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三重県戦争資料館

学徒動員

タイトル 学徒勤労動員の思い出
本文 (一) 明野飛行場
 昭和十九年八月、私は師範学校の第二学年に在学していた。戦局は苛烈を極め、急を告げていた。二年生の一学期を終り、夏休みを返上して、明野飛行場の拡張工事に、学友達と派遣されることになった。飛行場の敷地に建てられた急造のバラック建て宿舎に宿泊して、灼(や)けつく夏の暑さの中、一か月間、毎日毎日働いた。飛行場を拡げるため、道路を壊し、田畑を潰し、横一線に並んで、唐鍬を振り上げ、スコップを使い、土をもっこで運び、汗みどろになった。朝八時半頃より夕方五時頃まで、国の為と思い一心に努力した。すごい労働と激しい疲労に屈しないで、皆、必死になって汗と泥まみれの一か月だった。女学生や子供や一般の人も来て、それぞれの部署で奮励していた。朝まだ明けぬ四時頃、軍属の作業員の人達は、早くもグランドに出て訓練に励み、号令が朝のしじまを破って、宿舎まで聞こえてきたのを思い出す。時々飛行訓練中に事故が起り、上空で飛行機が空中分解して発火したり、二機が衝突して落ちて来て危ないこともあった。事故機に搭乗していた将校が死去され、若い奥さんが喪服の紋付で幼い子どもを連れて、墜落現場に来られ、涙も見せずに、しめやかに弔っていられたのを、何度か見た。航空隊軍人が「人命は惜しくはないが、飛行機は惜しい。」と言ったとか聞いて、憤りを覚え、遣(や)る方ない悲しさを感じたりした。食料の乏しい時代で、作業中に間食としてかぼちゃが配られ、麦藁(むぎわら)帽子を皿にしてほほばり、美味しかったことを覚えている。

(二) 陸軍造兵廠
 二学期になり、明野から学校へ帰ったのだが、九月中旬には四日市の南の陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)楠工場に、勤労動員で行くことになった。あわただしく、息つぐ暇もない。始めて造兵廠に入り、寮舎に級友達と入った。対戦車火砲(口径は忘れた)戦闘機の機関砲(一式機動四十七耗(ミリメートル)砲)を作っていた。技術将校や工員の人から教えていただき、旋盤、フライス盤、ボール盤などの部署に分かれて、持場持場に就いた。私はやすりだった。ここにも中学生、女学生、小学生、一般の人も動員され、来ていた。朝の八時半から夕方五時半までで昼食時と、午前午後に十五分の休憩があるだけで、それ以外は立ち通しで、不馴れの新しい仕事に当たった。まじめにへこたれずに奮闘した。段々馴れて来て、やすりも上手になって来たと、自分でも思った。徴用工や工員の人も、学生に親切に接していただき、いろいろ愉快な話も聞いて、活きた人生勉強を味わったと、ふりかえり思う。しかし作業は厳しく苦しい。歯をくいしばりよく頑張った、との感懐が深い。
 十二月だったか、名古屋で陸軍の特甲幹部侯補生の試験があり、受験に出掛けた。ところが、その前夜、名古屋に大空襲があり、一晩中、火は名古屋の空を焦がし、燃えつづけるのが楠から見えた。翌日の試験の日、暗いうちに起きたが、電車(今の近鉄)は不通、やむなく線路の枕木の上を、楠から名古屋までてくてく。木曽川や揖斐川の鉄橋を、こわごわ歩いて渡った。両側の田圃には一ぱい、焼夷弾の残骸が突きささっていた。名古屋へ着くと、焼けただれ、惨状を呈していた。目をやられた軍人、手足や体に包帯を巻き苦しんでいる人々。大通りも焼けて十字路で火が止まり、片側は皆焼け落ち、反対側は残ったりして荒廃していた。「次の空襲のときは私らやなあ。」と残り家の名古屋の人達は震えていた。戦争の恐ろしさ、怖さを、まのあたりにして、私は息をのむ思いだった。帰りはやっと電車が通じ、米野駅より満員の電車に乗り帰る。楠の寮へ戻ったのは夜半だった。
 十二月の七日には東南海地震があり、これも怖かった。激しい揺れに建物の塀は倒れ、コンクリートは飴のように曲がり、ガラスは飛散し、負傷者が沢山出た。同級生の西川君が煉瓦塀の下敷きとなり、死去した。工員や生徒も、手や足を骨折したりした。その夜、私はずっと悲しく、慄然たる思いでまんじりとしなかった。
