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平成20年09月09日

三重県戦争資料館

引揚げ・抑留

タイトル かえり船
本文 ♪夢は今も巡りて 思い出ずる故郷♪
 いつの日か、人は帰ることを願って止まないのが故郷でしょう。同じ日本人の中にも、二度と帰ることはおろか、見に行くことも大変困難な故郷をもっている人達もたくさんいるのです。引き揚げ者……それが私達です。戦火に焼かれて、焼け野原にほうり出された人達と同様に何もかも無くし、加えて祖国に帰りついても、日本人としての市民権すら得られなかったのです(国を出たものの宿命といえばそれまでですが……)。私は朝鮮三十八度線以北、元山(げんざん)で生まれました。確かに内地の方の言われるように、比較的恵まれた生活をしていたのは事実です。それが、日本の占領と搾取に根差していることを知るのはずっと後のことでした。
 殖産銀行元山支店に勤務している時に私は敗戦を迎えました。同時に預金の払い戻しが目立ってきて、資金不足を補うために、支店長自ら(若い男子行員は召集されてしまい、残っていたのは高年者と女子行員、朝鮮人行員だけだった)海軍機に乗り、ソウルの本店まで資金を取りに行かれました。そのまま戻って来なくても仕方ないくらい危険な状況だったのに(本店でも「戻るな」と言われたそうです)、本当に命をかけて在留日本人のために、戻って来られました。そして無事、払い戻しも済み、ほっとしたのもつかの間、今度はロシア人が上陸して来ました。いち早く情報を手にした官・公・署の人々はその頃には韓国へ逃げ去った後です。裸足で、軍服とは名ばかりのわかめのような服を纏い、毛むくじゃらの腕には、略奪した腕時計をズラリと付けて……日本人の抵抗を予測してか、そのような最初に上陸してきた兵士は、弾除けの囚人達だったそうです。従ってやることは略奪と暴行です。女性は女性であることがバレると、容赦なく暴行されました。板など打ち付けてあってもそれを剥がし、夜になると女を出せと上がり込んで来ます。私も顔に靴墨を塗ったり、床下に隠れたり必死で逃げました。朝鮮人も踏み込んで来ます。「朝鮮で儲けたもの皆置いてけ!裸で帰れ!」と言いながら、欲しい物は皆持って行きました(それは当然かもしれませんが…)。
 そのうちに今度は北方からの避難民が続々と元山に入って来て、学校等に寝泊まりしていたのですが、長い旅路で疲れきっていて、食べ物もろくにないところへ、コレラや発疹チフスが発生し、医者も薬も無い中、避難民の方々は次々と亡くなっていきました。朝鮮の十一月は、もう土も凍っています。スコップなんてもちろん無いので、手で掘って遺体を埋めるのです。当然深くは掘れないので、手や足が地上に出ている状態でした。民警隊の目を盗んでよく母とそこへ食べ物を運んだりもしました。そんな避難民の所へも、夜になるとロシア人が女を求めてやって来るのです。そしてジープに乗せて連れて行かれるそうです。
 子供をおぶって何里も歩き、お乳もあげられず、いつか背中で冷たくなっていた我が子を草の陰に捨てるように置いてきたとか、子供の泣き声でロシア人に見つかってしまうので、松の木に縛り付けて捨てて来たとか、集団脱出の悲劇もたくさん伺いました。
 そんな中、私達もようやく脱出の目処が立ちました。朝鮮人行員の方が、漁船にひとり千円で乗せてくれると約束して下さったのです。
 脱出の日は昭和二十一年五月十二日と決まりました。しかし姉がチフスにかかってしまい、家族皆での脱出が困難になってしまい、急遽私が妹を連れて脱出することになりました。私二十三歳、妹十二歳でした。決行の日、親子で水さかずきを交わし、両親達と別れました。夜十時頃海岸より闇舟に乗りました。他にもひと家族一緒でした。魚臭い船底に隠れ、息を殺していました。まだ小さい妹は、「お母ちゃんの所へ帰る。」と言って泣きます。それを怒ったりなだめたりしながら……そして何時聞くらい過ぎたのでしょう。上から三十八度線を突破したという声が聞こえました。そして海岸に上がったらオモニ(朝鮮人のお母さんの意)が迎えに来てくれて、暖かな部屋で真っ白なご飯とキムチをたくさん御馳走してくれました。この味は生涯忘れることができないでしょう。その時オモニが「日本に帰っても朝鮮人悪い人だと言わないで下さい。」と言われました。そう、悪いのはすべて戦争なのです。憎む理由もないのに人を憎み、罪も犯してないのに人を殺して。
 戦後五十年経ちました。五十年といったら、ひとりの人間が分別ある大人になる年月。日本にも分別ある大人になってほしいと切に願うばかりです。
 田端義夫氏の「かえり船」を聴いては、二度と戻れない海の向こうの故郷へ、思いを馳せる日々を送っています。

タイトル 北朝鮮「平壌」の思い出
本文  もはや五十年の歳月が流れ、幼き頃の記憶は既に忘却の彼方へ埋没して、かすみ去るのみである。この辺で、ささやかながら抵抗して今一度、記憶を呼び戻してみたい。
 私達が朝鮮へ渡ったのは昭和十八年の事だった。その頃私の父は津市の「丁字屋」へ勤めていた。この会社は、その昔、呉服店から明治になって洋服部門を加え、順次発展して、戦争中は百貨店になっていた。
 当時日本国は朝鮮、満州(中国東北部)方面へ勢力を伸ばしていた。「丁字屋」も支店を朝鮮の釜山、京城(現・ソウル)、平壌、新義州等へ出店し、遂には本店をも京城へもっていったのである。
 戦争も末期をむかえた昭和十八年、北朝鮮平壌支店の充実をはかるべく、父は支店長として派遣された。
 私とすぐ上の姉と両親の四人で渡朝した。私はそこで幼稚園から小学校へ入った。
 妹が生まれたのはその頃だった。朝鮮で生まれたので「○○」と名づけられた。年子でもう一人「○○」と言う妹も生まれた。
 そうこうしている内に終戦。ここは戦場でないので全く実感が無かった。しかし終戦間際に現地で召集された民間人の兵士達が、戦後一旦家に帰りながら直後に再召集されてシベリアへ送られて行くのを、店の二階の窓の透き間から目撃した事があった。何百人かの兵隊が行進して、だれかの妻が必死に追いかけて来て、一言、二言、言葉を交わしている。切羽詰った状態を何とも言えぬ気持ちで眺めていた。その頃父は新義州へ長期出張中で我々家族と、はなればなれになってしまった。まわりの人達は手のひらを返す様な態度になり、住んでいた店舗の裏の幾部屋も明け渡しをせまられていた。当時北朝鮮はソ連に侵攻されており、日本人は軍人はもとより民間人も有力者は身柄を拘束されていた。父もそうなるはずだったが、知人にかくまわれて潜行し事なきを得た。しばらくして隠れて帰って来た父と再会した。ここにはそのまま住めないので、郊外のある建物の横に張り出した一畳程の石炭小屋、ここへ一家六人が転がり込んだ!横になって寝られないので皆、座ったまま寝るのである。ここで数か月を過ごした。父は日雇い労働者となってわずかな収入を得ていた。その次には一軒の家に日本人が数家族入っている所へやっと入れてもらった。しかしこの様な状態でいつまでも過ごすのは父も望んでいなかった。一日でも早く内地(日本)へ帰る方法を模索していたのである。内地へ帰らぬむねの誓約書が回って来てそれに判を押さされた。その内にヤミのトラックで三十八度線近くまで夜逃げする方法があるとの事で、父はその資金も、知り合いの日本人に内地へ帰ったら必ず返すからと、やっと借りて決行する事になった。
 ある日の夜、郊外のコーリャン畑に潜んで待った。やがてトラックが来て、荷台に他の何十人かと乗せられてある所まで到着した。それからはかなり大きな山脈を徒歩で越えねばならない。何日かかったであろうか?
 途中何か所かで、朝鮮人による私設の関所の様な所があり、それぞれ金品を巻き上げられるのである。その為わずかに用意された金も無くなってしまい、山の中で食物も無く幾日も歩かされた。皆が栄養失調状態でふらふらしながらやっと三十八度線を越えた。
 そこからは南朝鮮(現・韓国)で米軍の勢力範囲であった。わずかながら食糧もあたえられ、トラックで海の見える所まで運ばれた。そこでも乗船の順番待ちで何日かまたされたが、やっと引揚げ船に乗船出来たのだった。しかしその船内で妹の「○○」は栄養失調で遂に亡くなってしまった。まともな葬式も出来なかった。お経を読んで海中へ流すのである。
 船は佐世保港へ着いた。我々はそこの援護局へ、母と下の妹「○○」は病状が進んでいるので病院へ廻された。
 しばらくして母が我々の居る所へ帰って来たが、妹「○○」は病院で亡くなったとの事だった。母自体も、もう一週間手当が遅れたら危なかった様で、栄養失調から黄痘が出て白眼は黄色くなり、足はぼんぼんにむくんで指で押すと、へっこんだまま元に戻らないのである。
 その後、残った私達はやっと郷里へ帰って来たのである。父はその後「丁字屋」へ復職し、約十年後やっと独立して小さな洋服店を開業した。私をどうにか跡取りに仕立て上げ、三十年程前に七十才で亡くなった。母は八十二才まで生き十年程前に亡くなった。あれから五十年、感慨にふけりつつ、改めて平和の大切さ、尊さをかみしめているこの頃である。

