ去られようとしている昨今である。

タイトル 私といくさ
本文  私は軍隊に約八年も在隊していた「たたき上げの兵隊」だった。軍隊の表も裏も知りつくした兵隊だった。実際に鉄砲玉が飛んでくる所にいた兵隊だった。冒頭、私の軍歴を略記しよう。
 昭和十三年一月十日、私は現役兵として歩兵第三十三連隊歩兵砲中隊(現久居市)に入営、同年五月から翌十四年八月の部隊凱旋まで中国に出征して徐州、漢口などの大会戦に参加した。帰国後は原隊で足かけ三年内地勤務、昭和十六年十一月十七日動員下令で名古屋港を出航した。
 十一月二十九日パラオ島に到着、太平洋戦争出撃に備えた。十二月七日パラオ島を出発、十二日フィリピン・ルソン島南端のレガスピーに無血上陸、息つく間もなく部隊は一路首都マニラに向け進撃、翌十七年一月六日マニラに入城、暫時、マニラ郊外の米軍兵舎に駐留していたが、一月二十九日風雲急を告げるバターン半島戦線に投入された。
 三月二十九日敵砲弾破片で右腰部負傷、台湾を経て臨時東京第三陸軍病院で闘病生活、十八年九月原隊復帰、内地勤務を経て終戦に至る。
 私はこのように中国や比島(フィリピン)で戦っているが、今でも私の脳裏に強烈に焼きついているバターン半島の戦場、とくに敵戦車との戦いや私の負傷について述べる。

一「敵戦車との戦い
 当時私は第二大隊本部(安田部隊)で命令受領をしていた。所属部隊は第二大隊砲小隊であったが、命令伝達以外は大隊本部で起居していた。二月七日昼下り、突然ジャングルの中から「キイー」「キイー」という甲高(かんだか)い金属音が聞こえてくる。何だろうと前方を見ると敵戦車が三台、わが陣地めがけて突進してくる。ジャングルの樹木や草を薙(な)ぎ倒してやってくる。まさか、こんなジャングルに戦車が、友軍は全く意表をつかれた。
 大轟音とともに戦車砲の弾丸が太い樹木を倒す。戦車との戦いが初めての兵士は怖ろしさの余り右往左往して逃げ出すので、戦車の格好の餌食となり、死傷者がでる。安田大隊長は「壕へ入れ」と怒鳴るが、あまり効き目がない。肉迫攻撃班が出て戦車に登り、天蓋(てんがい)を十字鍬(か)でこじ開けようとするが、先に射たれて地上にころげおちる。
 大隊長はついに、「大隊砲で戦車をうて」と命令した。私はこの命令を隊長に伝えたが、対戦車砲である速射砲ならともかく瞬発信管をつけている大隊砲の弾丸で、果して戦車に効果があるだろうか、と疑問をもった。二門の大隊砲が火を噴いた。そのとき戦車は数メートルの近距離まで迫っていた。まともに当たった先頭の戦車は一時動かなくなったが、やがてきびすを返して後退、あとの戦車もこれに続いた。
 大隊砲の攻撃で、戦車を陣地から排除したことは一応評価されるが、近距離発射で友軍にも多くの死傷者がでた。わが大隊砲小隊も小隊長・指揮班長などが負傷、観測班の上等兵が観測器材を負ったまま死んでいた。そのため私はその日から小隊長代理、そして負傷するまで悪戦苦闘の連続だった。

ニ、遂に負傷
 昭和十七年三月二十九日はよく晴れ渡り、前方にはマリベレス山がくっきりとその雄姿を現わしていた。四月三日の神武天皇祭の総攻撃に備えて、私は陣地構築に余念がなかった。
 突然「ガアーン」という大轟音とともに辺りは真っ暗になり、私はその衝撃で地面にたたきつけられた。一瞬、戦場特有の硝煙の匂いが鼻をつく。あちこちで戦友のうめき声、断末魔の叫びがする。今まで頭上を飛んでいた敵砲弾が、樹木の梢に当たり炸裂したらしい。
 私はやおら身を起こし、立とうとしたが、右腹または右腰から、どろっと血が噴き出していて立ち上がることができなかった。思わず「俺もやられた」と叫び、「俺の生命もこれまでか」という思いが頭をよぎった。
 翌朝仮包帯所で、衛生兵を助手に軍医の砲弾破片摘出手術が始まった。「戦場だから麻酔はない。痛いだろうが辛抱せい。」と軍医はいって、ピンセットを傷口に差し込み破片をまさぐったが、腰骨に食い込んでいる破片は取れなかった。そのため軍医はヨードチンキを右手にぶっかけ、人さし指と中指の二本を傷口に入れて、ようやくにして破片を摘出した。そして軍医はひとこと、「腹でなくてよかった。」とつぶやいた。

 ″戦友の眠る常夏レイテ島″
 私は負傷したため九死に一生を得たが、バターンで戦った戦友はレイテで玉砕した。改めてめい福を祈念したい。人間最悪の所業は戦争、二度と繰り返してはならぬ。ポスト戦後五十年も平和を希求してやまない。

タイトル 若き兵士の未明の朝食
本文  五十年前の八月十五日、蝉しぐれの降りそそぐ晴れ上がった空から暑い太陽が照りつけていた。街中は連日の敵機からの機銃掃射も止み、異様なまでに静まり返っていた。
 正午、四球真空管の古びたラジオから雑音の激しい中で終戦の大詔が放送された。
 母と妹等は空襲を避けて郊外の農家に疎開していた。職場から昼食に戻っていた父と、当時中学一年生であった私とが家にいた。
 ラジオにかじり付いていた父が「戦争が終ったァー。」と突然叫んだ。私は「神国日本」は今に「神風」が吹いて敵は降伏し、日本は戦いに必ず勝つと信じていた。
 私は「そんな馬鹿なことがあるもんか。」と、父に反論した。ラジオから流れる言葉が判じ得ぬままに何度も父に反論した。
 父は私の言葉に耳も貸さず「戦争は終った。」 「終った。」 「終った。」と、なかば独り言の様に繰り返していた。
 戦争が始まり、職烈(しれつ)な戦争のなかで生き、そして終戦、昭和六年生まれの私は当時の心境として、いつ死んでもよいと、覚悟を決めていた。
 五十年の歳月を経ても、なお深く刻まれている、あの日、あの時の体験は昨日の如く強烈な印象となって甦(よみがえ)って来る。
 その一つを書き記して置きたい。
 昭和十七年、当時の海軍は鳥羽市にある「相島」、現在観光のメッカとなっている「ミキモト真珠島」を借り受けて伊勢湾沿岸を防衛する戦略上の基地が設置されていた。文献によると、横須賀鎮守府所属の第四特攻隊の司令部が置かれ、船艇による迎撃準備が成され、湾内には機雷付設艦が停泊していた。
 その基地に、まだ二十才にも満たぬ一人の若き兵士が配属されていた。
 基地は時折「半舷(はんげん)上陸」と称して民間に一晩の宿泊を許されていた。我が家にも頼まれるままに泊まりの宿を引き受けて、時折「上陸」してくるその兵士の宿を提供していた。世話好きな母親は、不意に訪れる兵士の来訪を快く引き受け、風呂を沸かし、手料理を作り家族ぐるみの奉仕をしていた。
 そのような出会いが三、四回あったある日、彼の若き兵士は対岸の伊良湖方面の基地へ転属していった。
 終戦の年の四月末ごろか、突然、その兵士が「公用」と赤く染め抜いた腕章を巻いて、夜遅く・艪ェ家を訪れて来た。
 家族一同に大事に扱われていた兵士は、軍の要務を帯びて伊勢湾防備隊の鳥羽の基地へ出張に来て、任務を終えて後許されて一泊の宿を願い出たのであった。一同歓迎するところでその夜は遅く寝た。
 翌日未明、台所で物音がするので床より起きて見ると、兵士と私の母が向かい合って食事を摂っていた。小さな卓祇台(ちゃぶだい)を境にして正座した二人は、ただ黙々と食事をしていた。防空上、灯火管制の厳しい時代、二燭(しょく)の電球に尚黒い布を被せた暗い電灯は二人の持つ茶碗の中の御飯のみがやけに白く見え、兵士と母の顔は定かには見えなかった。……しかし、ゆっくりゆっくりと無言の中に口に運ぶ「味噌汁と漬物」だけの未明の食事の光景は、私には一つの儀式のように感じた。
 母親のお代りを勧める声は涙声の様に思えた。前夜の遅い就床、尚未明の食事は余り進まなかった様でもあり、兵士は一杯の御飯と、それでも熱い味噌汁をすするときは「おいしい」と小さな声でつぶやいていた。
 母親は残る御飯を握り飯にして、梅干とたくわんをそえて兵士に持っていくように勧めた時、兵士はやおら正座の姿勢を改めて母親に向かい「お母さん、有難うございました。」と台所の板間に手を突いて深々と礼を言った。……母親はうつむいた兵士の背中に手を当てて軽くさすりながら声もなくうなずいていた。目には涙がいっぱいたまっていた。既に出立の時間が来たのか兵士は急ぎ「公用」の腕章をはめ直し軍靴を履いて玄関の戸を開き、母親の作った握り飯の包みを捧げる様に持ち、挙手の礼をして明け切らぬ鳥羽の暗い街を基地へと去っていった。
 時々母は「お母さん、僕と一緒に御飯を食べて下さい。」と言った声が忘れられない、と言うていた。後で聞いた話では「特攻要員」として新たな基地に赴任するとのことであった。
 世話好きな母親は既に亡くなり、その兵士からもその後の便りもなく、行方は定かでない。健在ならばお会いしたい……。