 お正月は元日だけが休日で、大晦日も一月二日も工場に出て働いた。冬休みは全くなかったが、不平も言わず、余震のまだ収まらぬ中を努力し働いた。年が明けてからは、昼勤と夜勤が、一週間交代にあり、深夜も目をこすってつとめた。寒くて壊れた机や椅子を焚いて暖をとったが、「外へ明かりが漏れぬようにせよ。」と叱られたりした。
 何を思いだしても戦時下の苦しいことばかりである。折角、学校へ入って教育学の蘊奥(うんのう)を極めようと思っていたのに、それも成らず、学業は中断の形にな・阮ウ念である。入営延期が撤廃され、四月には敦賀の部隊に入営出征した。そして……終戦となっていくのであるが、戦争のことを思うと、痛恨悲惨、今も胸に重苦しさを感ずる。

タイトル 五十年前の夏を想う
本文  今夜もこうこうと輝くライトの下で歓声が聞こえる津球場。五十年前、あの一隅に私たちの青春がありました。前身は東洋紡績の軍需工場「三重工業」。当時柳山(現津実業高)にあった県立津高女(現津高)四年(現高一)の私たちは、その前年の昭和十九年の三年生から「戦時勤労学徒動員令」によりこの工場の各職場に配属されました。「神風」の鉢巻を締めて、やすりを使いハンマーを握り爆弾投下器の部品を作っていました。四年生からは大きなボール盤や旋盤を使い、日本の必勝を信じて夜遅くまで、働いていました。
 私は河芸郡一身田町(現在は津市)で生まれ育ちましたが、昭和二十七年結婚して神戸へ出ましたので故郷を離れてもう四十三年。でもその後、実家が柳山へ越した縁で、度々この思い出の地をみてきました。今もかつての工場周辺のところどころに残る赤レンガや、白いコンクリートの外壁がそのままの住宅等々。
 さて、五十年前の六月二十四日、空襲警報のサイレンと共に「学徒は海へ逃げよ」との命令。現球場客席の南側あたりが職場の前庭で、大きな防空壕がありましたが、これは工員さんだけのものでした。私たちは防空帽だけを被り、一面田んばの現阿漕町の細い道を一直線に海へ走りました。松林へ着くなり凄い爆弾音と地響き、伏せた頭をもたげると、工場の方からもうもうと上る灰色の煙、そして次々飛来するB29からは黒い爆弾が雨のように降っています。そしてすぐ横の海にも大きな音と水煙、幼い頃から見なれたあの日本海海戦の絵、東郷元帥率いる旗艦三笠の周りに立ち上る白い水煙、全くそれでした。この松林は、ヨットハーバーに集う人達の憩う美しいレストランの両側に、今も少し残っています。勿論防潮堤ももっと低いでした。
 ようやく爆撃が静まり、工場へ戻った私たちは見ました。あの壕は大きな穴に、そのスリ鉢状の周囲にへばり着いている見覚えのあるカスリの布端と小さな肉片、それはつい先刻まで一緒に働いていた女子工員さんのモンペでした。彼女は私たちの一才年下、でも仕事は一年先輩のいつも明るくかわいい少女でした。一瞬にして生と死の岐れ道を見た十六才の初夏でした。
 その後、私たちは機能を失った工場の部品を伊賀の山奥へ疎開させるため、阿漕駅から汽車で佐那具まで通いました。途中必ずグラマンの機銃掃射にあい、重いリュックと共に山へ逃げ込んだものです。
 そして迎えたあの七月二十四日。この日は午前十一時、B29七十機が津に来襲、三重師範(現津市庁)だけでも四十八発投下というあの長いながい一日でした。出勤途上で空襲警報にあった私たちはかねて指示されていた津公園を抜けた現観音寺町の友人の山に逃げました(今は住宅が建ち並び往時の面影は見当たりませんが竹やぶは少し残っています)。ここにも数発落下、幸い直撃は免れ九死に一生を得ましたが、壕の天井の土はバラバラと落ち、体中のものがとび出すような衝撃でした。