タイトル 三十八度線を越えて
本文  今、考えてみると当時の私達は、難民だったのですね。
 その日は、丁度今日のように青い空が一杯の昭和二十一年九月十七日、北朝鮮の収容先鎮南浦(現・南浦)の米倉庫を後にして懐かしい母国内地への帰路に着いたのです。父は、軍人であったためシベリアに抑留され、母は、体が弱く病人として別行動で結局私は、姉二人と持てるだけの荷物をもって、二千人の人々と一緒に歩き出したのでした。二千人の列は、長蛇の如く続きましたが私達姉妹は、元気良く先頭の集団に、また乳飲み子のある人やお年寄りは、後ろになり内地へ帰りたい一心で一生懸命に歩きました。
 夜になると川の辺で野宿です。私は、薪を拾いに行き、姉たちは、石を集めて竃(かまど)を作り夕食と明くる日の食事の支度をするのです。食事と言っても、お粥か高梁(コーリャン)の御飯です。ささやかな夕食が済み、やっと横になれたかと思うと、現地の役人が、どやどやとやってきて荷物をひっくり返して目ぼしい物は、着ている服まで取って行きます。私が一番口惜しかったのは、父の軍服の写真を見つけると靴の下に踏みつけて破ってしまった事です。だから今残っている写真は、父の所だけ切り取ってあります。
 何度かこのような情け無い思いをしながら、来る日も来る日も野や丘を越え、川を渡り、苦しい茨の道を歩きました。途中力尽きて倒れた人は、そのまま、お墓も造れず、地名も判らない所に置き去りにされるのです。本当に惨い事ですが、皆自分が歩くのが精一杯で、とても人の世話など出来る状態ではありませんでした。
 こうして一日平均二十キロ位歩き、ようやく十五日目に境界近く迄辿り着きました。三十八度線を越すには、昼間は、ソ連軍に見つかるといけないので、山の中に潜んで居て、夜、月明かりを頼りに、とぼとぼと山道を歩き、やっと夜中に三十八度線の峠を越えることが出来ました。そうして着いた所が、青丹でした。ここでは、おむすびを一個・\円で売っていましたが、私達には、そのお金がなく、最後まで大事に持っていた一度も手を通した事のない服と、おむすびを交換して食べました。
 こうして二日程滞在後トラックで開城へ行きました。開城では、広いテント村が出来ていて、方々から逃れてきた日本人が、収容されていました。ここには、一週間の滞在です。ここで別行動をとっていた母に偶然会うことが出来、その喜びは一入(ひとしお)でした。母は、鎮南浦から船で川を渡り、そこから馬車で途中まで行き、三十八度線を越えるときは、皆一列に並んで一本の綱に掴(つか)まって峠を越えたそうです。開城には、私達より四日程早く着いたため、再び親子別れて、先に出発して行きました。又テント村では、平壌時代の友達とも再会し、終戦後からここまでの苦労を話し合い、涙するのでした。
 瞬く間に一過間が過ぎ、今度は、貨車で釜山へ行きます。うす暗い箱の中で身動きもできない程ぎゅうぎゅう詰めでしたが、あの山道を歩いたことを思えば、感謝しなくてはなりません。三日程この貨車にゆられて、やっと釜山に着きました。釜山では、麦ばかりですが缶詰め御飯を項き、とても美味しくて一生忘れられない位感激しました。ここでは、一日海を眺めて内地からの迎えの船を、今か今かと待っていました。夕方になりやっと船が着いて、一同乗り込み、出発は明朝五時です。これで夢にまで見た内地に帰れると思うと、その夜はなかなか眠れませんでした。
 明くる日、目が覚めると、もう十時でした。船酔いしたのか、ふらふらで、やっと手摺りに掴まって甲板に出ると、どこを見ても海ばかりでしたが、頬打つ風が心地良く、すぐ気分も良くなりました。その時突然誰かが「見えたぞ、見えたぞ」と、遥か水平線の彼方にぼんやりとかすむ島影を見つけました。甲板にいた全員が、思わず拍手をしました。そしてその日の三時頃、博多湾の沖へ着きました。
 船では、一週間の検疫期間があります。博多の町を目前にして、お預けです。その間、演芸会が催され歌や踊り等披露され、又ある人は、開城のテント村の生活を歌にして歌い、皆の涙を誘いました。いよいよ昭和二十一年十月十八日、鎮南浦を出てから約一か月目に上陸出来ました。港では、「引き揚げ者の皆様永い間ご苦労様でした」とか「引き揚げ者を温かい心で迎えましょう」という貼り紙に傷心の私達の心は、充分慰められ目頭が熱くなりました。
 終戦後、敗戦国民として外地で貧しさに耐え、あらゆる精神的苦痛を乗り越え、日本人同志でも油断もすきも見せられない生存競争に月日を送り、やっと帰れた祖国での優しい言葉や文字に接し、生きていて良かったと実感したのでした。今、核実験に世界中の人々が抗議していますが、この地球上で二度と五十年前のような悲惨な戦争が起こらない事を願っています。