タイトル 海軍徴用船
本文  昭和十八年九月、海運業を営んでいた父のもとにも「第二八千代丸を海軍に徴用する。大阪に回航せよ。」という召集令状がきた。そのとき私は尾鷲尋常高等小学校高等科一年で十二歳だった。船は父と叔父の二人だけなので、私は船に乗る決心をした。
 九月十二日に、父の船長と叔父の機関長と私の三人が乗った第二八千代丸は、在郷軍人会、国防婦人会の人々の万歳の声に送られて尾鷲を出港した。
 大阪に着いてから船の修理をし、操舵室の上に機銃台の取り付けをした。二人の乗組員が配属されてきた。満蒙開拓義勇軍で満州(中国東北部)にいたが凍傷にかかり、内地にもどされ、この船に配属されたのだという。二人とも私より二歳年上で、足の親指はなかった。船は呉海軍軍需部配属となった。呉には「大和」「武蔵」をはじめとする数えきれないほどの軍艦がいたので、日本は絶対に戦争に負けないと思った。
 私たちの船は呉を根拠地として、瀬戸内海の島々の基地や、軍艦や大型の貨物船に弾薬や物資の運送をしたり、積み込みをしたりするのが任務であった。 十九年の夏ごろから呉もB29の空襲があり、海軍工廠(こうしょう)が爆撃された。秋月へ避難したが、凄い爆風で飛ばされるかと思った。
 船尾には「三重、尾鷲港」としてあるので、昼の休憩時に同郷人が訪ねてくれたことがあった。一人は岩国で、少年兵に志願して行った同級生が声を掛けてくれた。きびしい訓練のようすを話していった。もう一人は、竹原の港で声を掛けてくれた。学徒動員で来ているとのこと。腹をすかしていた。船へ上げていっしょに昼飯を食べた。
 日が経つにつれて呉に停泊する艦船の数もだんだん少なくなってきた。物資の輸送に軍艦や赤十字のマークの入った病院船を使うようになってきた。航空母艦が砂糖を積んできて、それを新居浜に運んだこともあった。
 二十年になり、尾鷲は津波で大きな被害が出たという話が伝わってきた。三月に大阪に物資を積みに行くことになったので、父と私は尾鷲に立ち寄った。家は流失を免れたが一階の天井あたりまで潮がきていた。隣近所は私の家に折り重なっていた。幸いにも家族は皆無事で叔母の家で世話になっていた。母は流れ残った家財を洗って干していた。食糧がなくて難儀している家族をあとに船に帰った。
 ある日、秋月の岸壁で火薬を満載した。ところが、艦載機の呉大空襲があり、離岸せよとの命令が出たので、沖合百メートルのブイに停船した。艦載機と日本軍艦とのものすごい戦闘になった。じっとしておれず、船室を出たり入ったりしながらその様子を見ていた。軍艦は呉を離れて少しずつこちらへやってくる。至近弾の波が何本も司令塔の高さまでのぼる。雨のように落ちてくる弾丸の破片……。空襲が終わったとき、私たちの船の近く三百メートルほどで一等巡洋艦「最上」が右に大きく傾き、呉のドックに入れられた。船のマストには直径三十センチメートルほどの弾丸の破片がささっていた。よくも助かったものだ。
 しかし、昭和二十年七月二十四日の大空襲では、父も、叔父も、二人の船員も海の藻屑と消えた。
 その日の朝、海底電線を積んで山口県上関を出港し呉に向け航行中、広島湾の中央で艦載機の大空襲に遭遇、父の「空襲だ。」の声で、私と二人の乗組員の三人は船室に入る。父は操舵室に、叔父は機関室にいた。が、間もなく、おびただしい機関銃の音がして船のエンジンが止まった。船室は煙が立ちこめ何も見えない。二人に声を掛けたが返事がない。息苦しいので外に出ると、デッキではすでに、父はうつぶせに、叔父は上向きに、二人とも血だらけで倒れていた。ゆり動かせど動かず、呼べど返事なく、船は火災をおこして燃え盛る。熱くてどうしようもなく、海に飛び込んだ。船は惰力で百メートルほど進んで行った。次々とやってくる艦載機は、泳ぐ私の上に銃弾を浴びせる。銃弾は帯状に水しぶきを上げて幾筋も私の前や横をすり抜けてゆく。そんな中で、四人を乗せた船は燃えながら沈没していった。空襲が終って私は岩国航空隊の高速艇に救助された。高速艇は燃えている船を回りながら、私の船もさがしてくれたが破片すら見つけることができなかった。岩国から呉に帰りその顛末(てんまつ)を報告した。そして、別の船に配属となり、以前のような任務についた。
 八月六日、呉から江田島に向けて航行中、広島手品の沖で、突然、目もくらむ大閃光(せんこう)があり、同時に「ドッカーン」という大音響があった。茶色っぽい煙が立ちのばり、これが暫くすると、きのこのような形になった。呉に帰ってから「ピカドン」という爆弾をアメリカ機が落としていったと聞いた。
 八月十五日敗戦となり、尾鷲に帰った。明日の食べ物さえない状態の中で、一家を支える生活が始まった。
あれから五十年たった。

タイトル 私の青春時代
本文  昭和十九年(1994)一月十日、村はずれの庚申(こうしん)堂前で村民の皆様に「国の為君の為一身を捧げて参ります」とお別れの挨拶をし、「祝出征○○○○君」と大書した幟(のぼり)を先頭に各戸一人ずつ総数五十人程の人達に、当時の国鉄山田駅(現伊勢市駅)までお見送りをして戴き、駅頭では会社の方達の「君が代」と「出征兵士を送る歌」の大合唱で励まされ、九時三十六分発の汽車に乗り万歳の声援に応えて、窓から身を乗り出して手を振り声張り上げて「頑張って参ります」と出発した光景は遠い過去のようでもあり、然し私の脳裡には今も鮮やかに思い浮かべる事が出来る。
 この事は日本国中が聖戦であると信じ、天皇陛下の衝楯(みたて)となって死ぬ事は男子の本懐であり、大東亜共栄圏建設の礎となる事に何の疑いも持たない時代であった。主として東海近畿の同年の者達が広島に集合し、一日は身体検査を受け、その夜は当時の風習として身内の者がつきそってきたから、私も父と兄と旅館で最後の一夜を共にし、二日目に一ツ星の軍服と着替え広島駅で肉親の見送りを受け出発した。
 関釜連絡船で釜山に着き公会堂らしき建物の板敷きにごろ寝したと覚えている。翌日軍用列車に乗り一路現地入隊先の独立守備歩兵大隊四四一部隊が駐屯していた当時満州国三江省羅北県鳳翔へ向けて出発した。途中京城(現・ソウル)であったと思うが、満期除隊する人達とすれ違い、任務を終えて故郷へ帰る者とこれから初年兵として任地へ赴く者とが、お互い汽車の中から手を振り合った光景が眼に浮かぶ。北へ進むに従って積雪が厚くなり、汽車の蒸気が日本では見られない程白く濃いものが吐き出されていた。
 任地に着いて古兵のしごきに耐えながら三か月間小銃の基本訓練を受け、次の三か月は重機関銃の訓練と演習に明け暮れ、部隊長の検閲を受けて全員二ツ星の一等兵に昇進した。軍隊という特殊な組織の中では、昭和十九年から二十年の中国や南方での戦争状態や国内の状況を知る由もなく、只時折戦友達が新品の軍装に着替えて転属して行く先が南方らしいといううわさは耳にしたが、自分達は関東軍の精鋭である事を誇りにしながら守備地である満州(中国東北部)で勤務していた。
 昭和二十年八月七日早朝突然に起った轟音と銃声に見舞われた我々はソ連軍の侵入を知る。当時部隊の主力は国境の陣地構築に行っており、二百数十名の留守部隊であった我々は、ソ連軍の重戦車の砲火と引金を引いているだけで数十発の弾丸が連発する歩兵と対戦したが、貧弱な武器しか持たぬ我々はその地を離れ本隊に合流すべく転進に移った。
 山の中を何日も歩き飢餓と開いながら、八月十五日の敗戦も知らず、二十五日日本の将校が同行したソ連兵によって武装解除を受けた。各地に集結した軍人、軍属、開拓団、地方人は千人単位に区切られシベリヤに連れて行かれる。編成の最後尾にいた我々は三百数十人の軍人、開拓団、地方人の混成集団で十一月ソ連へ連れて行かれた。
 満州の一冬を経験していた我々も、寒さに耐え得る被服や食糧の少ないシベリヤの冬は身にこたえた。満州から徴発してきたらしい糧株(りょうまつ)は籾(もみ)米、精白前の高梁(コーリャン)、石炭ガラのまじった粟等到底人間の食せるものではなく、またその量も少なかったから四六時中空腹のままで、作業だけは一人前のノルマを達成するよう追いまくられる毎日であった。話題と云えば、何時頃帰れるだろうか、帰ったらボタ餅を腹一杯食いたいといった事ばかりであった。顔を洗わず、歯も磨かず、勿論入浴もなければ洗濯も出来ない毎日であれば、シャツの縫目にはシラミが行列をつくり不衛生な宿舎の南京虫に悩まされ、それでも昼間の疲れでいつの間にか眠ってしまう。
 入ソ二年目位から糧秣と被服が多少改善されたが、その頃から洗脳が始まり作業の休憩時間には日本新聞の輪読を強要され、作業出発前には民主委員会のアジテイションを聞かされ、作業場までの道程では赤旗の歌を歌いながら行進し、夕食後集合がかかれば共産主義の教育であった。軍国主義の教育同様その事に同調しなければ仲間から無視され、精神的な虐待を受け、いつ帰れるかわからない他国でいい知れぬ孤独を味わう人達を見聞きしているうちに、いつの間にやら自分も染まっていった。どうにか命を持ちこたえた私は、昭和二十三年十一月三日、恵山丸で舞鶴に上陸したが当時の日本は未だ物不足で大変な時期であった。
 五十年前の我々の青春は今にして思えば灰色どころか、暗黒の時代であったわけだ。しかし現在は東西の冷戦も終り世界各地で民族紛争はあるものの日本自体は平和そのものである。この平和を未来永劫(えいごう)維持する責任は現在生きているものの責任であると思う次第である。