 この日、中新町の自宅で爆片を背骨に受けた級友の池山さんは、市立病院が全滅したため、旧励商校舎であった医専の教室へ運ばれていました。その知らせをうけた私はすぐ、近くの友だちを誘い医専へかけ付けました。勿論一身田からは歩いてです。ちょうど門の近くへ来たときです。今、見舞って来た友人数人が「池さん-私たちはそう呼んでいました-、桃がたべたいて。でも店はしまっとるし。どうしょう。」というのです。とっさに私は「家の庭にひとつだけ桃がついている、山伝いに走るから一時間で戻ってくる、池さんに元気を出して待つよう言って」と言うなり走り出しました。小学校の遠足以来の見当山への道でした。木の間から洩れる真夏の太陽は丸い小さい玉になって、足元にゆれていました。肩からかけた防空帽のハタハタ鳴る音だけの山道、今日本のあちらこちらで「痛い痛い」と叫んでいる人たちのいることが夢のような静かな山道、やっと一身田の我が家へ辿り着くなり桃をちぎり、母が風呂敷に包んでくれたトマト九つをしっかりかかえて、今度は電車の線路伝いにひた走り、池の下まで来たときです、門から出てくる戸坂の一団、池さんの父上、先生、級友たち。でもその真ん中の池さんの頻には白いハンカチがありました。「一足おそかった。池さん『久ちゃんのモモ、モモ』って死んでった。」ワーワー泣き叫ぶ級友のうしろから私はボーと歩きました。
 一過間・繧ノ原爆が落ち日本は敗けました。
 五十年日のこの夏の一日、級友三人で田丸に眠る池さんを訪ねました。少女のままで逝った池さん、今日の日本を、津の街を見てますか。
 貴女に食べさせたい一心で走った山道は広い車道に。その近くには立派な文化会館が。貴女が息を引きとった教室は、古今東西の逸品が並ぶ素晴らしい美術館に。そして私達が泣いて下った津駅への道は若い人達が喜々として歩く幸せ一杯の文化国家日本の道です。この平和と、世界の人達の貴い命を、池さん、どうか見守っていて下さい。

タイトル 学徒動員から五十年
本文  平成七年正月三日、恩師、○○○○先生の訃報に接した。学徒動員の私達を引率された年から五十年目の正月、先生は逝かれた。
 今年は一月十七日の阪神大震災に続いて、恐ろしいオウム真理教の事件が次々と明らかになった。オウムの事件では、マインドコントロールが問題になり、日本中の多くの人がマインドコントロールされた人間の言動を、第三者の立場で冷静に見定めることができたと思う。私は五十年前の自分に重ね、重苦しい気持ちになった。私達は、あの戦争を勝つと思っていた。日本は神国だから負けることはないと信じて疑わなかったのだ。日本中のほとんどの人がマインドコントロールされていて、同じように思っていたはずである。
 昭和十九年春、校庭の桜が葉桜になった頃、私達飯南高女四年生全員は、学徒動員の腕章をつけ、津の倉敷紡績に向かった。
 一部の人を除いて全寮である。工場に着くとすぐ講堂に入った。今迄に経験したことのないことばかりの説明に緊張し、意気込んでいた。最後に○○先生が前に立たれ「いくらお国のためとは言え大切な娘さんを預かっている私としては耐えられない」と言って涙をこぼされたのである。その意外な言葉に私は自分の耳を疑った。そして、憲兵に聞かれたら非国民だと言って先生は引っぱられるのではないだろうかと友達と話し合った。
 私達十八名は「リング」に配属された。その日から工員さんと全く同じ仕事についた。なれない仕事も大変だが、朝七時始業、夕方七時迄の勤務、それに、土曜も日曜も、お盆休みも正月もない。その頃流行した歌の文句に、「月月火水木金金」と言うのがあったが、まさにその通りである。
 最初は、夜学があったが、眠くて勉強にはならなかった。初夏にはなくなった。
 その頃から通勤を申し出る人が多くなった。私は無性に家に帰りたかった。母の病気を理由に届けを出した。○○先生は、母を気づかった言葉をかけて、許可して下さった。
 通勤も決して楽ではない。歩けば駅まで五十分かかる。自転車がほしい。古い自転車があってもタイヤやチューブが手に入らない。やっと母が物々交換でチューブのいらないゴムだけのタイヤを手に入れてくれた。これで家を五時に出れば七時に工場に着ける。帰りはよく電車が遅れ家に着くのが十時頃になった。田んぼの一本道を雨の日も風の日も雪の日も夢中でベタルを踏んだ。灯火管制で灯のもれている家は一軒もない。もちろん自転車に灯りはない。月夜はよいが、雨降りの闇夜となると、いくら通いなれた道でも自転車で走ることはできない。そんな日は決まって母が高台から、提灯の灯で合図を送ってくれた。それを目当てに、自転車を引いて、ずぶぬれで歩いた。
 やっと三月がきて卒業式になった。卒業式には「蛍の光」ではなく軍歌を歌った。その後、専攻科生としてそのまま工場にもどった。