タイトル 敗戦引揚げの苦難無事乗り越えて
本文  昭和二十年八月十五日ラジオの前で正座していた大人達の顔色が変わったのです。私達子供には放送の意味がわかりません。父から聞き敗戦を知りました。当時私は国民学校五年、満州(中国東北部)の地でした。この先日本はどう成るんだろうか、まして異国の地に居る私達日本人の身の上は両親がついているのに次々と不安が込み上げてくるのです。
 予想どおり半日の内に日本人と満州人の立場が一変してしまいました。十五日の夕方より襲撃が始まり、安全な避難場所を考える時間も無く、人里離れたトウモロコシ畠や洞(ほら)穴へ避難しました。犬の遠ぼえは勿論、風の音、虫の音までが不気味に感じ、恐怖の余り幼い弟妹達も口を噤(つぐ)んだままでした。その内ソ連兵までが侵入してきたのです。主な建物等もすべて乗っ取られてしまいました。
 昼も家外に出る事が危険になり、レンガ建の家を厳重に戸締りして、家中にタンス等で隠れ場を作り、貴重品は天井裏、床下に隠し閉じこもる生活が始まったのです。ソ連兵は夜になると銃を持って主に若い女性を捕えにくるのです、遊び相手にするためです。ラジオ、郵便など外からの情報は全くとぎれ、ただ身を守る毎日でした。神社が壊された時は御神体が足で踏みにじらたとの事、歯がゆい思いでした。
 やがて二十年も暮れ、二十一年七月になりました。子供達の教育の事も心配になり、日本への引揚げを決意しました。引揚げ証明書を手にすると、今日の中に引き揚げろと命令され、短時間でリュックに必要品を詰め、衣類は一枚でもと重ね着して、「おにぎり」を作るのがやっとでした。日本人が引き揚げる事を聞きつけると、家主がまだ居るにもかかわらず、入り込んで目の前で土地、家、家具の奪いあい。私達は追い出される様にして我家を出てきました。
 すでに三十八度線が引かれ、朝鮮を通っての帰国はできません。汽車に乗ったものの果して無事日本へ帰れるだろうか、不安な気持ちでうとうとしていると、汽車が急停車したのです。これより先は線路が破壊されているから、汽車から降りて歩けとの事、真夜中それも知らぬ地、直ぐに動く事もできず夜明けを待ちました。知らぬ山道は迷いやすいし、危険も多いとの事で、線路伝いに歩く事になりました。線路の石で靴の底がボロボロに破れ、足の痛みを堪えて歩きました。
 ある所まできた時、鉄橋を渡る事ができず、そこからは満州人に襲われる事を覚悟で山道に入りました。もし家族が散らばる事があっても二人が一体に成って手を放さない様にと、姉十五才は妹二才をおんぶ、兄十三才と弟七才、私十一才は妹九才、父は弟五才と妊娠九か月の母の手を握り、皆が黙々と収容所のある方角めざして歩きました。夜は野宿、持ってきた食糧も心細くなり川の水を飲んで飢えを凌ぎ、途中山の中で三度襲われ持っていた金、品物はほとんど取られました。
 幸い身体に害を受ける事なく、何日歩いたでしょうか、汽車の通っている駅を見つけました。直ぐには乗せてもらえず三日程広場で野宿、その間にも残り少ない品をせびられ、今度は子供をくれないかとの事、怖くなって隠れました。
 やっと私達の乗る貨物列車がきました。屋根がありません。戦時中に日本軍が軍馬を運んだ車とか、中には馬のふんが固くなって残されたままです。途中夕立にあい、雨でふんがやわくなり足がめり込んでいくのです。夕立の去った後陽が照りつけ、ふんの臭が一段ときつくなり気分が悪くなり、妹も一時意識が無くなり死ぬ寸前でした。十日余りかかってやっと奉天(現・瀋陽)の収容所へ辿りつきました。
 既に三百人余りの人が帰国する日を待っていました。元日本の鉄工所あとで、鉄板の上に荒ムシロにくるまって転寝(ごろね)ですが、今日からは屋根の下で、満州人やソ連兵に襲われる事なく、安心感と十日余りの疲れで皆死んだ様に寝入りました。
 食事は二食、コウリャン(キビ)やトウモロコシのおかゆ一杯と水。空腹は勿論、身体には「しらみ」がわき栄養失調、赤痢、コレラで次々と倒れ亡くなっていきました。髪の毛が遺骨代り、後は大きく掘られた穴へゴミ同様に始末され無残なものでした。
 六十日余りの収容所生活も私一家「九人」は無事堪える事ができ、コロ島より引揚げ船にのり込みました。母は乗船して女児を出産、母は助産婦でしたので必要なお産道具をリュックの底に隠し、自分のお産に役立てたのですが、あの子は産声をあげる元気もなく、私達の八人目の妹としての仲間入りができませんでした。
 オーイ、日本が見えてきたぞ、その声に先を争って甲板に、涙が止めどなく流れる。七月に家を出て、九月博多へ上陸、父が築いた財産は消えたが、それ以上の宝を持って帰国できたと父は言いました。その「宝」とは私達一家九人が無事帰国できた事です。
 天国のお父さん、お母さん、早いもので戦後五十年を迎えました。引揚げの時は私達を守って下さってありがとうございました。
 あの時の苦労がどんな困難にも負けぬ精神力を私に備えてくれました。私も六十一才になり元気で頑張っています。二度と戦争をくり返す事のない様に、平和を祈りつつペンをおきます。

タイトル 遥か満州(中国東北部)の地に眠る我が母と我が子
本文  昭和十五年四月満州北安(ペイアン)省海倫(ハイロン)県の警察官として勤めていた主人の元へ渡満しました。昭和二十年四月に次女出産のため、日本から来てくれた母が、六月に帰る手続きを取りましたが、軍人の家族優先で帰国することが出来なくなりました。
 八月十五日終戦、この日を境に満州での私達の生活は一変してしまったのです。その日の夜から銃声の不気味な音が響き、満州人がウロウロと官舎の廻りをしています。満州警察より主人に呼出しがあり、何日待ちわびても帰ってきません。そのままシベリアの捕虜となってしまったのです。母と四才の娘、それに四か月の乳児と私の女だけの家族となってしまいました。
 その年の十月の始め、突然一時間以内に官舎を引き揚げよとの命令、おむつ、子供の着替え、母にリュックサックを背負ってもらい、身につけられる物は総て身につけ、やかん一つ、鍋一つ、これが私達の全財産となりました。官舎の同僚の家族二十組が、二列になって、海倫の官舎を後にしました。その道中、満州人が柄の長い草刈り鎌で、私達の持ち物や子供を攫(さら)おうとしている。私と母は、四才の長女を真ん中にして、手をしっかりと握りしめ、一時間以上もかかって海倫駅に着きました。屋根の無い牛馬専用の貨車に、すし詰めで乗せられ、三時間ほど経った頃、貨車が急停車させられて、ロシア兵に、婦人を二人出せと要求され、出さなければ貨車は動かさないとのこと、四方は見渡すかぎりの草原です、勇気の有る婦人が二人犠牲になって下さり、無事貨車は発車する事ができました。その後ハルピンに寄り、二晩すごしました。
 収容所といっても日本の小学校跡でした。土間の上に、ぎっしりと詰め込まれ、家屋の戸や窓は壊され、風雨が部屋に吹き込んできます。中国東北部は冬の到来が早く、秋から冬へ、急転直下です。燃料はなく、食料も乏しいなか、海倫より持ってきた、カンパンで助かりました。ここでも夜になると子供を攫いに来ます。病人もぼつぼつと出てきました。
 その後、奉天(現・瀋陽)の収容所に移りました。奉天駅の近くで、日本人が住んでいたらしく、六畳ぐらいの部屋が十五あり、荒れ放題です。紙屑とボロ布を集め、敷布団を作り、親子四人丸くなって眠りました。やかん、鍋一つの生活が始まり、石を集めてかまどを作り、高梁(コーリャン)、とうもろこしを買い求め、お粥を作り、雪を解かしてその鍋でおむつを洗いました。今思えばゾーッとするが、命をつなごうと思えば汚いなどと言っておられませんでした。
 戦時中、威張っていた日本人も哀れなものです。病気になっても薬を買う金もなく、医者もいないなか、栄養失調に加え、疫痢、発疹チフス、麻疹(はしか)が猛威をふるい、毎日死人が続出しました。又なかには、満州人と結婚した人もいます。子供達もだんだん少なくなってしまいました。開拓団から逃げて来た家族の中には、子供が一人もいないのです。途中、満州人に攫われたと言っていました。若い女性達は、丸坊主になり、顔に炭をつけ、ロシア兵から逃げていました。着ている物はシラミだらけで、日の当たる所でシラミ取りです。
 十二月に入り、長女の○○が元気がなくなってきたのです。熱が高いので雪を取って冷やすが下がらない。十二月六日、娘は「お母ちゃん、あのお花取ってちょうだい」と言って、息を引き取ってしまいました。毎日ゴロゴロと死人が出、家族全員死亡した人達もいました。今度は私がひどい熱である。私の枕元で「お前は元気になってくれ、乳児を残されたらどうして生きていかれよう」と言っていた母も、ついに高熱に冒され、五日後の十二月二十五日に亡くなる、五十二才でした。
 私は収容所の皆様にお世話になり、一か月後に歩ける様になりました。乳児と二人いつまで命が有るか分からない中、日本に帰り、父と兄に母の位牌を渡すまで死ねるものか頑張ろうと思い直しました。郊外の草原の百メートル程の高い堀より投げ込まれた死体は無残にも総て、裸のままである、それが日本人最期の墓となったのです。
 五月二十五日、海倫を出て八か月突然の引き揚げの命令が出る。二体の位碑と乳児を胸にしっかり抱きしめ、「お母さん、○○、さようなら、いよいよ私達は日本へ帰ります、必ず又来ますからね」、言葉に表現出来ぬ程の淋しさとつらさで、後ろ髪を引かれるような気持でした。コロ島から船に乗り、六月一日佐世保港に着きました。下船した途端、十数人の婦人達が私達親子を囲み、「こんな小さな赤ちゃんを連れて帰ったのは初めてですよ」と、涙を流して喜んでくれました。その次女も今では孫を抱き、幸福に暮らしています。
 こんな生き地獄の様な体験は私達だけで、十二分です。地球上が戦争のない平和な世界になる様、祈る昨今です。