タイトル パゴタは見ていた地獄への進軍
本文  日本の無条件降伏により、既に生き地獄と化していたビルマ(現・ミャンマーの戦場から這(は)い出し、敗戦による降伏軍人として、英軍の捕虜収容所へ収容され、ラングーンで二年間屈辱の強制労働に服し、昭和二十二年七月夢に見た祖国へ生還し、戦争を仕掛けた日本で、いま平和の有難さをしみじみと噛みしめる今日である。ビルマ地獄と呼ばれた戦場では、幾度かマラリアで倒れ「明日は俺ものたれ死にか」と覚悟したこともある自分が生還出来た不思議な運命を回顧する今日この頃である。内地で犠牲になられた方々もあり、戦場で散った戦友(とも)はもう還ってはこない、これ等の方々の尊い犠牲のうえに今日の日本の繁栄があることを、決して忘れてはなるまい……。
 おもうに戦前戦中の吾々(われわれ)一般国民は、軍国主義で洗脳されていたと言えよう。吾々は軍隊で「軍隊は天皇陛下の軍隊である。上官の命令は天皇陛下のご命令と心得よ」と厳しく教育され叩き込まれた。依(よ)って大東亜戦争も陛下のご命令と信じ、召集は陛下のお召しと心得て応召し、出征したのである。
 戦後悲惨な戦場の一つとしてビルマの戦場が話題になった。依って私がビルマで体験しこの目で見た戦場回想の一端を綴ることとするが、何分紙面に限りあり意を尽くせない点があるがお許しいただきたい。
 京都第五十三師団(以下師団という)の司令部と先発の京都歩兵一二八連隊は、厳冬の内地から常夏のマレーと仏印に至り後発部隊の到着を待つ。十九年三月ビルマではインパール攻撃隊がチンドウィン河畔へ集結中で、その背後は空白地帯となり、そこへ敵空挺旅団が降下して陣地を構築し、友軍の補給路を破壊し遮断す、依って第一線の友軍が孤立した。
 三月二十七日南方総軍は師団に対し、後続部隊の集結を待たずに直ちにビルマヘ前進を命じ、ビルマに入るやビルマ方面軍は、北ビルマの敵空挺部隊を撃滅し翌友軍救出を命じた。師団はインドウへ前進し仏印から駆けつけた歩兵一二八連隊二個大隊をして五月初めモール空挺陣地攻撃を開始、五月に入り内地から直行した久居歩兵一五一連隊一個大隊が合流し残敵追撃戦となる。されど友軍機は一機も飛ばず頭上は敵機のみ、依ってジャングル内を進撃しホーピンを経て、更にナムクイン陣地を激戦の上撃滅するも我が方の損害大、この直前より本格的な雨季に入りマラリア、赤痢など風土病猛威をふるい患者続出し師団兵力半減状態となるも、夜間泥沼の中をモガウンに至り孤立友軍を救出す。されど急進軍の為泥中に倒れし者収容されず悲劇を生むことになる。師団は第一線となるも弾薬糧抹(りょうまつ)の補給なし。ところが米英中の連合軍が猛反撃を開始し、こちらが一発撃てば百発撃ち返してくる近代兵器には勝てず。じりじりとジャングルを後退し、立止っては戦う撤退作戦となる。
 この頃インパール攻撃も物資の補給なく撤退に転じていた。昔から腹がへっては戦にならんと言うが、近代戦争で空軍ゼロ、弾薬食糧医薬品なしでは戦争にならんだけでなく、日本軍撤退の道中には生き地獄絵巻を繰り広げ、おそらく白骨街道になっていたことと思う。
 二十年三月にはイラワジ河を挟んで死闘を演じていたが二十日頃後方へ敵戦車約二千が突入しラングーン街道を遮断し友軍を包囲す。依って東方ジャングル地帯へ撤退、六月には南端のシッタン河口東岸へ追い詰められ、逃げ遅れた部隊やラングーン在留邦人の脱出支援となり、シェジンで渡河となったが、渡河中に空襲に遭い雨季の濁流へ飛び込んだ溺死体が昼夜吾々の眼下を流れ下った。終戦となったが吾々は脱出完了後の九月に脱出者の通ったジャングル内のけもの道を後退したが、そこはビルマ地獄の縮図となっていた。
 ビルマ戦線は北端から南端まで日本軍の歩いた跡は生き地獄街道に変貌していたと言える。無理もない、「糧秣は敵に求めヨ!」と一喝して強行させたインパール作戦、これが全軍を振り廻したもので、かかる無謀な命令の犠牲となった戦没戦友達の憤りくやしさを代弁し得る者は吾々をおいて他にはない。依ってここに概要を綴り、せめて戦没諸兄への供養の一灯になればと念ずるものである。ビルマ各地の丘にはパゴダ(仏塔)が聳え立ち、下界を御照覧である。日本軍の補給なき進撃は地獄への進軍になることをお見通しだったと思う。
 人命を軽視し、人間を消耗品扱いにして、個人的には何の恨みもない人間どうしが互いに殺し合う、残酷極まる戦争は人類の敵である。この様な戦争を二度と再び繰り返すことがないよう、切に祈るものである。

タイトル 九死に一生
本文  戦争は日を追って激烈を極め内地も戦場となり、連日の敵機空襲により都市は焦土と化し、それでも尚本土決戦で勝利を信じ歯を喰いしばって戦を続けた将兵や国民は、長崎、広島の原爆投下により多数の犠牲者を出し最早これまでと終戦となったのは五十年前、尊い命を国の為に捧げて散った若者は二度と帰ることなく五十回忌を迎えました。
 私も赤紙一枚で海軍に召集され短期間に厳しい訓練で″義は山よりも尚重く死はこう毛より軽し″と覚悟せよとの軍人精神の基本をみっちり注入され喜び勇んで死地(戦場)に向かったものです。私は船舶警戒兵として武装商船岩木丸に乗組みました。海なんて見た事もなく、まして船に至っては一度も乗った事のない山猿です。ものすごく船酔いをしました。
 その時隊長が直心棒(野球のバットと同じ)で海軍軍人が船に酔っていては使い物にならんと尻を四発なぐられ、その痛さは今でも忘れる事が出来ません。でもこれは本当の意味で愛の鞭でした。それ以来お蔭でその痛さが身に染みて絶対酔わなくなりました。よ-し思う存分国の為に戦うぞと敵愾(てきがい)心に燃えた二十一才の青年でした。
 船は北海道小樽を基地として、武器弾薬、食糧、人員を搭載し七隻船団とし護衛艦に護られ千島列島最北端の占守島及び幌莚島へ出港しました。昭和十九年四月敵潜水艦の魚雷攻撃、空中よりの攻撃に対戦しながら無事目的地へ到着しました。帰りも辛うじて北海道へ戻りました。
 第二回の目的地は中千島松輪島へ五隻船団で青森県大湊港を出港、函館他の港で搭載を完了し目的地へ航海を続けました。途中幾度となく攻撃を受け、護衛艦共々交戦を続けながら松輪島へ入港、即荷揚げ、人員の下船を終えました。帰途は現地(松輪島)でアリューシャン″キスカ島″を撤収して同島に集結していた兵員を多数乗せ北海道へ向け夕方出港しました。
 明日は内地へ帰れると、キスカ島を撤収した兵達は甲板に出て各自故郷を思い浮かべながら喜びに充ちあふれる涙をおさえてはしゃいでいたのが印象的でした。なんとしてもこの兵隊達を無事内地へ送り届けたいの一念でした。然しこの航海が悲劇の最期を遂げるとは誰が予測したでしょうか? 勿論全船に分乗です。夜航海で、翌朝濃霧のため船団はバラバラとなり無線連絡をすると敵潜水艦にキャッチされるので、霧の晴れるのを待って船団再編成のため船足を止め、散らばっていた各船は次々と集合して来て四隻の船舶と護衛艦二隻が集合完了、一隻は遠く船団より離れ船影は見えない海上からSOSを発信、潜水艦の攻撃を受けている旨を受信したその直後、我が船団も敵潜水艦に包囲され一斉魚雷攻撃され、先ず護衛艦二隻が沈没、断末魔の汽笛が艦影が水面より見えなくなるまで鳴り響いて誰一人飛び込む者はなく全員艦と運命を共にしました。
 護衛艦に引続いて商船も全船沈没。私達の船のみ撃沈を免れ全速力で出港した松輪島へ引返しました。夕方入港一夜が明け、やっと安堵感で笑顔が戻ったのも束の間、見張りをしていた警戒兵から「左90度敵潜水艦」と悲壮な声で連絡、時を置かず「ドカーン」と大音響と共に戦闘配置に着く間もなく船は真っ二つに折れ沈没、便乗の兵隊や船員達も大混乱となり、船と共に海中に没する者、必死で厳寒の海に飛び込む者、又爆風で海中に飛ばされた者、私達は最後まで船を離れる事が出来ないため、飛込まずに残っていたが、既に死体は数知れず浮き沈みし、飛込んでも冷たい水中で到底長時間命を保つ事は不可能で体の自由もきかず,救助船も潜水艦が浮上して機銃攻撃をしているので思う様に活動が出来ない状況です。
 敵潜水艦は浮上してアザ笑うかの様に英語でペラペラしゃべりながら機銃攻撃を容赦なく敢行してきます。
 攻撃も終り救助艇に助けられた時は百人位は生きていたと思いますが、救助後次々死んで行き、残ったのは僅か十数名、戦死した将兵や船員(軍属)の数は全船団でおびただしい数です。
 九死に一生を得たものの、明日は内地へ帰れると喜んでいた兵隊達は一人も帰る事なく厳寒の海深く眠っている。ああ生きて故郷に帰りたかっただろうにと思い複雑な気持ちでした。
 死に直面し天皇陛下万歳と叫ぶ者、悲壮な声でお母さ-んと母を呼びながら死んでいった者、それは今でも脳裏から離れません。
 以上が戦後五十年、私の戦中の貴重な体験です。