 六月二十六日朝、空襲警報が出た。いつものように機械を止め、防空頭巾をかむり、非常袋を肩からかけ、バケツを持って工場内の空き地にある防空壕に入った。その間約三分、入ってすぐB29の爆音、いつもとちがい、ザ、ザーと急降下の音、思わず両手の四本の指で眼をおさえ、親指で耳をおさえて伏せた。目がとび出し、鼓膜が破れるのを防ぐためだと教えられていた。次の瞬間、体が大きく揺すぶられた。砂がざらざらと落ちた。壕の戸を少し開けてみた。飛行機が急上昇していく後ろ姿と、さっきまでいた工場がばらばらになって空に舞い上がるさまが同時に目にとび込んできた。次の瞬間、ほとんど無意識に外に飛び出し、工場の敷地から出て海岸の松林に逃げた。何百人もの人が同じように走っていた。松林に着いた途端、後続の飛行機が来て、爆弾を落とし機銃掃射を行った。同じように学徒動員で来ていた男子校の生徒や小学校高等料の生徒も痛ましい死にかたをした。背中が爆風で炸裂した友達を背負ってふらふら歩いていた男子生徒の姿は今も私の脳裏に焼きついている。
 あれから五十年経った今、多くのことを考えさせられるが、一つには、あの時代にも、マインドコントロールされていなかった先生に私たちは守られていたんだと言うことである。私たちを守るためには、ずい分風当たりも強かっただろうに、それとも知らず感謝もしない私だったのだ。先生ありがとうと言いたい今、師はこの世の人ではない。二つめは、勉強できなかったため学力がないことを負い目に感じ被害者意識で一ぱいだった。が、今思う、理由はどうあれ、戦争に手をかした加害者に他ならないと。
 個人にせよ、国家にせよ道を誤ることの恐ろしさを今、私は痛感している。誰もが解っているはずの、これだけのことを自覚するのに私は五十年もかかった。

タイトル 青春時代を工場で(学徒動員)
本文  昭和十九年父の日記の表紙に「決戦昭和十九年」と記されている。私は女学校二年生の新年を迎え、セーラー服からモンペ姿に変身した学校生活を送っていた。すでに教育は、軍国主義の真っ只中で授業は竹槍訓練、行進練習に明けくれていた。英語の授業は教師の出征で早くからなくなり戦争がはげしくなると敵国語は排除されてしまった。
 昭和十九年六月十五日サイパン島玉砕から四日後とうとう私達学生にも学徒動員命令が出て、七月二十四日父母や兄妹が集まってささやかな壮行会を開いてくれた。七月二十五日私は松阪市内の中島飛行機工場に出発した。この日から寮生活が始まり、大勢の男女工員にまじって働くことになった。寮では六部屋に分かれ一部屋十人の共同生活が始まった。十五~十六才の多感なとしごろ、窓の外を見て泣き、走る電車に家を思い、月を見ては泣き、お互いに声をかけ合っては泣き大変だった。
 食堂で出される食事は、丼一杯、中味は米粒より大根や、いもが多いご飯でおかずといえばつけもの、梅干し、それに″すいとん″、さつまいもなど育ち盛りの体にはいつもひもじく、非常袋に入ったそら豆の炒ったものをふとんの中で先生の目を盗んで食べあさった。
 月一度の公休日に家に帰ることが出来たが翌日は寮の廊下を腹痛をおこした人の便所がよいの足音が絶えなかった。先生に
「あなたたち!死ぬとき胃癌で死ぬよ。」
などと怒鳴られたものであった。
 当時私は視力が〇・五であったため検査工になれず旋盤工にまわされ、毎日油まみれになり金属片(きりこ)を身に浴び、目をまっかにしていた。飛行機の部品であるネジを作っていたのである。言われるままにハンドルを握り男子工員の罵声を聞きながら約三か月間小さなネジを作ることに専念した。
 一週間に一度行われる夜間授業は、みんな疲れていねむりをし、殆ど内容は記憶がないような状態であった。
 入浴は二日に一度石鹸もなく湯につかり、汚れた衣類は米糠をふりかけて手で揉み、油でぬるぬるしたものを干し、また身につけていた。虱(しらみ)が頭や身体までつく日々であった。
 昭和二十年の父の日記の表紙は「戦局苛烈」と記されている。一月九日米軍がルソン島に上陸、一月十四日には米軍機が私たちの頭上を八機とび、内地が戦場となる兆しが見え始めると、工場の方も大都市から械械の疎開が始まり、学徒は、地面に並べた″ころ″の上を超大型の機械を人海作戦よろしく定位置に綱引きをした。