タイトル 吉林脱出から家族との再会へ
本文  敗戦当時、私の家族は新京(現・長春)の南の通陽県伊通に住んでいた。私は吉林市の吉林中学校に在学中で、寄宿舎生活をしていた。
 寄宿舎には新聞もラジオもなかったから、当時の日本の情勢については分からなかった。八月十八日午後N学校長に呼び出され、「治安が悪いので、このシャツを一枚ずつやるから、新京方面の者は帰るな。」と言われた。
 一年生だった私は、上級生と相談し、十九日早朝一緒に吉林市を脱出することにした。だが、親元へ帰れるかどうか不安だった。
 翌日吉林駅の近くで、N学校長に見つかったが、許して下さった。
 私が乗ろうとしていた列車には、荷物を持った中国人が何人も機関車の上や横に乗っていて、異様な光景であった。
 その当時、吉林から新京迄は四時間十分かかったが、この日はかなり時間がかかり、・[方新京へ着いた。駅の構内では、大豆の倉庫が黒煙をあげて燃えていた。
 汽車から降りると、上級生二人は自分の親元との連絡がとれたので、私に「君は好きなようにしろ。」と言って駅頭で別れた。
 一人ぼっちになった私は、前に一度泊ったことがあるKホテルへ行ったが、表のドアに張り紙がしてあったので、それを見てから東本願寺へ行った。そして、大勢の避難民の中へ合流したのだった。
 私は公主嶺経由で伊通へ帰るつもりでいたから、翌日この寺を出て新京駅へ行った。所が、駅の事務室には机や椅子が沢山詰め込んであって、構内は片付けられ、ごみが燃えている煙だけで駅員らしい人はいなかった。デマで不安だったが、いつ発車するとも分からない停車中の汽車に乗った。そして、次の日に別のホームの列車に乗り換えた。
 私が乗った客車は半分が貨車になっていた。夕方になると、その貨車の辺りが騒がしいので見に行くと、ドアが少し開いていて白系ロシア人の年配の男が自殺を謀り、胸の辺りからシャツが血で真っ赤に染まり、苦しそうに左腕で自分の体を支えていた。後で聞いた話によれば、その人は救出されたが、その間にその人の妻と娘は自殺していたそうだ。
 次々と新京へ到着するロシア人の兵隊達には、女の兵隊もかなり交じっていた。少し離れたホームには、日本の憲兵の一団がいた。その中の一人が女の兵隊に腕を捩(ね)じ上げられ、腕時計をとられていた。その人は無抵抗だったから、私は悔しい情けない思いで車窓から見ていた。
 次に、男の兵隊が一人来て、我々の客車の窓ごしに網棚の荷物を見て、よこせと言うのか「ダワイ、ダワイ。」と言ったが、無視した。彼等は、万年筆、時計、バンドを欲しがった。このようにして、私は三日三晩飲まず食わずの日を過ごしたが、空腹感は感じなかった。
 四日目の夜遅くなってから、我々の列車が動き始めた。私は寝込んでしまったが、二回目に目を覚ますと、列車は既に公主嶺に停車していた。隣の人に私の荷物をホームへ放って貰うように頼み、急いで下車しようとした。所が、暗闇の車内の通路には朝鮮人が何人も寝ていたので、怖々(こわごわ)気付かれないようにしてデッキへ出た。そこにも人が寝ていて降りられないので、ホームと反対側に拡げてあったアンペラの上を滑り落ちた。
 そして、列車の下をくぐり抜けようとしたら、運悪く自分のかけていた水筒を連結器のどこかへ引っかけてしまった。無我夢中で外し、ホームへ遮二無二這い上がると、間もなく汽車は動き出し、危うく命拾いをした。
 その後、放って貰った背嚢と風呂敷包みを担ぎ、知人の家を尋ねるために歩き始めた。所が、どこの家の窓ガラスにも中国とソ連の旗が張ってあり、所々、板が×印に打ち付けてある家があって、一層恐怖感を増した。それで、YさんやIさんの家でノックするのを断念した。途中で犬に吠えられた。
 しばらく行くと、銃剣を光らせた人と綱を持った人に挟まれ「日本人かっ。日本人かっ。」と怒鳴られた。私はとっさに「日本人です。」と答え、首筋を掴(つか)まれ、日本人居留民会へ連行された。そして、取り調べを受けた。
 その結果、運よく私の家族が前日に集団で公主嶺へ来ていることが分かり「明日連れて行くから。」と言われ、広い畳の部屋で大勢の男の人達の間へごろ寝をして休ませて貰った。その時、二十三日午前○時二十八分だった。そして、翌朝家族との再会を果たしたが、もし私が列車で寝たまま南下していたら、と思うとぞっとする。全く奇遇という外はない。
 中国残留孤児の一人にならずに助かり、テレビで孤児の来日調査や色んなことが報ぜられる度に、私は涙が出てくる。この人達を育ててくれた中国人の恩義は決して忘れてはならないし、この事実を次の代にも語り伝えて行くべきであると思う。今の自分が、残留孤児の人達の何の力にもなっていないことを思う時、何だか申し訳ない気持ちがする。

タイトル 遠き思い出
本文  私達が満州(中国東北部)に渡りましたのは昭和十三年の春でした。当時主人は当地の国民高等学校の副校長として赴任致しました。大志を抱き夢と希望に燃えての満州生活は実におおらかで楽しい日々でしたが、昭和二十年七月十四日突然主人に現地召集の令状がきました。外地に居ても、赤紙が来たからには仕方がございません。「日本男子征かねばならぬ」と勇躍出征致しました。常々強気だった主人もあの時ばかりはとても淋しそうでした。北満州の小さな駅で四人の子供を連れ見送りました光景は今でも私の脳裏から離れません。長女十一才、次女七才、三女は四才で、長男は二才になったばかりでした。日本の戦況が日増しに不利になり、身の危険を感じながら子供達と不安な日々を過ごしておりましたある日の事、日本人の方から「一刻も早く逃げましょう」との電話通達があり、それからが女手一つで大変な事でした。
 家財道具一式はそのままにして、とりあえずトランクにもしかして自決をするかも知れないと、その時のカミソリと子供達の晴れ着を入れ、僅かな現金と少しばかりの食糧を持って、駅に向いました。駅に着きますと北へ行く兵隊さん、南下する兵隊さんが群れをなしていて、しかも無蓋貨車で次から次へと運ばれて行く有様は丸で戦場の様でございました。私達も同じく南下する貨車に乗り込みましたが、立錐の余地もなく、人混みにもまれて泣き叫ぶ子供達の声は今も耳に残っています。私は日本の両親のもとに何としても無事に連れてゆかねばとの一心でした。最初に降ろされたのは通化市で、その時日本の終戦を聞き愕然といたしました。行き場を失った私達はさっそく二十畳の部屋に五十人も押し込められ、愈々(いよいよ)難民生活が始まりました。一組の蒲団に親子五人が寝る生活で、安眠出来なかった事を覚えています。昼間私と長女は、物売りをしたりして、とにかく生きる事に一生懸命でした。
 当時なかなか日本に帰れそうもなく、冬の到来を目のあたりにして物価は急騰するわ、持ち金は少なくなるわで大変心細い毎日でした。そうした時にロシア兵が進出してきまして、日本人の持物を略奪して行きました。特に腕時計が珍しいのか、両腕に奪った時計をいっぱいつけて喜々としていたのを思い出します。
 お金は盗まれない様に子供のおしめの中にかくしたり、又暴行から身を守るべく、皆で子供のお尻をつねって一斉に泣かせたり、全知全能をしぼって頑張りました。其の頃から不潔と栄養失調が原因で小さな子供から亡くなり始めました。ほとんどの子供は小児結核にかかって死んでゆきました。二才の長男も同様に亡くなりました。行き合わせた親切な日本の兵隊さんに炭を一俵買ってもらい、通化の丘で長男の亡き骸を火葬にし、お骨を日本に持ち帰りました。
 通化市で難民生活八か月過ごした後、翌年の三月奉天(現・瀋陽)迄南下する事になりました。それが又賊に襲われ、列車から降ろされた私達一団は、真夜中の荒野で月明りをたよりに雪解けの泥水に膝迄つかりながら歩きました。長女は自足で、次女は兵隊さんに肩車をしてもらい、私は三女を背おって、必死の思いで歩き続けました。やっとの思いで奉天に着くや否や、三女の○○○を亡くしてしまいました。
 長旅の疲れと栄養不足が原因だったのでしょう、「お母さんリンゴが欲しい。お餅を頂戴」と云いながら、息を引きとりました。この子も奉天の火葬場に連れて行き、エフに「○○○○三女○○○」と書いて、悲しい思いで置いて来ました。当時としては他にどうする事も出来ない事でしたが、遠い思い出に浸る度に自責の念にかられます。昭和二十一年九月日本の引揚船に乗り、待望の祖国へ帰る事になりました。
 やっとの思いで乗り込んだ船中では、大人も子供も嬉しさの余り大はしゃぎでした。あの時に喰べたすいとんの味は今でも忘れる事は出来ません。大竹港に入港し下船して、日本の大地に一歩足をふみ入れた時のうれしかった事、あの時程祖国の有難さを感じた事はありませんでした。毛布や食糧品、それにふるさとへの切符等支給され、満員の列車に窓から押し込んでもらって、熊野に辿り着きました。懐しの故郷に帰り、主人の両親に二人の子供を渡した時の嬉しかった事、勿論長男と三女を亡くした気持の重さはありましたが、両親の喜ぶ顔に私も肩の荷をおろし、お互いに涙に咽(むせ)んだことでした。
 昭和二十三年の秋主人がひょっこり帰り、夢の様な思いでした。三年半にわたるソ連での捕虜生活、しかも飢えと寒さの中での重労働の明け暮れ、聞けば聞く程、よく生きて帰って来てくれたものと思いました。主人の捕虜生活に比べれば、私達の引揚げの苦労等比べものにならないと思いました。
 今日の日本は平和と物の豊かさに恵まれ有難い事だと思います。これも先人達の努力のお蔭と感謝いたしております。四季折々の美しき日本をこよなく愛し、この平和がいついつ迄も続きます様祈らずにはおれません。
 主人も昨年八十六才で他界しました。私も今年八十才を迎え感謝の日々を過ごしております。  合掌