タイトル 軍国少年の挽歌
本文  『海軍二等水兵を命ず』 昭和十九年五月二十五日、時に十五才、いや正確には十四才と七か月。海軍特別年少兵また一人誕生す。
 歓呼の声や日の丸の旗に送られ、故郷をあとに一昼夜、緊張に震えながら大竹海兵団の営門をくぐった。あれから五十一年過ぎたのに、まるで昨日の事のように憶えている。
 海軍特別年少兵は、一般に『特年兵』と呼ばれた。昭和十七年九月第一期生が生まれ、十九年は第三期、この年、呉鎮守府の大竹(広島県)には九百四十名が入団した。同期は皆、十四、十五才の子供達、今でいえば中学三年生になったばかりといったところか。
 同じ少年兵でも歌になった『予科練』とか、陸軍の『少年戦車兵』等は、さかんに宣伝されかっこよかったが、我が特年兵の存在を知る人は意外に少ない。
 それ故か『幻の兵隊』といわれたり、また『昭和の白虎隊』と詠んだ詩人もいるにはいたが、ようするに、帝国海軍が産んだ史上最年少の兵隊だったのである。
 この十四才の少年を、一途に戦場へとかり立てたものは一体何であったのか。
 昭和十八年、戦局の行方など小学生に判るはずもなかったが、アッツ島では守備隊が玉砕し、また連合艦隊司令長官が壮烈な戦死を遂げたのも、この年の四月であった。
 決戦の秋きたる。少国民は何を為すべき。答は一つ、海ゆかば水漬く屍……、山本長官に続け、である。学校卒業をひかえ、私は迷いなく海軍を志願した。ただ戦争に勝たねばならない、ひたすらそう思った。『お国の為に尽せ』と朝に夕に叩きこまれてきた。
 死の本当の意味を知るにはあまりにも幼なすぎたし、親達もよく許してくれたと、今でも不思議に思うのだが……。
 かくして試験に合格、卒業前には早々と採用通知がきて『大竹海兵団』に入団が決定された。嬉しかった。行先に死が待っているというのに。これで、お国の為、少しは役に立てるのだと、子供心にも、それがたまらなく嬉しかった。
 忠君愛国、滅私奉公、撃ちてし止まん……。絵にかいたような軍国少年であった。私の入団は五月で、卒業から二か月ほど間があったが、同じように合格した友の一人は、晴れの卒業式も待たず二月に、海軍通信学校に行ってしまった。俺も直ぐ行く、今度は靖国で会おうぜ、なんてのは、てれくさくてとても口にはだせなかったが……。
 やがて私も待望の海兵団に入った。だがそこは、まさしく地獄の一丁目。かねて覚悟はしていたものの、シャバでは想像もつかぬ厳しい訓練(基礎教育)が待ち構えていた。夜は夜で、兵舎の中は鉄拳とバッター(木刀で尻を叩く)の嵐が吹きまくった。理由なんかどうでもよい、『海軍魂』を入れてやる、という鬼教班長の暖かい思いやり?あれもこれも、総て一人前の水兵になるためと、少年達は歯をくいしばって必死に耐えた。
 超猛訓練と、罰直と、こうして徐々に徐々に、いつしか兵隊らしくなっていった。
 総員起しから巡検まで、およそ自由のきかない日常の中で、楽しみはやはり食う事のみ。でも、あの頃何故ああも腹が減ったのか。食った先から腹が減る、という感じのなさけない日々であった。
 兵舎の拡声器が告げる。
 『食事、食事、よく噛んでゆっくり食べよ』そして静かに音楽が流れる。さすが海軍、とこれを真に受けたのは子供。最初そのとおりのんびりと食っていたが、程なくして教班長の怒声がとんだ。拡声器より大きく。
 『貴様らそんな事で戦さができるか、バカモン!早メシ早グソ芸のうち、分かったか!』
 食前食後、三百名の分隊員が斉唱する、ありがたい言葉(諺)があった。
 著とらば天地御代(アメツチミヨ)の御恵み、君と親との恩を味わへ
 箸を置く時に思えよ報恩の、道に怠りありはせぬかと
とてもとても、君の恩も、親の恩も味わう余裕などありはしなかったが……。 つらい新兵にも月日は流れる。鍛え抜かれて十か月、勇躍、海兵団を巣立つ時がきた。だが何たる不運(幸運)、その頃には、もう我々を乗せてくれる艦も少なく、大方は内地の特攻基地や、航空隊に一兵員として配属され、空しく終戦を迎えるに至った。故に特年三期の戦死者は少ない。
 がしかし、先輩はとなれば話は別。一期、二期併せて六千百名。そのうち熱帯の海にまた孤島に、力戦及ばず散華せる童顔の特年兵、実に三千二百名。
 共に海軍に入った級友の一人は、戦いが終わって乗艦が内地帰投中に触雷し、そして遂に選ることはなかった。痛恨ここに極まる。
 今なお深海に眠る、汚れなき幼な顔の戦友を偲びつつ……。

タイトル 終戦前後の回想記
本文 ニューギニア、オーストラリアの北に位置するこの大きな島で、半世紀前日本軍と米豪軍との苛烈な戦いがあった事を、皆様、特に若い方々は御存知でしょうか。
 終戦時、私は東部ニューギニア(現在パプアニューギニア)の山南地区の小部落に三名で守備についていました。
 当時、連合軍の包囲圧迫は日を追ってはげしく戦線は錯綜し、七月には第十八軍全員玉砕の命があり、その時期は概ね九月頃と伝達されていました。小銃弾十発足らず、手榴弾一発では最後の戦いは数分で終った事でしょう。
 終戦を知ったのは一週間位後でした。しかし、敵の銃爆撃、砲声は十六日以降はたと止み、「日本降伏、直ちに戦闘を停めよ」と云うビラが散布され、何時ものご馳走のカラー絵入り降伏勧告ビラとは違うため、三名で敵の謀略だ、いや負けたのだ、俺達は豪州で強制労働させられる、いや日本へ帰れるのだ等、話し合った事を覚えています。
 数日後、連隊本部へ集結、何日間かの山越えでしたが、十九年七月、十八軍あげてのアイタペ攻撃で食糧、弾薬つき、二十日程で打切られ、自活のため山越えをした時の苦労と比べれば生きる希望を得た山超えでした。海岸ボイキンで武装解除、十八軍全員ムシウ島に送られ捕虜生活、ここでも飢餓、病気のため多くの兵隊が亡くなりました。
 二十一年早春、復員船「高栄丸」に乗り、十日後浦賀に上陸、異常な寒さに閉口した事を覚えています。
 思えば日本は大東亜共栄の名の下に、北へ、西へ、南へと戦線拡大、多くの国々へ犠牲を強いました。東部ニューギニアにおいても然り、原始生活に近い暮らし(特に山の部族)ではあったが、平穏な生活をいとなんでいた処へ突然武力進出、いや応なしに戦争にまきこみ、三万とも四万とも云う犠牲者を出してしまいました。
 私の限られた戦争体験ですが、特に若い方々に知って欲しい事を話しましょう。
 十八軍、十四万とも云われた兵隊が生還復員者一万名、十三万人の日本兵が戦没、私の所属していた連隊も例外ではありませんでした。
 戦後の遺骨収集は、厚生省発表では四万七千柱とか。アイタペ作戦前、転進と云う名の下ひたすら西へ(ウエワク地区)後退していた頃、セピック川の大湿地帯を通過した時、放置された遺体中、既に白骨化したおびただしい遺体の数、正に地獄絵の様で今でも脳裏に焼きつけられています。
 アイタペ戦後の山超え時も同様、飢餓と病魔のためでした。恐らく十万近い遺体が土と化して彼の地に眠っている事を忘れてはなりません。又、十八軍の中、二十師団には多数朝鮮の人達が動員され、日本名で戦没しています。台湾の高砂族(先住民族)も同様でした。その遺族は終戦後、日本国籍を離れたためその後の事はどの様になっているのでしょうか。
 又、アイタペ戦後山入りした三万の兵隊は、終戦迄パプアの人達の協力で、彼等の乏しい食料(主食はサゴ椰子の澱粉や芋類)の提供、勿論何の報酬もなく私達を助けた淳朴な彼等の行為について感謝の言葉もありません。このことも知って欲しいのです。
 戦争は人間性を失い、時として狂気の感情が支配します。勿論少数ではありましたが、人間性を通した人達もいたとは思いますが、私は例外ではありませんでした。私も多くの戦友を失いましたが、あの時ああすれば良かったのではないかと、くやまれるばかりです。又終戦直前の部落民離反についても、部族の生死を考えての酋長の苦渋に満ちた決断だったのであろう事を理解すべきでした。
 終戦から五十年、生きて帰ったことに様々な負い目を引きずって私も満七十三才となりました。
 東部ニューギニアは一九七五年に独立、パプアニューギニアとなりました。この国の近況については深くは知りませんが、時折の報道によれば、日本の投資が木材と漁業に集中され、環境破壊や大量漁獲のため住民の生活がおびやかされている等、芳しからぬ話を耳にします。又彼の国へのODA援助の実情はどうなっているか、残念ながらその情報はあまり知らされていません。
 日本はパプア住民を思いもよらぬ戦争に巻きこみ、三年の間苦難犠牲を強いました。繰りかえす様ですが、一万名の兵隊が生き残り得たのは彼等のおかげでした。日本はパプア住民に大きな借りがある事を忘れてはなりません。
 ODA援助についても、その趣旨の原点に立ち援助を受ける国のためのものであり、いやしくも日本企業優先のための援助ではないことを銘記せねばなりません。
 今はただ彼の国の平和な発展を祈るばかりです。