 それから一週間ほど経った二月四日中島飛行機松阪工場へ焼夷弾が何千発と投弾され工場の三分の二が焼けてしまった。幸いこの日は私達は公休日で帰省していて直接の被害はまぬがれた。二月六日寮に荷物をとりに行って工場を見たとき、これで家に帰れるという喜びと、日本は戦争に勝てるのかと始めて自分をとりもどした記憶が今も残っている。
 私は空襲の三か月位前から教師の秘書となり学徒全般の事務を担当することになり職場を廻って出席を確認したり、伝達を知らせたり、学徒練成体操という体操の講習に行き教えたりし、精神的な負担は多かったが油まみれから解放された。
 家を離れている間、父から手紙や、雑誌などよく送ってくれ学問を忘れないようにといつも書かれていた。父の日記を見ると受信欄に、「すず子より」と手紙を受け取ったことが、一日おきぐらいに記されている。今は記憶が定かではないが当時はきっと淋しくて書かずにはいられなかったのであろう。
 二月二十一日また工場に戻ったがこれからは通勤となり、食べ物も工場とちがい少しは豊かになった。しかし戦局はますます急をつげ空襲警報のサイレンが一日に何度となく鳴り、その中を恐れながら通うことになったのである。仕事中でもサイレンがなると一キロも先の神社に避難をし、仕事らしいことは殆ど出来ないまま、四日市、津、松阪と連日連夜空襲があり、生産は全く止まってしまっていた。
 七月二十四日父の日記は「無抵抗!これで勝てるのか」と記されている。
 学業を捨てて学徒動員という命により工場へ働きに行った私たちには夢も青春もなかったが、男女の学生が同じ工場で働くということでロマンスが生まれ戦後結婚をしたカップルもあったが、学徒兵として出陣し夢半ばで敗戦となり命びろいした人もあった。
 とある会議で英語で書かれた一文を読むはめになった私は自信がなく顔から火が出るほどの思いをした。学業を捨て工場で働かされたつけが今、まわって来たという思いで一杯である。マインドコントロールされた過去を今つくづく思う毎日である。こんなことは二度と繰り返さないように。心境を三十一文字に
 世をあげて戦の中にひたりたる かの歳月を憎むこのごろ

タイトル 戦争がくれた青春
本文 第-話 大連に渡ったK子の事
 太平洋戦争が始まる前の年に仲良しの友K子が、「一家で大連に行く事になった。行ったら学校の事、宇治山田市の事など便り下さい。」と約束して別れた。お正月は振袖姿の美しい写真と、町中を兵隊さんの闊歩する写真二枚が送られて来た。こちらは学校でスキーもすると楽しい便りだった。少し便りが跡絶(とだ)えて来た年の十二月八日開戦、次第に世の中が騒然としてきた。六年生の私達の修学旅行もとり止めとなり、橿原神宮へ武運長久を祈る日帰りの旅となった。そして勤労奉仕から学徒動員で工場の寄宿舎生活へと一転する。
 日常に追われK子の事も忘れていた終戦後のある日、K子の兄と云う人が来られ、終戦でソ連軍がなだれ込み、K子も髪の毛を刈って男装したが見破られ、乱暴されて殺された。何時も日本からの便りを喜んでいたので、妹に代わり御礼を言いたいとの来訪だった。友は今も小学生の頃の思い出の姿で私の心に生き続けている。掲載の写真は大連の日本兵で、K子から二枚送られた中の五十五年前の貴重な一枚なのだ。

第二話 学徒動員中、女工さんの死
 女学校三年生の時、学徒動員令で東洋紡績楠毛糸工場へ行く事になった。そして四年生の夏迄、終戦後一か月工場に残って働いた。同学年が四日市二組、楠二組、宇治山田に二組と別れた。行った時、工場にまだ防空壕がなくて私達が掘る事になった。勤めのあい間に掘るのだから出来上らぬ中に、警報が度々出る様になり、二階から一畳ずつ畳をかついで降り、掘りかけた壕の上へ蓋の様にかぶせた。終戦近くなると名古屋市の空襲がはげしくなり、伊勢湾をへだてて赤々と夜空をこがし、異様な爆音と建物の燃え落ちる音が入り乱れて聞こえて来た。疲れて寝込んだ夜、目が醒めると四日市の大空襲で、川をへだてて夜空が真っ赤でその熱気が伝わって来た。夜は着替えず服のまま休み、枕元へリュックサックと靴を並べて必至の態勢。勿論入浴もままならぬ日々が続いた。私は伝令だったので、メガホンを持って走り廻った。工場へ焼夷弾は落ちたが、紡績工場故に幸い爆弾は免れた。睡眠不足、栄養失調で学徒も女工さんも休む人が続出、出勤者は機械を二台も受け持つ様になっていた。十二月の東南海大地震で、大きい長い機械も床も弓なりに曲がった。時が時だけに地震が揺っても爆風と間違え壕に入った友もいる。六月七月に入ると三重県の主要都市が続々とやられ、我が家のある宇治山田市(現・伊勢市)も空襲で大被害をうける。宮川へ逃げた人々は沢山亡くなったと聞く。