タイトル 重い十字架
本文  終戦一過間前、突然のソ連軍参戦は満州(中国東北部)に住む私達の生活を一変させた。その日、満州の営口市にあった我家でも父母が家中のあらゆるものを引っ張り出し、必要最小限のものだけをリュックサックや風呂敷包に入れ、他は親しい現地の知り合いに二束三文で譲っていた。その中には、母が内地から持参した高価な着物や貴金属類も含まれていた。暴徒が日本人街を襲うと言う噂の中、作業は気忙(きぜわ)しく進められた。昼過ぎ、一つ違いの兄と間もなく五才を迎える私は、一張羅の洋服、新品の革靴に着替えさせられ、背中には真新しいリュック、肩には水筒を下げて家を出た。もんペ姿の母の背中には生後一年七か月の妹が、そしてゲートルに国民服の父は大きなリュックを背負っていた。付近の空き地には私達と同じ出で立ちの顔見知りが大勢集り、やがて隊列を作って歩き出した。私は行き先も目的も分からなかったが、一張羅の服や革靴が、そしてリュックの「お握り」や「お菓子」が無性に嬉しかった。まるで遠足気分で浮かれスキップを踏んでいた。
 そうするうちに私達は何時しか大通りに出、やがて私達の集団は更に大きな集団に吸収されていた。ところが間もなく私達の遠足気分は吹き飛ばされた。軍用トラックが機関銃で威嚇を続けながら後方から迫ってきたのだ。二台、三台、……、私達の横を不気味な音を立てて通り過ぎるトラックの上から、毛色の違った兵隊達が何ごとか怒鳴っている。『早く歩きなさい!』母が言った。それからどれくらい歩いたか。道路の中央部分に小さな盛物が目立ち出した。一定の間隔で小山をなすこうした米や砂糖を私は幼心にも勿体ない……、という気持ちで眺めていた。そして数時間……、私も兄も徐々に疲れてきた。真夏の行軍は幼い私達
の肉体を徐々に痛め出した。「足がだるい……、リュックが重い……」。
 それからどれだけ経っただろうか。最早付近には建物はなく、広いデコボコ道だけが大地の彼方へと無限に続いていた。やがて夕日は傾き、私達の体力は限界に達していた。その時である。道路とは川を隔てた線路の彼方から汽笛が聞こえてきた。集団が急に騒がしくなった。列車は近付くにつれスピードを落し、そして停車した。機関士が何か叫んでいる!。『乗せてくれるらしい!……』、付近が歓喜に包まれた。ところが、この列車との間に大きな川が横たわっている。橋などない。すると父は突然リュックを背負ったまま、両手に私と兄を抱くと、ズカズカと川に入っていった。父は当時の人間としては大柄な方で優に五尺八寸(百七十五センチ)はあったが、その父ですら、川の中央部辺りでは腰付近まで水に浸った。
 私は父の首玉にしがみついた。対岸に渡った父は私と兄と大きなリュックをそこに置くと、再び川を引っ返していった。向う岸に残った母とその背中の妹を迎えに行ったのだ。残された私と兄は徐々に心細くなってきた。付近は既に夜の帳(とばり)が降り始め、周囲の喧騒に私達の幼い心は怯えていた。人々は既に列車に乗り始めている。濡れた衣服のまま我先に列車に突入している。私達の心細さは極限に達していた。その時である。私の隣で薄暗くなった川面を不安そうに見詰めていた兄が突然狂ったように列車に向かって駆け出した。そしてそこに辿り着くや短い足をステップに掛けようかともがき出した。大人達の僅かな隙間に自らの身体を割り込ませ懸命に登ろうとしている。私は驚いた。そして叫んだ。『お兄ちゃん、お兄ちゃん……。』しかし、兄は気付かない。尚もデッキへの挑戦を試みている。私は更に呼び続けた。やっと気付いた兄は戻ってきた。兄は薄暗くなった川面に父を見失い、極限に達した疲労と混乱の中で幼い思考が錯乱したのだ。父母や弟妹は既に列車に乗り込んだものと……。私はこの時の、必死の形相でデッキに足を掛けようとしていた兄の姿を今でも鮮明に覚えている。そして、思い出す度にゾッとする。兄があのまま列車に乗り込んでいたら、多分私達とは永遠の別れになっていたであろうと……。あの混乱の中で、一時と言えども離れ離れになれば多分両者は二度と再会することは出来なかっただろうから……。

 その後私達は、ある女学校の寄宿舎跡に収容され、母はそこで私達の弟・大雅を出産した。営口の官舎を追われて二か月、予定よりも一か月も早い出産だった。その弟も内地に引揚げ後、一才十か月の短い生涯を閉じた。
 昭和二十二年八月十四日、終戦から丁度二年目であった。栄養失調の幼い体は病に勝てなかった。
 弟の死は父母にとって一生背負わなければならない重い十字架になった。その父も十年前に弟のもとへ旅立ち、そして母は二人の供養に明け暮れる毎日である。

タイトル 北満州からの引揚げ
本文  私はシベリヤに近い満州(中国東北部)の開拓団で敗戦をむかえました。父親が双竜在満国民学校の校長をしており、当時私はその学校の尋常小学校の五年生でした。
 この体験文を書くにあたり、父湊多吉が書き残していた「双竜遭難記」を参考にしました。できごとの年月日や記述内容はそのまま書き写しました。私の体験文は父の文章のあとに〔 〕をつけて書いてあります。