タイトル 傷痕いまだ癒えず
本文  太平洋戦争中、私も海軍軍人の一員であった。五十年前を想起してみると、いろいろなことがよみがえってくる。
 昭和十九年十一月某日の深夜、輸送船で陸軍兵士と軍需物資を南方戦線へ輸送中、台湾沖で米軍の魚雷攻撃を受け、船は沈没、私は夜の海に五時間余漂った末、日本海軍の掃海艇に救助され死をまぬがれた。このとき、乗船していた陸海軍軍人・軍属六百余名が海に消えた。私は運がよかったのか? 否、戦争とはそんな単純なものではない。
 救助された私は、台湾・高雄の海軍病院に収容され一か月入院、一旦、乗船前の勤務地武山海兵団に戻った。
 年が明けて二十年五月、兵長に進級すると同時に横須賀海兵団へ転属となった。それ以来、猛烈な訓練の明け暮れとなった。血へどを何度も吐いた。爆雷を両舷(げん)に搭載した小型木造艇で、日夜、敵艦への体当たり訓練である。いわゆる肉弾攻撃による使い捨て隊員、俗にいう特攻隊員の一員にされたのだ。
 私の出撃は昭和二十年七月末日に予定されていたが、直前になって八月二十日に延期された。これで二度目の命拾いをしたことになる。しかし、出撃は必至である。攻撃先は、たぶん沖縄だろうと覚悟は決めていた。国家のために死ぬのである。何も思い残すことはなかった。怖いとも思わなかった。若い情熱だけが、体じゅうにたぎっていた。ところが、出陣五日前の十五日になって終戦となった。なぜだ! そんな思いだった。
 かくして私は、三度目の命拾いをした。戦争終結がもし五、六日延びていたら、私は間違いなく″名誉の戦死″をしたはずであった。その私が、あれから五十年も生き延びているということを、どう考えたらいいのだろうか。ただ、私のように紙一重の状態で生き残った人のいることも事実である。
 三度も死をまぬがれたという命運は、運がよかったというのでもなく、偶然そうなったという思いもない。それは、あの過酷な戦争という渦中において、そんなにたやすく運や偶然に巡り合えるとは考えられないからだ。
 ただ、死ぬものは死に、生きるものは生きたということは、運否天賦(うんぶてんぶ)といえなくもないが、他面、戦争はそれほど非情であり残酷だという証明でもある。しかし、戦争によって″死″という運命にさらされた本人やその遺族には、耐えがたいものがあったはずである。それゆえに、これらの人たちに対する憐憫(れんびん)の情と、生き残った罪悪感みたいなものが今も心の底にある。その思いは薄れるどころか、五十年経った今も、炎のように燃えさかってくるほどである。
 僚友が出撃する前夜、彼は、
「ひと足先に行くぞ。」
と言った。
「うん。」
「お前も後から来いよ。」
「うん、おれもすぐ行く。成功を信じとるぞ。」
「おおっ。」
 淡々とした短い会話の中に、涙はなかった。それは、大日本帝国の盛運を信じていたからだ。
 その翌日、海軍伝統の「帽振れっ」の号令で出撃隊員に別れを惜しんだときの情景は、私にとって幻影ではないのだ。今日は友の身なれど明日は我が身、という切迫した当時の心中は、今思い出すも腹立たしいかぎりであり、その傷痕はいまも癒(い)えていない。
 当時、私は十七歳、十八歳を軍隊で過ごしたが、特に妻子を残して死んでいった人たちの心情には、計り知れないものがある。わが身を鴻毛(こうもう)の軽きに置き、″海征(ゆ)かば水漬く屍(かばね)、山征かば草生(む)す屍”となることが悠久の大義に生きる道と教えられた果てが、″死″と″敗戦″であった。現在のわが国の繁栄は、そうした犠牲者の上に成り立っていることを真剣に考えねばなるまい。
 私たちは、この豊かになった背景に何があったのかをじっくりと考え、もっと謙虚に生き、平和を愛する国民として責任ある行動を起こすべきであろう。そのことが、ひいては国に殉じた人々への鎮魂にもなると考えるからである。

タイトル 台湾海峡を越えて(少年兵の記)
本文  「貴様らが内地へ帰るときの姿は蒲鉾だ。遺骨は戻らない。代りに、封筒に遺髪と爪を切って入れよ。遺言のある者は入れてよし。」
 日本の敗戦の色濃くなった昭和二十年一月に、所沢陸軍航空整備学校で、特別幹部候補生として重爆撃機の整備技術を修得。台湾に転属となり、門司港から出航することとなった。
 当時、年令は満十五才、中学三年の途中から応募、約十か月間、一人前の下士官に仕上げるための厳しい訓練で体力の限界までしごかれ、精神力で耐え抜いた。親にはとても見せられない凄惨を極めた鍛え方だった。
 「足を半歩開け。」 「歯を食いしばれ。」 の怒号と共に、両手に強く握りしめた厚い皮のスリッパで両頬を打ち据えられ、脳震盪で倒れた。気がついた時は戦友達に寝台に運ばれていた。頬からは血脂が湊み出て固結し、ハンバーグを両頬に貼りつけたようで、口が開かなかった。食べなければ訓練に耐えられないので、戦友に味噌汁だけ流し込んでもらったが歯の当たった口内は裂け、訓練で流れる汗が頬に滲みる痛さで人間の形相ではなかった。
 訓練半ばの頃、教官の一撃でコンクリートの床に後頭部から落ちて失神、ふと意識が戻り、自分は今、何をしているのだろうかと、周囲を見廻すと、整然と隊列を組んで飛行場に向かって走っていた。駆足の震動で脳が正常に戻ったのだろうか、無意識下でも、叩き込まれた訓練通りに体が反応して、集団行動が出来るまでになっていたのだと思う。
 下関までの夜行列車は、降り積もった雪の中をひた走り、再び生きて帰ることのない故郷紀州から、無情に引き離して行った。
 門司港で、南方に向かう兵士は、膨れ上がって全身が重く感じる程両腕両胸に予防注射を受けた。然し、悪疫より先に命を襲う魚雷攻撃への対応が頭を離れず、注射待ちの時間を階段で、右手を前に伸ばして落ちる方向と体の安定をはかり、左手で睾丸を握って、垂直姿勢のまま海に飛び込む訓練を繰り返し行った。輸送船は五千四百屯(トン)のメルボルン丸だった。
 昭和二十年二月十二日に運命の出航、今生の別れとなる母の住む故国を寒風のデッキで万感の想いをこめて見おさめた。やがて内地の山が不審な方向に消えて行くことに気付いた時は、玄界灘を北に進路をとっていた。仁川沖まで北上後黄海を横断して、右手遠くに雪を頂いた華南の山々を仰ぎながら南シナ海を福州付近まで南下、台湾海峡を渡って基隆に入港したのは門司出航一週間目の深夜だった。
 この間の船の生活は「人権」のかけらもなかった。船室は押入れの高さに仕切られ、立っては歩けず、前列の三人の間に伸ばした脚を挟まれた形で坐り、夜も体を横に出来ず前後左右お互いに凭(もた)れ合って眠った。上は満州(中国東北部)から来た部隊で、朝日の射す頃床板の隙間から虱(しらみ)がバラバラと首筋に降ってくるのが見えるが、体を寄せて避けることも出来ず、冷たい海に沈むまでのお互いの命を尊重して付合って行くことにした。食器代わりの飯盒は一度も洗った事はなく、船が南下するにつれて蒸れて臭くなった飯盒に、また次の食事時に盛って手渡しで送り込んで食べたので、全員アメーバ赤痢に罹り下痢に悩まされた。下痢の体で便所への出入りがまた大変で、前に坐っている兵を掻き分け、後に坐っている兵の顔や胸を蹴って泳ぐようにして這い出し、帰りは船の揺れでこばれた便所を歩いた靴で、再び戦友の背を蹴って潜り込んだ。便所は船の外、波の上に梯子(はしご)を突き出した形の危険なもので、うねりで船が傾くと振り落されないよう両手でしがみつかねばならず、大波が尻に届くくらいに盛り上がってくるので、慣れるまではカが入らなかった。便所の帰りに船尾に出て、今では数千粁(キロメートル)も隔てられてしまった内地の方向に目をやると、鉛色をした鱶(ふか)の群れが先を争ってどこまでも追尾してくるのが見えた。相次ぐ輸送船の沈没で人間の味をしめた鱶であり、これが所沢を出発時に班長から引導を渡された「自分の遺骨の身代りとなって内地にもどってくれる蒲鉾」の原料であることを実感出来た。
 初めて見る基隆は、夢見るような淡い港の灯と、煙るような霧雨に包まれて静かに眠っていた。無事で上陸は出来ないと覚悟をしていたので、あまりに静かな、戦争には拘(かかわ)りのないような夢幻の港の景色の中に浸って、これが死後の世界なのか、こんなに苦しまずに仏の住む世界に導き入れてもらうことが出来たのかと、デッキで夜霧に濡れながら自分の頬を抓(つね)って見たが、痛かったので本当に生きて台湾に上陸できるのだと嬉しさがどっとこみ上げて来たのを忘れることが出来ない。
 マラリヤで苦しんだこともあったが、沖縄特攻の支援、敗戦後の強制労働にも耐えて、再び生きて祖国の土を踏むことが出来た。爾来二度の人生を授かった事に感謝して、自分なりに精一杯に生きて来た。本年四月十五日に護国神社での二十三柱の戦友の慰霊祭に参列して戦後の一つの区切りが出来た。