 そんな中で仲良しの女工さんの轢死に遭遇する。学徒は一か月に一度だけ帰省をゆるされ、誰一人寮に居残る友もいなかった。今でも私の中で謎だが、この帰省日に一人部屋にいた。緊急放送があった。「学徒さん、いられませんか。もし一人でもいられましたら、女工さんが急行列車にはねられ亡くなられましたので、来て下さい。」と繰り返し言う。私は水筒と防空頭巾を持って走った。長野方面の農家の子で、お腹が空いて家へ飛んで行きたいが帰省の許可もおりず、禁を破って門衛を一目散で抜け出た時、踏切番のいない踏切を渡って急行にはねられ即死した。線路に散らばった赤い肉片を暑さの中で涙して拾った。やさしい人で色々と先輩として教えてもらったりした。
 何時空襲があるやも知れず、その日の中にすぐささやかな葬儀が行われた。工場の片隅の小さい建物の中で僧侶の読経があり、じいじいと鳴く蝉の声を聞きながら、工場内の隅の道を黙々と行列が進む。そして工場内の小さなお墓に埋葬された。
 終戦間近には脱走する女工さんが多く、塀が高いので塀の下を掘りくぐって逃げた。学徒が月に一度、はしゃいで帰省する姿がたまらなく里心を誘った事だろう。異常事態の中で私一人だけお参りしたあの工場の隅にさみしく眠る彼女。今も電車がその工場を通過する時、自然に合掌している。

第三話 軍歌でない歌を歌わせた教師
 工場内の木々は綿埃で真黒になり、すっかり緑色を忘れている。人も空気の悪い中で顔色も青くやせている。担任が音楽の先生だったので、工場内の古いオルガンで教科書を使って音楽の授業をした。軍歌一色の中で、外国の歌を弾いて教えてもらい、心を晴れ晴れさせた。そして、「どう考えても始めからこの戦争に勝ち目はない。きっと負ける。だから君達は命を大切に生き抜かねばならぬぞ。」と勇気ある発言。おそ番(午後二時~十一時迄)の朝、太陽を浴びながら思い切った乾布摩擦が実行された。皮膚をきたえた。瞳の黒い頭の進んだ先生のお蔭で暗い動員生活を乗り切って終戦の日を無事迎える事が出来た様に思う。工場で歌ったボートの歌を「漕げや漕げ川波、腕に飛べば……。」と口ずさめば、先生もみんなの顔も昨日の様に若く新鮮。

タイトル 忘れられないあの日
本文  昭和二十年終戦の夏も随分暑かった。七月二十四日、その日も私はいつものように下部田の寮から朝食も摂らずに、江戸橋の駅から電車に乗った。行く先は津新町駅の一つ先の仮設の駅「二重池」だった。二重池は現在の南ケ丘駅付近だと思うが、池のそばに仮設された駅で半田の地下工場に通う人達のために便宜上設けられた臨時の駅だった。
 半田山は江戸期の頃から磨き砂を産出することで知られ、山の下には無数の坑道が蜘蛛の巣のように拡がっていた。地下工場はこの坑道を利用して造られたもので、坑道には各種工作機械が所狭しとばかり配置されていた。あかりは各機械に一個程度の電灯が吊り下げられていたが、作業する手元がどうやら見える程度の明るさであった。天井からは絶えず水滴が落ち、そのため足元は常にじめじめしていた。空気の流通もとても悪かったと思うが、その上粗悪な切削油の焦げる臭いとその煙が一層坑道の中の環境を悪くしていた。
 地下工場で働く人の数は、当時五千人と言われていたが確かな数は判っていない。地下工場に入っていた工場は、海軍工廠(こうしょう)、三菱、住友金属だったように思っている。このうち住友金属(正式名称は、住友金属津プロペラ製作所)は当時東泉第八四工場と改称されていた。私はこの住友金属に学徒動員の一員として働いていたのである。上野中学在学中であった。