 昭和二十年八月九日ソ連参戦。

 八月十五日午後、副県長から「駄目だ、戦争に敗れた。巴彦(バイエン)に移動の準備をなせ」との電話連絡あり。十六日十時頃、興隆鎮(シンルンチン)弁事務所の○○○氏が双竜に避難して「昨日十五日、日本は無条件降伏をし、その正午から青天白日旗が同街にひるがえる」と語る。午後二時五大老会を召集して討議す。「最後まで現地で死守しょう」と一決した。十七日、周辺に迫る○○の行動露骨となり、金品の掠奪はじまる。夕刻、元吟尓浜(ハルピン)満拓公社巴彦出張所長ら白旗を高く振りつゝ入団す。「十五日正午日本国は無条件降伏をなし、天皇陛下からは一人でも多く生き延びて帰国せよ」との大御心であると伝えられ、現地に屍をさらす決意をひるがえす。明日、双竜を引き揚げることにする。
 八月十八日開拓団との訣別。○○の金品の掠奪多し。警備員の弾丸つきる。午後四時、窪興村めざして離団する。
 〔本部の周囲の鉄条網ごしに、満州人が手に手に鎌を持って群がってきていた。母はゆで卵を薬缶に入れ、私に持たせた。持ち物を取りにくる満州人が満州警察に打たれて死ぬのをはじめて見た。〕
 八月十九日、朝八時窪興村を出発。竜泉鎮前の河は濁流矢の如き水勢、これを小舟と筏で数名ずつ渡る。有為の青年小伊豆君を濁流に失なう。二十日、昨夜は竜泉鎮街に仮泊する予定であったが、治安不穏とのことで、巴彦まで夜間直行する。二十日の早朝から十時頃までに極度の疲労と飢えに堪えぬき、五百余名巴彦の満拓会館に辿りつく。
 〔暗闇の中、荷馬車の女の子供が誰かに奪われた。泣き叫ぶ何人かの子供の声、母親の子を呼ぶ悲痛な声を聞いた。明けがた妹を背負ったまま父親が、朝露のおりた道端の草をなで、手の平で喉を潤していた。〕
 八月二十六日、ソ連兵城内に入る。毎日数回拳銃や自動小銃を携行して会館に侵入し、金品を強奪した。若き婦女子を姦す。三十一日夕刻、湊多吉巴彦監獄に投ぜられる。九月一日、双竜団員の家族は元巴彦守備隊の宿舎に強制移動となる。十月十五日、城内ソ連兵は宣撫隊と交代して、八路軍入城す。男女の別なく市街地に出て、健康体は就労を許される。就労者全体の二三割。
 〔私たち子供も八路軍の飯炊きをした。薪割りや大きな釜で何百人ものご飯を炊いた。大きなカーザ(お焦げ)をもらって帰った。みんなで分けあって食べた。当時の八路軍は「回れ右」もできない、軍隊経験のない人達のようであった。〕
 昭和二十一年の新春に入り寒さも一段ときびしくなり、屍を西門に埋葬することが多くなった。四月中旬、不潔にして狭い住居と新鮮なる野菜の欠乏とは耐病性を極度に低下させた。これまでに約半数の三百余名が死亡した。
 〔隣に寝ていた奥さんが亡くなり、体温が下がると虱(しらみ)がぞろぞろ這い出してきた。一日に何人も死人を西門に葬った。すぐ野犬が掘り出し、雪の上を引っぱって逃げ去る。なす術もない場景であった。〕
 五月末日、ソ連軍に抑留されて居た、○○○が同行の○○氏を失いて単身帰団する。七月中頃、三重県出身の在哈県人会長○○○○○氏等の尽力により、差し当たり奥地からハルピンまでの引き揚げ資金にと、十五万六千円という莫大なる義捐金が集められた。同月二十八日湊と二青年でそのお金を受けとる。
 〔当時の恩師○○○○先生は現在宮川村江馬でご健在、先日私に戦後五十年もたつと引き揚げ当時お世話になった方々のことも忘れがちである。関係者と相談して○○○○氏のお墓参りを、あなたと一緒にしたいと話された。私も亡き父に代って当時お世話になった方々の墓前に額突きたい。〕
 九月十七日ハルピンを出発、十月十七日佐世保収容所着。同月二十日佐世保駅出発、二十一日午後二時松阪駅着。
 〔戦後五十年、北満州の地での犠牲者に対し御霊安かれとご冥福を祈ります。〕

タイトル ヴエンキの森の中で
本文  草刈りの季節が終わり、昭和二十年十月末、二百余名の俘虜はウスリー草原を後にした。軍用トラックを連ねて何日か走り続け、ある日突然山の峰で降ろされた。ウオロシロフ南部・ヴエンキ山中道はそこでとだえており、冷たい秋雨の中で焚火をした。あまりの空腹に蝸牛(かたつむり)を焼いて食べた。眼下に茫々と森が広がり、私は寂蓼(せきりょう)の思いに胸が塞いだ。冬が迫っていた。大将(カマンジール)が急いで越冬用の家を造れと言う。十人程の班に分かれ、約五坪を一米掘り、中央に通路を更に半米掘り下げ、それに頑丈な屋根を組んだ。屋根には芝土を切って敷き、その上を更に土で覆って半洞窟家屋が出来上った。が、凍土が乾くまではまるで冷蔵庫だった。すぐ冬が来た。朝日覚めると、枕元の水が氷になっていた。
 ドイツとの命運を賭けた戦いでソビエトは疲弊し、食糧や衣服の支給は極めて乏しく、抑留中の死者や病者はこの冬に集中した。私も栄養失調と肺炎で危うく失命するところだった。が、この半洞窟にはウスリーの草葺小屋にはないささやかな団欒(だんらん)があった。ストーブでスープを沸かし、松明で真黒に煤(すす)けながら、私達は僅かな食事を楽しんだ。雑穀の粥(カーシャ)は水増ししてゆっくりすすった。耳掻きのようなスプーンを作った者もいた。食後はうまいもの話に興じた。それは何度聞いても魅惑的で、私達は想像を膨らませて飽きることがなかった。けれども、話の終わる頃にはもう腹が減り、腹の存在が恨めしくなり、せんかたなく私達は泥のように眠った。
 仕事は伐採だった。監視兵に率いられて薄明の凍てついた道を行き、二人一組で斧(タボール)と二人用の鋸(のこぎり)を持って山に入る。相方の○○さんは私より五つ年上の二十五歳、細い目が吊り上がり、頬骨の出た人の良い相貌(そうぼう)でがっしりとして力自慢だった。○○さんがこんな述懐をしたことがある。「俺は島原の水飲み百姓の息子だ。米の飯は盆と正月くらいで、年中芋と雑穀ばかり食っていた。子供の頃から力仕事をしていたから、こんな生活も伐採も俺はさほど応えないのだ。」……けれども○○さんには暗い陰は微塵(みじん)もなかった。時折面白いことを言い、細い目をいっそう細くして、一人で悦に入っていた。
 伐採のノルマは二人で六リュウーベである。二米に切った木を高さ一米余、長さ三米余に積むのだが、私にはそれは過重な労働だった。殊に運搬は生来非力な私は苦手だった。○○さんはそんな私をいつも助けてくれた。先ず○○さんが細い方を持ち上げ(太い方から持ち上げるのが普通なのだが)、私に肩を入れさせる。そうして前に回り、太い方を持ち上げて担ぐのだが、真ん中寄りを担ぐから、三分の二を○○さんが担いでいる格好だった。が、伐採は力もさることながら条件が物を言う。斜面で樅(もみ)の立枯れのある場所が最高なのだ。転がせば済むし、樅の立枯れは堅木の三分の一の重さだからだ。だから皆必死になって場所とりを競った。私も懸命に走り回って「いい所見つけたよ。」と、○○さんを呼ばうのだが、○○さんはいつもあまり条件の良くない所を指差して「あすこがいい。」と言うのである。ある時たまりかねて文句を言うと、○○さんは真赤になって怒り出し、「お前のような奴はたたき殺してやる。」と、斧を振り上げた。私は泡を食って雪の中を逃げ回ったが、すぐ二人共へたばって焚火の前に戻った。○○さんはたぎる湯に頭上の松葉をむしり取って入れ、「飲めや。」と、ばつ悪そうに言った。私は神妙にすすった。
 伐採の帰りに雪中に倒れている馬を発見したことがある。その時は監視兵がいてどうにもならなかったが、その夜○○さんは斧を持ち、大胆にも二重の有刺鉄線の柵を抜け、馬肉をとりに行った。見つかれば即座に望楼の銃口が火を噴くのだから、それは命懸けの荒業だった。やがて雪まみれになって帰ってくると、○○さんは事もなげに「焼いて食べな。」と、目を見張るような肉塊に岩塩まで添えて、どさっと私の前に置いたのである。後にも先にも、私はこれはど豪気豪勢な御馳走にあずかったためしはない。
 厳冬の後に森がざわめいて春が来る。太陽の所在も分からなかった鉛色の空が青空に変わり、すべてが蘇生する。○○さんは先ず楓(かえで)の樹液採取を伝授してくれた。冷たく甘いのだ。若草や木の芽が萌え出すと、これは塩漬け、これはお浸し、これは煮物と事細やかに教えてくれた。二人で森を這いながら、野蒜(のびる)をつまんで食べた時のことが懐かしく思い出される。
 私が大学で学んだことなど何一つ役に立たなかったが、野人のような○○さんが、厳しい生活の中で身につけた実学や行動力は、困苦の中で素晴しい力を発揮したのだ。先年、私は小さな教会の点在する美しい島原半島を旅したが、○○さんを訪ねるすべはなかった。お元気で暮らしておられるだろうか。