タイトル 波濤の中に浮かんだ母のわらべ歌
本文   一つ  ひなたの山道を
  二つ  二人で行きました
  三つ  港の蒸気船
  四つ  他国(よそ)から着きました
 これは大正の末から昭和の始め頃、私が母からよく歌って聞かされたわらべ歌である。古稀を越えた今も時折口ずさむことがある。歌は、「五つ急いで見にゆけば、六つ向こうの青空に、七つならんだ白い雲」と続いてゆく。メロディーもうろ覚えながら歌っていると、幼い日の情景や、まだ若かった母のことなどがかすかに思い出され、さらには、南の海で地獄を見ていたあの時のことまでよみがえってくるのである。
「グァーン」という大音響とともに船はぐらりと左に傾き、エンジンの音がピクリと止まった。敵機の機銃掃射のため死傷者が続出し甲板は血の海だ。救命ボートも穴だらけである。船の傾斜は大きく沈没の時は刻々と迫る。やがて退船命令が出た。船を諦め、兵隊たちは救命胴衣をつけて海に飛び込む。私も心を決め右舷から飛び込んだ。昭和二十年一月十二日、輸送船神祗(しんぎ)丸が仏領印度支那のサイゴン(現、ベトナムのホーチミン市)からシンガポールヘ向かう途中のことであった。
 神祗丸は入隊後間もない十九、二十歳の初年兵の私たちを主体に、千四、五百名の陸軍の兵隊を満載していた。前年十二月十四日、海軍の護送船団の中に入り、福岡県の三池港を出てサイゴンまで来たのだが、そこで船団から離れ、他の四隻の輸送船とともに南シナ海を南下しはじめて間もなく、米海軍空母の艦載機の編隊に爆撃されたのである。神祗丸は左舷に至近弾を受け舷側を破られ浸水、僚船のフランス丸は炎上、後に沈没。他の三隻は必死に退避するという状況となった。
 午後一時過ぎ、神祗丸の七千トンの船体は海中に没した。執ように攻撃していた敵機もようやく引き揚げて行く。海面には無数の兵隊たちが浮いていた。みんな元気で互いに励まし合っていたが、時間がたつにつ
れ次第に心細くなってくる。南の海でも体が冷えてくる。三隻の僚船は救助に来てくれないのか、救命胴衣もやがては浮力がなくなる。自分はもうここで死んでしまうのかと思った。
 と、すぐ近くで「おかあさ-ん、おかあさ-ん」と叫ぶ声がした。顔は見えない。母を思い出してしまった私も。ふと、ふるさとの海が脳裏をよぎる。四、五歳の頃まで育ったふるさとの、私の記憶にある鳥羽の海はこんな海ではなかった。いつも穏やかで平和な海だった。幼い私は母の背中でそんな海を見ていた。そして母が歌う歌を聞いていた。それはなにかもの寂しいような歌だった。私はその歌が好きだったことを覚えている。私をおぶった母は小さい声で歌い、歌に合わせて歩いていた。懐かしい磯のにおいがしていたような気がする。もう遠い遠い昔のことだ。幻のような穏やかな日々だった。もうあのような平和な生活には戻れない。何時間たったのだろうか、やはり周囲に島影一つ見えなかった。
 来た、船だ。船が来た。あの三隻が、また敵機に攻撃される危険を冒して救助に戻って来てくれた。(当時は船舶の喪失が多大となったため、救助より退避を優先させるとのことであった)有難い、地獄に仏だった。私は報国丸という小型船にやっと救い上げられた。やれやれだった。ところが、しばらくすると船は走り出した。まだ多数の兵隊が波間に漂い必死に助けを求めている。だが船は見捨てて行く。再度の敵襲が必至なので時間がないのだという。残酷だ、戦争は残酷である。申し訳ない、残された戦友たちよ、自分らだけが助かって。果然、敵機は来襲した。三隻の中の大型船、第三共栄丸は爆弾の直撃を受け、真っ二つになってたちまち沈んでしまった。この船には最も多くの兵隊が救助されていたが全員戦死であった。結局、報国丸ほか、伏見丸の二隻のみが、三百名足らずになった私たちを乗せ、辛うじてサイゴンに近いサンジャック泊地まで帰り着いたのであった。
 戦後、無事に帰国できた私は永年住んでいた大阪から鳥羽へ帰り、その後の人生は故郷で過ごしてきた。危急のさ中に、束の間脳裏に浮かんだあの歌のことはいつかまたすっかり忘れ果てていた。ところが二十年ほど前、母の死後ふとまた思い出した。それから人に尋ねたり、わらべ歌の本を調べたりして、あらためてこの歌の歌詞を知ることができた。時折、「一つ、ひなたの山道を……二つ、二人で……」と口ずさみながら海辺を歩いている時、やはり、その海の果てに眠る亡き戦友たちのあの若い顔がよみがえってくる。今はただ亡き人たちの冥福を祈るばかりである。これからも私はこの歌は忘れないだろう。
  八つ  山家(やまが)のおさの音
  九つ  ここまで聞こえます
    とんとんからりとんからり
  十で港も暮れました
    とうに港も暮れました

タイトル トマトと兵隊
  祖国の運命よりトマトの運命を心配した或る不忠なる兵士の物語
本文  朝鮮に近いソ満国境に駐屯する、私の所属していた重砲部隊に移動命令が下ったのは終戦を約三か月先に控えた一九四五年五月のことだった。勿論、終戦が近づいているということなど当時知る由もなかった。行く先は日本。精鋭を謳われた関東軍の本土移動は刻一刻と近づいて来る米軍の日本本土上陸に備えてのことであった。米国の潜水艦がうようよする日本海を薄氷を踏む想いで渡った私たちの輸送船が無事到着したのは新潟港。そこで国防婦人会の方々から梅干し入りのお握りを戴いた時、日本に帰ったという実感をヒシヒシと身に感じたものである。そのお握りの美味しかったこと……。口にこそ出さねど日本の敗色は誰の眼にも明らか、私たちを待ち受けているのは米軍との決戦であり、それは死を意味するものであることが分かっていても生きて再び戻れぬと信じていた祖国の土を踏めたということは望外の喜びであった。もう死んでも悔いなしという気持だった。
 待機場所として当てられた場所は神奈川県平塚市から四粁(キロメートル)程奥に入った相模湾を見下す小高い丘の上の古寺であった。当時、米軍は相模湾から上陸して来るだろうと見て、これを迎撃するため山中に穴を掘り、そこに大砲を据えつけるのが私たちに課せられた仕事。昼夜兼行で続けられる作業の苦しさもさることながら、それにも増して私たちを苦しめたのが空腹。当時の食糧不足を反映して私たちに与えられる食事は雀の涙程、重労働の体には耐えられる筈がなかった。そこで″遠征″と称して寺を脱け出し付近の畑からトマトやジャガイモを盗んで空腹を癒(いや)すのが兵隊の間の常習となっていた。無断外出の禁を犯してのこと故、見つかれば脱営の罪を問われることは勿論。が、空腹の辛さは懲罰の怖さを遥(はる)かに越えるものであった。
 八月十五日、隙(すき)を狙って″遠征″に出掛けトマト数個を抱えて帰って来ると本堂は空っぽ、境内の広場に兵隊が整列している。「しまった!!非常呼集がかかった!!点呼で俺のいないことがばれたろう。こりゃ大変!!」と取り敢えず夜中に取りに来る積もりでトマトを裏庭に埋め様子を窺うと、どうもおかしい。ラジオの放送を皆静聴している。「忍び難きを忍び……」という言葉が耳に入ったが、いつもの如く「最後まで我慢して戦え」と言っているのだろう位に思って、気がつかれない儘(まま)に、そっと列の後尾に近づき「どうしたんだ」と戦友の一人に訊くと「玉音放送」とのことで「日本は敗け無条件降伏したのだ」と言う。負けるとは思っていたが、狂信的教育のお蔭で降伏するとは思っていなかったので、びっくりしたものの、このドサクサでトマトを見つからなかったという安堵感が先に立ったのは我ながら″不忠の臣″だと思ったものである。部隊長が悲痛な声音で泣きながら「我々は敗けたのだ。部隊は解散する」と言った時、列の中からアチコチで啜(すす)り泣きが起こり、それが号泣に変わると「俺たちは降伏しない。最後まで踏み止どまって斬死する」という叫び声が起こり、これに和してアチコチで「最後の一兵まで戦おう。帰りたい奴は裏切者として戦陣の血祭りに上げる」と抜身の日本刀を振り廻す者まで現れた。こんな空気の中で「帰る」などと言い出せるものではない。
 生きて虜囚の辱めを受けず。敗ければ米国の奴隷にされると教えこまれていた私が「生きて甲斐なき身、斬死でもするか」と考えていると「高木、どうする」と近づいてきた兵隊がいる。東大出身だが″かぶれている″とかで昇進せず″万年上等兵″ のアダ名を奉っていた古参兵である。「斬死だ」と答えると「馬鹿言うな!!お前たちは軍閥に欺(だま)されていたのだ。本当の日本はこれから生まれる。日本はこれからよくなるんだ。それにはお前たちのような若い力が必要だ。臆病者といわれてもいいから犬死にしないで帰るんだ。俺は帰るよ」と言う。何故か、彼の言葉には抗えないカがあった。強い訴えがあった。平素寝ころんで煙草ばかりふかしていたグウタラ万年上等兵の姿が急に大きく見えてきた。
 十人程の仲間と共に部隊長に帰ることを申し出ると「軍服を脱いで行け」と言う。夏だから寒くはないもののランニングに跨下(こした)では敗残兵そっくりで情けないと思ったが仕様がない。人眼を避けるため日の暮れるのを待って平塚駅まで夜半の道を急いだ。駅では空襲の被災者や帰還兵でゴッタ返していた。一般市民は軍服姿の兵隊を見ると「帰るのか!!お前等のような意気地のない兵隊がいたから負けたんだ」と罵ったり果ては石を投げつける者までいた。私たちは裸に近い姿のお蔭で″空爆羅災者″と間違われ「お気の毒に」とお握りまでくれる人がいた。禍転じて福とやら、一時は怨めしく思った部隊長の顔がよく見えてきたから現金なものである。
 ここで皆と別れ帰途についたが米軍の空襲で線路や橋梁が所々で破壊されており平素なら汽車で故郷の三重県尾鷲まで八時間位のところが二十四時間近く掛った。懐かしの家についたのは夜の十二時近く、勝手知ったる我が家のこととて裏の台所の方から「今、帰ったよ」と入ったが、こんなに早く帰って来るとは予期しなかったのだろう。母親は暫く呆然として声も出ない様子だった。母親の沸かしてくれた熱い風呂に身を浸した時、初めて「生きていたのだ」という実感が湧いてきた。忘れていた埋めたトマトのことを想い出したのはこの瞬間であった。