 七月二十四日のこの日も、あと二十日余りで終戦を迎えようなどとは知る由もなく、私は二重池から地下工場に向かった。同級生や顔見知りの人達と話しながら歩いたことであろうが、そうした記憶は今ではすっかり忘れてしまって何ひとつ思い出せない。ただ、道すがら可憐な山百合の花が咲いていたのが不思議に今でも時々思い出される。
 坑道の入口で朝食をもらって近くの草むらに腰をおろして食べる。小さなベークライトの容器が二つ、その一つにはほんの僅かの味噌汁、味噌汁とは名ばかりで具は殆ど無く変な粉が浮いていた。当時この粉は蚕の蛹(さなぎ)だとか、或いは蝗(いなご)だとか言われていた。もう一つの容器には主食、これもほんの僅かの量で内容は乾燥芋、芋の蔓、ひき割り大豆、麦と言ったもので米粒が入っていたのかどうかはよく憶えていない。
 朝食の後はいつものように仕事についたと思うが、一体何時頃だったか、多分午前十時前後だったのではと思うが、まわりの様子が普段と違って何となく異様に感じて私は坑道の入口迄出てみることにした。何故出てみる気になったのか、又何か口実を作って行ったのかその辺のことはすっかり忘れてしまったが、兎も角坑道の入口迄出ると、守衛さんや外で働いている人達が一様に、不安げな眼で空を見上げていた。空には夥(おびただ)しい数のB29爆撃機が編隊を組んで北上していた。ひとつひとつの機体が銀色に光り、不気味な金属音が
あたりの空気を圧しているようであった。入口につっ立って空を見上げていたのは、ほんの僅かの時間であったと思うが、何となく不安を覚えて、もう下におりようかと思った頃、守衛さんからも下へ降りた方がいいとすすめられ、急いで坑道を駆け降りた。ちょうど下へ降りたその瞬間だった、急降下する飛行機のうなりとそれに続く爆弾の轟音と爆風、全く身の縮む思いがした。もう少し入口におったら一体どうなっていただろうと思うと、恐怖で身震いしたのを覚えている。引き続きどれだけの爆弾の音を聞きどれだけの・囎翌≠ムたことだろう。或時は奥の竪坑に火の柱が立ったかと思うばかりのすさまじい光景も目にした。もちろん坑内は暗闇であった。不思議に叫び声や泣き崩れると言った声は聞こえなかった。みんな異様な雰囲気の中で断末魔を迎える覚悟をしていたのだろうか。しかし、そんな中で私は確かに聞いたのである、一人の女性の声を。それは静かにまわりの友に諭すように「仮に埋まっても、掘り出された時に見苦しい姿を曝(さら)さないよう、両膝をしっかりしばっておこう」と言ってる声だった。その人はどんな人だったかは知らない、けれどもあの時に暗闇の中で聞こえた健気(けなげ)な言葉の静かな響きは今もなお私の耳に蘇(よみがえ)ってくる。
 やがて爆発音も絶えると、あたりは一斉にざわめかしくなった。それは恐らくお互いに生き延びた感動をぶっつけ合っていたに違いない。私は一刻も早く外に出たいと焦りながら暗闇の中を坑道の入口に急いだ。しかし、目の前にひろがる景色は一変していた。もちろん守衛小屋もなかった。
 幸い下部田の寮は無事だった。しかし、寮の裏の方から聞こえてくる倉敷紡績の消火作業の掛け声は夜を徹していたようである。
 津市が焼夷弾攻撃を受けて焼野原と化したのはそれから僅か四、五日後のことである。

タイトル 学徒動員と桑名空襲
本文  あれから五十年が経過した。昭和二十年七月十六日は桑名空襲の忘れ得ぬ日で思い出すさえ恐ろしい。なのになぜかつい昨日の事のように思えて今も瞼の奥に焼きついて離れない。事の起りは戦争、日本が勝つために一億総動員火の玉となってもがき、学徒出陣や学徒動員も強行され、あたら還らぬ青春の命を戦場や軍需工場へと駆り立てられた。真夜中無気味な空襲警報の唸りの中で三菱航空機製作所桑名工場(護国第三二一工場)の上野商業寮は大混乱を呈し揺れていた。警戒・空襲両警報はいつもの事でその度毎に腹底まで響く敵機の爆音を聞きながらじっと耐えてきたが今日はおかしい。灯火管制中なのに時々外が真昼の様に明るくなり何かが燃える臭い、もの凄く大きな爆音、アッ桑名空襲だ!!私は暗中模索し、どう服を身につけたのかとるものも取敢えず階上階下を走り廻り声の限り叫んだ。既に大部分の部屋は出たらしいがまだあちこちで声がした。