タイトル 我が半生
本文  ソ連軍は日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、昭和二十年八月九日旧満州(中国東北部)になだれ込み、日本軍人等六十余万を、すぐ日本に帰すとだましてソ連国内に連行した。シベリアの捕虜収容所での苦しみは飢えと寒さ、過重なノルマ、それに加えて民主運動と言うソ連の権威をかさにきた同胞による重圧が苦しみを倍加させた。民主委員と言う迎合者たちに睨まれたら最後、激しい弾圧と時にはいわれのない重労働を課せられ命さえ失った。特に憲兵警察出身者は「前職者」と称され、罪人扱いだった。仲間たちは次々と死んで行った。生き延びるには自分を殺し民主運動に迎合するしかなかった。夕食後の貴重な休養のひとときは、反動ときめつけられた者への怒号とアジ演説の糾弾の地獄と化するのである。
 ソ連は日本人捕虜の送還は昭和二十五年終了したと発表したが、新中国が誕生すると、毛沢東・スターリン会談によって、日本人戦犯容疑者の中国への移管が合意され、その運命の一千名の中に私の名前が入って居たのである。
 中国東北部撫順市の「戦犯管理所規則」と言う貼り紙のある監房に入れられ、ガチャンと鍵がしまった時、目の前が文字通り真っ暗になったのを今でも忘れる事は出来ない。貧乏くじをひいてしまった、という絶望と自暴的な思いがわいてきた。しかし、翌日から日常の生活が始まってみると、驚くべき事が待っていたのである。ソ連のそれとは全く違う、奇跡と言ってもいい世界がそこにあった。暖かい白米飯と肉、野菜が食い放題、住まいは明るく贅沢にもスチーム暖房さえ通っていた。しかも労働は無し。しかし私達は、なぜこのような暖かい待遇をしてくれるのか理解出来ず、最初の一年程は反抗の連続であった。「殺すなら殺せ、
帰すのなら帰せ」と迫る者もいた。絶望と不安が自暴自棄に走らせたのだ。私は暴れはしなかったが、ただ黙りこくっていた。だが、どんなに反抗しても管理所側から返ってくる言葉は「よく学習しなさい」と言うだけだった、そして教えるものは主として日本の近代史ばかり。三十年後、当時お世話になった女医さんに再会した時「あなたは沈黙の反抗をしましたね。」と言われ、ああよく観察されていたのだな、と赤面する思いがしたものだった。
 歴史上どこの国も経験しない寛大政策を中国が行おうとしていようとは私達は知るよしもなかったのである。取調べ方法も、私達の経験と常識では判断出来ぬ事ばかりだった、自発的に自分の罪を自覚して認め発表するのを待つ、と言うそれだけなのである。拷問も威嚇も全く無い。これは大きな罠ではないかと疑っても見た時期もあったが、この驚嘆すべき温情主義、人道主義はやがて、ねじれきっていた、かつての精悍な兵士たちの心を動かし始めた。中国の人たちに与えた自分の罪がどんなに恐ろしい過ちであったか身にしみて知ったのである。
 この方針が時の総理周恩来の「戦犯の人格を尊重し罵ってはいけない。殴ってはいけない。今彼らに恨みを晴らしたら、その家族がまた中国を恨むだろう。それでは永遠に平和は来ない。我々は怒りを押さえ、気長に間違いを諭し、家族の待つ日本に返すべきである」更に「我々にとっては加害者であるが、彼ら自身は被害者でもある」という、罪を憎んで人を憎まずの崇高な考えから来ている事を後で知り、心の底から感涙した。
 六年たった一九五六年(昭31)中国の人から見れば、八裂きにしても飽きたらない罪をもつ日本戦犯に、特別軍事法廷は「不起訴」という驚くべき寛大な措置を下したのである。太平洋戦争に於けるBC級戦犯死刑者数は九七一名、新中国ではゼロであった。多くの被告は泣いた。命が助かったからではない、中国人民の寛大な処置への感謝と、自分が犯した罪の謝罪の涙だった。私自身、中国の愛国者二人をあの悪名高い七三一部隊へ強制連行したと言う罪をすでに告白していた。
 十五年ぶりの帰国となれば、様々な思いが去来した。命令だったのだから仕方がない、と言う思いは最後まで残ったが、戦争と言うのは組織者、命令者、実行者があって初めて成立するものである。私は憲兵下士官としてその忠実な実行者だったのである。侵略戦争と言うあの枠組みの中で、私の果たした役割とその責任は決して歴史の中から拭い去る事は出来ない。帰国し中年からの再出発は決して平坦な道のりではなかったが、困難に出会った時「死んだお前が何を言うとる!」と誰かがどやす。
 あの戦犯管理所での六年間の体験と感動がその後四十年の歳月を支え続けてくれたと言っても決して過言ではない。この膝の上に孫を抱き、古希と言われる年も越えた今、平和の尊さをしみじみと噛み締めている。最後に大きな声で叫びたい事は二度とやってはいけない、二度と騙されてはいけないと言う事である、そして人生の終焉(しゅうえん)が近づけば近づく程この思いは・[く重くなってゆくであろう。