タイトル 虚しき追憶
本文  時々、何の理由もなく、戦(いくさ)のころを感じることがある。再び蘇生することがないのだから、安心してなつかしがっているのかもしれない。
 私の子供のころは、軍国主義の空気に染まって、遊びも兵隊ゴッコ、チャンバラゴッコとかで、支那事変のニュースには胸がおどったほどであった。志願するのも、死を覚悟してというほどでもなかった。連戦連勝の時代だけに、日本一の旗差物の桃太郎が鬼ヶ島へ鬼退治に行くようなものであった。みんな慎重で迷いやすく、今の鼻っ柱ばかり強くて自信のない中高校生とすこしもかわりがなかった。軍教育が暴力的に成長期の未熟な頭脳に注入されてくると、愛国的狂信者のように徹底的に生涯を捧げ自らの命を犠牲にすることが不幸ではなくなってしまうものである。そんな若いころの思い出は、老いの身に精神的な刺戟を提供してくれる。だが、とても人前で口にできない恥ずかしい追憶もある。
 もう五十年も前になる。あの日、あの宿舎、夜中のうす明かりの中で二人の寝顔は血の気を喪(うしな)っていた。朝はちがった。十八才の同期生三人が分かち合う特攻出撃の甘美な恐怖に身振いしても、それにも増して戦果をと、鋭い視線に生気が漲(みなぎ)っていた。共に戦ってきた比類のない友情の深さが胸を貫く。出撃命令はきわめて儀礼的なものだった。はるか遠くに愛機があるのがうれしい。それだけ長く地上にいられる。白く映えている滑走路わきに一列に居ならんで帽子を盛んに振る同僚たちを後ろへ後ろへ流すように速力を増す。大型爆弾を抱いた戦慄の前には、先に赴(い)った友のように純白のマフラをなびかせて笑顔で手を振りながら颯爽(さっそう)と飛び立っていく余裕の姿にはなれなかった。
 天孫降臨の山から二度と戻れない本土の尖端の岬を後に。祖国を振向くと、尾翼の後方で錦江湾に浮かぶ桜島がむらさきに煙っていた。胸の片隅で寂しい苦痛がうずいていたが、知らぬ間になぜか死の拘束を離れ追憶にふけっていた。若々しく背筋をのばしてオルガンを弾く女先生、わらべ唄、上海の街、愛国婦人会の白たすき、断片的にてんでんバラバラ、身も心もふぬけのように懐旧の情に沈澱していく。ふと吾に返る。気が遠くなるような静寂の空に、胸を掻きむしられるような不安が覆いはじめた。風防硝子(ガラス)に映る顔が変形するほど醜い。ついこの前まで舞踏会の手帳や宝塚星組をみていた穏やかな顔ではない。まして「撃ちてし止まん」と敵艦隊に体当たりする忠勇無双の顔でもない。自分の弱さに正直になっている。
 甘い予測を裏切り黒い粒が点々と光り出してきた。全身総毛立つ、「きたぞ!」かろうじて機長として後席の二人に切迫感を伝える。落着け、落着くんだ。自分自身にいい聞かせた。息を大きく吸いこんでも、喉から奥へ空気が入らない。右後方からの一群がつるべ落しに襲いかかってくる。命をかけた攻防が続く。思いついたように怒りと恐怖で身体が小きざみにふるえる。すでに高度はあまりにも低い、もう堪えられん。敵艦隊はまだかと目を据えた矢先、衝撃。右エンジンが振動とともに白煙を噴く。頭の中が空洞になる。このまま死ぬのは嫌だ。一瞬目の上に痛みが走った。血が流れて顔面に、思考力は薄らいだ。上下四方青白い膜で覆われて、どろどろした制御のきかない怠惰が襲う。死んではいない。前から雨のような光が一斉にこっちに向けて流れてくるようだ。求めあぐねたものがやっといた。長い行程だった。間にあった。意識はうすれていたが心臓は動いている。考えていたほどの恐怖も忍ぶに値いしないもののように感じた。疲れた胸の安堵の奥に、焦点のぼやけた茫然とした表現のない死が、いつか見たことのある空間で待っていた。息吹き返した敵艦の中、恥知らずの軍人の体面、死より悪い運命に興奮と消沈。よくまあ自殺しないで生きおおせたものだ。長い幽閉からの帰国。幼くして軍国少年になった者は敗れた故国に涙し、己が白木(しらき)の箱をみつめ墓を抜くまで、戦争や平和の意味など考えも及ばなかった。
 私は、天下国家の未来を憂うるといったタイプの人間ではないが、世界情勢、歴史の勢いが怒濤となって人間を席捲(せっけん)するとき、個々がいかに脆いかを知っている。戦の善悪や正義は、一様、絶対ではない。時が経てば異なるもの、過去のなかに不満や悪行をさがすことだけで戦争反対論者の如く振舞ったり、戦争は嫌い、好みじゃないと第三者的に立って平和を口にしているだけでは「いつかきた道」。
 世界も経済も文学も漫画も軍国調がますます頭をもたげている。「勝ッテクルゾト」の軍教育ともなれば、二宮尊徳、乃木将軍の青少年期をきかされて育てられなくとも、いかに国家意識が薄いものでも、性格などは無頓着に、否応なしに単純な軍人としての傑作品につくりあげられるものである。戦争をなつかしがっているなかでも、自戒の意味をこめて、老人として平和のために何をすべきか、何をしないかの反省がいると思う昨今である。

タイトル 墓標・彼の白き雲に祈りたい
本文  この手記は今の中学生、高校生の方に是非知って欲しいと思って書いた五十年前の戦争に行った少年達の話です。今の豊かで平和な世が何時までも続きますよう願いをこめて。