「何してんニャ、早よ出よ」 「逃げよ」焼夷弾の束が空中で分離炸裂し、バラバラヒユーヒユーザーザーと連続して落下して来る。鎮国(チンコク)社へ出た時、寮は火達磨となり濠の貯木が油脂でメラメラ燃えていた。全く狂った様に喚き散らして暗闇と閃光が交差する中を走った。平素から避難訓練をし、有事には赤須賀へ逃げる事になっていた。三、四名の生徒がいつからか私を取巻いていて呉れてるのに気づいた。「先生あぶない」と押し倒され伏せたことが幾度。二、三米先に弾が落ち地響きと共に土を被った。生徒達の支えがなく逃げる気力を無くしていたら死んでいたに違いない。一晩中あがきやがて東の空が白み出した。旋回していた敵機もなく皆の顔も見て廻り、互いにいのちのあった事を確かめ合い抱き合って泣いた。茫然自失、不安焦燥、疲労困憊(こんぱい)の極の大群集が未だ燃えている街を北にみて進んだ。益生工場に集合して人員点呼で○○○君がいない事が判明し新たな苦悩に直面した。
 工場は全滅、生徒達も私も無一物、何はさておき親の元に帰さねば申し訳ない。桑名駅迄焼野を重い足取で辿り、ホームとレールだけの駅の長に事情を話しお願いしたら心中を察して下され、私は泣いてお礼を云った。数十名の生徒の伊賀上野迄の無賃乗車の許可は前代未聞の事である。皆に話し級長に依頼し鈴なりの列車を見送って一人残った私は一時にどっと疲労が出て呆然としていた。工場への戻り道、焼跡の土は熱く、途中、人、牛馬の死骸が全く地獄図絵さながらであった。焼け残った女寄の一角から学校へ連絡を入れ、そこを根城に毎日探し廻った。二日目の午後桜堤に死骸が並んでいると聞き飛んでいき、棺一箱ずつ調べはじめた。空襲から四十数時間経過している。真夏の事死臭は鼻を突き、頻も手も黒焦げの死骸七十棺ほどみた時、菜葉服をみつけボタンを外し内ポケットに貼付けた名札から本人を発見確認した。係官に依頼し工場へ戻り、リヤカーを借りてとんぼ帰りに戻り棺を一人で工場まで運んだ。連絡してあった御両親が来られた。
 私が棺の蓋を開けた途端鼻血がブクブク出た。死者は肉親を待ち対面する時は何らかの形でその心を表現すると聞いていたが、生まれて初めてこの霊感とも云うべき事実を目のあたりにした私は全身の血が止まる思いであった。・范シ親と対面できてさぞ嬉しかったのだろう。火葬場の順番はとても来ないと云うので焼跡の燃えさしを中庭に積み重ね茶毘(だび)に付し遺骨を拾い、私が白木の箱を抱いて上野市駅に無言の帰還をしたのが十九日の夜、駅頭には沢山の人々が出迎えて下さった。青ざめた私は万町の本人の実家へ届け、その夜は久し振りに我家でほっとしたのか綿のようにねむっていたと両親が云ったのを覚えている。一週間ほどあと菩提寺なる廣禅寺で上野商業学校報国隊葬と銘打ってしめやかに学校葬を営んだ。
 当時の私は二十六才、独身だったが自分で云うのもおかしいが、よくもこれだけの事後処理が出来たものだと自負している。口で表現し得ない苦労もやり抜いた事が大きな自信となり、どんな事でもその気になってやりとおせば出来ぬ事はないと生涯を支える気力、人生を支配する精神力形成になった。思えば十九年七月動員以来、旋盤、フライス盤、ターレット盤に取り組み日の丸の鉢巻で汗と油にまみれ飛行機の部品造りに純情を燃やし、昼も夜も二交替制で、戦闘帽に菜葉服、ゲートル着用で必勝を期して頑張った。成長盛りの生徒に食糧事情が悪く米、麦、大豆粕、高梁(コーリヤン)等の交ぜ飯に沢庵漬けの蓋押葉を細かく切ってふりかけた丼だった。
 同じ釜の飯を食い寝食を共にし、その最後の夜(十七日動員解除の予定だった)火の玉の中を潜り抜けた者達の友情や師弟の団結は強くその後一年も休まず墓前同窓会が五十回続いた。
 私は一教師として後輩の教師に二度と再びこんな苦しみを味あわせたくない。永遠に戦争のない社会を心から願いたい。教え子を戦争で亡くした教師の苦しみ悲しみを赤裸々に記しとどめ、戦争と平和を真剣に考えて貰いたい。五十年目の今年桑名三菱に動員した十一校が桑名に集い、合同同窓会を催したのだった。

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