タイトル 戦後五十年の思いで
本文  昭和十四年十一月中国に出征。以来戦争終結まで中国で。満州(中国東北部)にて集結命令を受ける。
 八月十七日 奉天市(現・藩陽市)北陵大学にて全隊員武装解除命令をソ連軍より受け、武器を持たない兵士となる。陸軍病院の看護婦さんはじめ女性はすべて毛髪を切り男性に変装し、身を守るために必死であった。
 大学内では、不安の毎日であり、戦前日本から農家の方が満州開拓義勇軍に参加され、農場を営んでいた人達も北陵大学に集結せよと命令があり、勇気ある少年兵達は農家の人々の貴重品を地下二メートル~三メートル掘り起こし、その中に埋めるのを手伝ったりしてきた。そのときの貴重品等はどうなっているでしょう?
 八月十八日 千五百人単位で編成された兵士は、黒竜江を渡りソ連領に入り、石炭運搬用の列車に乗り、十五日間かかってチター市経由、炭坑村ボカチャチャー村に九月下旬到着、朝夕肌をさす寒さの中、捕虜収容所へ収容される。四つの角に高い捕虜監視塔があり、バリケードの中の二階建て木造校舎のような収容所での生活が始まった。共産国は「働かざるもの食うべからず」の言葉通り労働は厳しいものだった。
 昭和二十年九月末日 雪がちらつきはじめる。ポカチャチャー村は炭坑と煉瓦工場があり、白樺の大木がある山と山に囲まれた村で、交通の便は悪く、石炭運搬列車と馬そりの二つが交通手段に使用されていた。
 捕虜収容所には千五百人収容され、戦前の軍人階級の差別もなく捕虜は皆同等に扱われた。朝食前に人員点呼があり、朝食は馬の食料と同じ豆かす汁、昼食はあわのおかゆ、夕食はこうりゃんのおかゆと、まずいものであり、栄養失調で日本の土を踏むことなく病死する人が毎日数人あり。
 昭和二十年十月になり、炭坑で働く人と、森林伐採作業につく人とそれぞれ区別され労働作業に従事する。
零下五十度までは、野外の仕事を続け、外気が零下五十度以下になると休養を命ぜられる。外気が零下七十度以下になると眉毛がすぐ凍る。トイレは外にあり完全防寒着を身につけて行き、用便中すぐ凍ってしまう、この様な体験は南極探検隊でも経験できない状態であろうと思う。
 風呂は一か月に一回シャワーだけであり、シラミがわき、体は傷だらけだった。下着についたシラミは外気に当てると寒さで死んだ。
 昭和二十一年~二十二年 栄養失調でシベリアの土となられた方の死体を日本人墓地まで運び、火薬の爆破で穴を開け埋葬してきた。最近墓参りしてこられた方に伺うと、戦死された方の名前が書かれ、きれいに整備されている様子である。
 食糧事情も世界の赤十字団体の呼びかけにより、昭和二十年終りには、パン、ミルク、魚が支給されるようになった。
 昭和二十二年十二月 日本人捕虜百人で、村から五十キロメートル山奥に行き、山林伐採作業に従事した。山奥のため雪が多く食糧がとどかず、日本人は若草の芽を食べ、かえるを食い、キツネの肉を食べ、飢えをしのぎながら、食糧の到着を待ち続けた。
 十日過ぎても到着せず、私は馬二頭雪ぞりに乾草を積んで、十時間の道のりを警備隊長に食糧要請の話合いのため、山を下ろうとしたが、ソ連兵が必ずきつねか熊に襲われ、目的地に到着する事はできないだろうと、従来からの規則を破って、銃弾二百発入りマンドリン銃とピストルを与えてくれた。
 銀世界を走る中、キツネの目がきらきらと光り、五十匹位が追いかけてきた。そのとき乾草を燃やし、キツネを追い払い、また、熊に襲われた時懸命に銃で打ち殺し、目的地に走り続け警備隊長の所に到着。日本人、サムライと勇気づけられ、早速貨物自動車によって食糧が山頂に向かって出発。山頂の日本人は、食糧が届く事によって歓声を上げ、お互いの命を守り続けた。
 山の作業が終わり、炭坑作業になる。頭にも電灯をつけ、トロッコに乗り石炭を運ぶ地下作業が終わると、地上でパン、ミルクを支給され収容所に帰るという日課が続き、夜は雪景色、夜空の星を見ながら日本に帰る希望を抱き続ける兵士ばかり。その間共産主義教育を受けさせられ、突然帰国命令が兵士に伝達され、八月二十二日旅客列車にて、ナホトカ港に集結。日本船、大郁丸が日の丸の旗を上げて停泊している姿を見て、お互いに、日本へ帰れることを抱き合って喜びあった。
 乗船名簿順に、アメリカ軍に指揮され乗船、七百人班別編成後、大郁丸乗船隊艇団長にアメリカ軍から指名され、昭和二十三年十一月二十三日紅葉の美しい舞鶴港に到着、船の汽笛と共に甲板に出て、全員が一斉にバンザイを叫び、うれし涙が止まらなかった。九年ぶりに日本の空気を肌で感じ、三重県から迎えにきた兄と十二年ぶりに対面、暫(しばら)く言葉が出ず、オフクロの作ってくれたおにぎりを差し出され、心は両親に飛んでいた。
 二度と戦争の犠牲になる事のないよう、末代までの平和を祈りつつ戦時中の思い出の一端を記しました。

タイトル 私のあゆんだ戦中、戦後
本文 「入隊から終戦まで」
 戦中は兵役を義務化し、若者達を戦場へと駆り出しました。私も昭和十六年歓呼の声に送られて北満州の七七五部隊に入隊し、厳しい寒さの中、教練と軍人精神注入で扱(しご)かれました。一期の検閲も終り、腫れた顔の写真を家に送ると、よく肥えた顔を見て安心したとの返信でした。通信教育のため学校に派遣されて、その帰途新京(現・長春)の手前で列車の追突事故に通い、死傷百二十名に及ぶ大惨事でしたが、運よく難を逃れました。
 帰隊して司令部付になり通信教育を担当しました。夏は船で、冬は飛行機で各通信所を巡回していました。時々ソ連機やスパイが越境するので緊張していました。
 昭和二十年八月九日ソ連の宣戦布告を受けた関東軍司令部は、本土防衛の為各部隊に対して、吉林へ転進せよと命令し、これにより開拓団や在留邦人が見殺しにされ、何の為の軍隊かと非難の的になりました。国境の守備隊と通信所は、十日朝から砲爆撃を受け、上陸して来た数倍の敵と交戦するも、数時間後全員突入して玉砕したようです。撫遠通信所からの悲壮な電文「テキガキタコレカラゼンイントツニュウスル、ミナサンサヨウナラ」が届いた。
 富錦の木村大隊は陣地に配備し、砲爆撃の中、数十倍の敵と交戦し、肉薄攻撃等により戦車十輌余り破壊し、敵数百名殺傷する戦果を収めたが、我が方も多くの犠牲者を出し、弾薬や食糧も欠乏してきたので、十四日夜陰に乗じて脱出に成功して方正へと転進しました。同江の谷井中隊も方正への転進中、再三賊の襲撃を受けながら大隊と合流しました。木村大隊の善戦のお蔭で後方部隊は無事に終戦を迎えました。通信隊も方正に到着して間もなく、八月十五日終戦の詔書を傍受して敗戦を知り、暗号書や器材を処分しました。数日後の武装解除により、日本軍は崩壊しました。
「異国での抑留生活」
 ソ連の輸送官が来て、日本からの迎えの船が来る迄シベリヤで待つと言われて、百人一組で私が長となり出発しました。収容所に着き清掃をしていると、将棋盤と下駄が出て来ました。所長の話では数年前にノモンハンの捕虜が居たようです。
 十月が来ても帰国の話が出ません、皆が騙されたと騒ぎました。数日後作業場から八人が逃亡しました。筏で海に出る計画が、川が北に流れていたので捕らわれ奥地へ送られました。正月には皆が最後まで携行していた米と小豆でお萩を作りお祝をしました。この時期は食糧事情も最悪で稲のまま食べさせられて、血便をする者もありました。二月は寒さも厳しく栄養失調による死人が出だし、その都度埋葬していました。六月には一斉に草木が芽を出し、これを摘んで鼠や虫と共にスープにして満腹感を味わいました。附近に若い女囚の農場が有って顔を合わすと、パンと交換にと誘惑も受けましたが、空腹では花より団子の例えでした。
 二年目になると日本新聞が発行され民主化運動が始まり、非協力者は反動扱いにされていました。二年目に帰国さすからと、検査を受けましたが、情報通信をしていたからと更に奥地へと送られました。四年目の三月に帰国さすからと貨車に乗りましたが、又騙されるのかと疑いました。半月余りでウラジオに着き、住宅の建築をしました。補強材を使わないので監督に聞くと、地震が皆無との事でした。
 六月末にナホトカに行き、出迎えの信濃丸に乗り、翌朝舞鶴に着き、十年振りに祖国の土を踏み涙が止めどもなく出ました。
「戦友の亡霊を追って」
 舞鶴で帰国の手続きを終えて、引続き駐留軍の強引な取り調べには腹が立ち、敗戦国の惨めさを感じました。京都駅で兄と旧友の百々さんの出迎えを受け再会を喜び合いました。帰宅して仏壇に私の位牌の有るのに驚きました。母が朝夕私の無事を祈ってい
たと聞かされました。又戦死した旧友の仏前にお参りした際、息子の事を思い出してかお母さん達に泣かれて複雑な思いをしました。
 各地の戦友会に参加したが、国境に居た通信隊員の消息については皆無でした。入ソの際軍衣に戦時名簿を縫い込んでいたが、検査で没収されて悔やみました。この上は自分の記憶に拠るしかなく、長年かけて二・\三人を思い出す事が出来ました。その後の遺骨は既に朽ち果てて、亡霊は彷徨(さまよ)い続けているような気がします。
 木村さん達の呼び掛けで、三江省方面での戦没者の慰霊碑を造るための浄財についての連絡を受けました。私もこの機会にと賛同しました。昭和六十三年八月九日高野山の奥の院に念願の慰霊碑が建立されて法要が行われました。その後、碑に過去帳の納められている事を知り、平成六年八月九日五十回忌を節目に島田(旧谷井)さんに隊員二十三柱を過去帳への記帳をお願いし、朝から合祀、法要とご冥福をお祈りしました。これで長年追い続けた亡霊も安眠されたものと思います。私も心残りが無くなり戦後が終った気がします。
 私の二十代の青春は戦争と抑留生活で過しました。どうかこのような悲惨な戦争を再び起さないよう切望します。
 北満(北満州)の荒野に散りし戦友の 御魂が眠る高野の碑
合掌

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