 『オオイ!元気か!今度三重に行くからなあ-。三重空(くう)と鈴空(くう)の案内頼むぞ-。』
七十才の九州の戦友からの電話です。三重海軍航空隊は香良洲町に、鈴鹿海軍航空隊、略して「鈴空」は鈴鹿市の白子にありました。香良洲の航空隊、白子の航空隊と土地の人は愛称で呼び航空隊にいる軍人を海軍さんと呼んで馴染んでくれた旧海軍の練習航空隊でした。
 今から約五十年前に私はその鈴空に居りました。今六十八才の私は当時十八才の若い軍人(下士官)として飛行機を操縦する教員(先生)という身分で後輩の指導に当たっていたのです。私は旧制中学を中退して満十六才で海軍の飛行兵になりました。今の中学三年生か、高校一年生位の時です。「海軍甲種飛行予科練習生」略して「甲飛予科練」が私が昭和十八年に入隊した時の海軍での肩書きです。海軍には自分から進んで行ったのです。何故かって?、それはもう当時の少年達にとって飛行機に乗るのは夢と憧れだったのです。日の丸マークの軍用機にまたがり縦横に大空を飛び回り敵機と闘って相手を撃ち落とす……誰しもがそのような近未来の己れの姿を描いていました。今思ってみれば現代の少年達が早く単車や自動車の免許を取って思い切りとばしたい……というのと同じ位の軽い気持ちだったのです。今、日本の国が敵国にやられ危ないから僕は進んで行って闘うのだなんて愛国心からではなかった。自分の夢を果したいばっかりでした。だから飛行兵の募集があると全国の十四、五才の少年たちが我も我もと受験したのです。私達甲飛十二期生の時は三千人採用するのに約五万三千人が受験しました。私達は難関を突破し喜び勇んで航空隊に入隊したのですが、めざした予科練はそれはそれは厳しく激しい訓練をさせられる学校でした。そして、戦争が終わった時に数えてみたら、入隊した者の約半数が死んでいました。僅か二年位の間にです。死んでいった人達の年令は殆ど十七、八才でした。大事な可愛い我が子を戦争で殺された両親の嘆きはどんなであったでしょう。
 では予科練でのきつい生活の一端を書き出してみます。○体罰はしょっ中でした。顔を殴られたり尻をバットのような棍棒で叩かれるのです。○食事は一汁一菜の麦飯だけ、何時も空腹でした。○起床は夏は五時、冬は五時半。○勉強は英数国漢と航空術などの専門の軍事学、講義の後すぐにテストがありました。○戸外訓練は陸戦、カッター、水泳、マラソン、いずれも体力の限界までやらされました。○プライバシーの保護全く無し、手紙や郵便物は必ず検閲されました。自分だけの時間は全く無く、いつも追い廻されました。楽しい事もありました。それは日曜毎の外出です。少年達は七ツ釦(ぼたん)のスマートな制服で町に出、下宿で寝転んだり映画を見たり、のんびりと休養をとりました。外出の範囲は制限され、三重航空隊員は香良洲と津だけ、鈴鹿航空隊員は鈴鹿市内だけでした。制限外のところに行ったのが見付かるとそれはそれはひどい体罰を受けました。
 予科練から飛練に進むと愈々(いよいよ)実際に飛行機に乗って飛ぶための訓練を受けます。約半年間一日も早く一人前の飛行機乗りになれ、なりたいとそれこそ血と汗にまみれ歯を喰い縛って頑張ったのです。鈴鹿航空隊では通信、航法、射撃を習いました。私は操縦(運転)員でしたので最初は練習機で操縦の基本を覚えました。離着陸、編隊、宙返り、背面飛行と次々に習得していくのですがヘマをすると教員から「コラーッ!俺を殺す気かっ!」と殴られましたし、「気合が抜けとる!!」と広い飛行場を駆け足三周させられることも屡々(しばしば)でした。飛練を卒業すると私達はすぐに実戦部隊に配属されました。そして私は台湾沖の海上でアメリカの戦闘機グラマンに撃墜され同乗の二人は死んで機と共に海に沈み、私だけが約五時間海を漂流して助かりました。漂流中、血の臭いをかぎつけたフカが寄ってきて怖い思いをしました。
 私と同じく実戦に投げ入れられた者は、或る者は空中戦で敵と闘って殺され、或る者は爆弾を抱いてアメリカの軍艦に体当たりして若い肉体を粉砕させて死にました。飛行兵は弾丸と同じ生きた消耗品でした。彼等は美しい日本の国と、愛する父母弟妹を守ろうと南溟(なんめい)の空に海にその若い生命を散らしたのです。彼等には遺骨も無いのです。父母の元に帰った白木の遺骨箱の中は空(から)でした。
 私は青春も知らずに死んでいった彼等の墓標はあの青い空にぽっかり浮かんでいる白い雲だと思っています。彼等の尊い犠牲によって戦後の日本は平和な世になりました。人間性を抹殺する酷い戦争はもう二度としてはなりません。私はこれからの少年達に私達が体験したような事を味あわせたくないのです。私にはもういくらも時間がありません。神様からいただいた寿命は後いくばくか。今少年のあなた方に戦争の酷さを知って貰わねばもう次の機会は無いのです。次世代を担う貴方達少年に期待しています。貴方らの理知と正しい判断で日本の繁栄と平和をこれからもず-っと続けて欲しいのです。高い空から墓標の白い雲達もきっとそれを望み、見つめてくれてる筈ですから。今の平和の有難さを感謝し私もあの白い雲に祈ります。

タイトル 吹奏楽で出征兵士の見送り
本文  三重県で陸軍大演習が行われると決まったのに、「君が代」で大元帥陛下をお迎えする、公的な吹奏楽団が三重県には無かった。昭和十二年のことである。今の三重県なら、吹奏楽は小中高から大学、警察、消防、民間にまで広く普及し、三重大吹奏楽団を頂点に、県の水準は全国的にも高く評価されていることは、知る人ぞ知るであるが、当時の県民の耳にする吹奏楽といえば、サーカスの客寄せか、チンドン屋のジンタぐらいだった。日本全体でも、海軍軍楽隊や陸軍戸山学校軍楽隊を除いては、伝統的に有利な欧米諸国とは段違いの、低い水準だった。
 そこで急いで三重師範に吹奏楽部が新設され、その任に当たることとなった。その年の春、旧制中学の津中から、三重師範本科第二部に進んだ私は、音楽が大好きだったので直ぐ入部し、練習に励んだ。県の出費で購入した楽器は、フルート、ピッコロ、クラリネット、オーボエ、トランペット、コルネット、ホルン、アルトサックス、トロンボーン、金管楽器のアルト、バリトン、小バス、大バス、打楽器の小太鼓、大太鼓、シンバル、トライアングル等で、バスチューバやファゴット等の大型低音楽器は高価だったためか、買ってもらえなかった。今にして思えば、これが三重県を代表する吹奏楽団かと笑われそうな、とても貧弱な編成だった。私は金管のバリトンで、主に中音のメロディを吹奏した。指導は、音楽教官が吹奏楽はどうもと断ったらしく、数学の教官が当たってくれたが、マニュアル書片手の暗中模索の練習だった。それでも、期待に応えようと、二十余名の部員は熱心に練習に励み、表現力も次第に高まっていった。
 ところが、その年の七月七日に北京郊外で盧溝橋事件が勃発、七月二十八日には華北で日本軍が中国軍へ総攻撃を開始し、八月九日には上海に戦闘が拡大、八月十五日には蒋介石が対日抗戦総動員令を出すなど、日中両軍の全面戦争が開始された。陸軍大演習どころではなく、当然中止となって、我々吹奏楽部員は拍子抜けをしたが、同時に内心ホッとしたものだ。
 だが、それも束の間、私たちは出征兵士の見送りに動員されることとなった。郷土部隊の兵士たちは完全武装して、久居の兵営から阿漕駅まで、続々と隊列を組んで行軍し、特別列車に乗車しては戦地へと出発していった。その晴れの出発を、駅頭で勇壮な音楽で華々しく送り、士気を鼓舞する役割が与えられたのだ。私たちは、楽器持参で列車の出発時刻に合わせて、迎えにくるバスに乗り込み、阿漕駅へ向かった。大抵は昼間の授業中だったので、級友から羨ましがられ、ちょっと面はゆいような、誇らしげな気持だったと記憶している。
 駅頭での演奏は「天に代わりて不義を討つ」の「日本陸軍」、「勝って来るぞと勇ましく」の「露営の唄」、「君が代行進曲」や「愛国行進曲」「軍艦マーチ」など勇壮な軍歌か行進曲が主で、発車間際に「海ゆかば」を決まって演奏した。それにじっと耳を傾け、プラットホームの旗の波を窓越しに無言で見つめる、逞しく日焼けした兵士の表情には、なにか特別なものがあった。日の丸の小旗を打ち振り、万歳万歳と叫ぶエプロン姿の婦人会のおばさんや姉さんの姿に、母や、妻の面影を重ね合わせ、別離の情をかみしめるのか、その表情は思いの外、静かだった。また、口には出せないが、私は目の前にいる兵士の中、二度とこの地を踏めない者も、きっといるに違いないという想いが頭をかすめて、目頭が熱くなった。私達は列車が消え去るまで、唇が腫れ上がるのも忘れて、夢中に演奏を続けたものだ。初めの頃は現役兵らしい、まだ童顔の残る若者の兵隊ばかりだったのに、次第に年配の補充兵中心の部隊に変わっていく様子も見られた。
 いつだったか、汽笛を残して汽車が発車した後、責任を果たしホッとして、私達が帰ろうとした時、風呂敷包みを抱えて、飛び込んできた一人の束髪の婦人があった。「もう出発しましたか…」その場の状況からそうと察したらしい婦人は、自分に納得させるようにそう呟くと、肩を落とし寂しそうな姿で去って行った。出発の日時をやっと知り、一目見たいと駆けつけたのだろうに。親心か女心か、人間の心の襞(ひだ)に触れた思いで、その後ろ姿は今も心に焼き付いて離れない。
 昭和十四年三月、私は三重師範を卒業し、津市内の小学校で国民教育の第一線を担うことになった。今でこそ、中国人の人権を蹂躙(じゅうりん)し、生活を根こそぎ破壊した、利己的な侵略戦争だったと理解するが、当時は東洋平和のための聖戦と信じ、日本と天皇に命を捧げて悔いない皇国民の育成を、自分の使命と思い込んで疑わなかった。マインドコントロールが解けたのは、悲しくも惨めな戦災と敗戦以後のことである。そして、私たちの「海行かば」の演奏を耳に、戦場に向かった郷土部隊隊員の多くが、後にレイテ島とインパールの苦闘で、文字通り「草むす屍(かばね)」「水つく屍」となったことを知り、愕然とした。戦時中の思い出の一齣(こま)一齣は、今も脳裏を離れず、嬉しいにつけ悲しいにつけ、私の心に迫り、訴え続けている。平和を!世界に平和を!と。

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三重県 子ども・福祉部 地域福祉課 地域福祉班 〒514-8570 
津市広明町13番地(本庁2階)
電話番号:059-224-2256 
ファクス番号:059-224-3085 
メールアドレス:fukushi@pref.mie.lg.jp

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