2025(令和7)年度 人権教育管理職研修会 講演記録
演題:「現代的人権教育の課題~『人権教育ガイドライン』によせて~」
講師:森 実(大阪教育大学 名誉教授)
2025(令和7)年5月27日(火)人権教育管理職研修会を行いました。講師に、森 実(もり みのる)さん(大阪教育大学名誉教授)をお迎えし、「現代的人権教育の課題~『人権教育ガイドライン』によせて~」と題してご講演いただきました。
以下、講演記録を報告します。

こんにちは。紹介いただきました森です。
本日は、「人権教育ガイドライン」の内容に関わって、主に2点についてお話します。一つは「内的葛藤論」と繋いで「自己との関わり」について、もう一つが、「人権モデル」についてです。
【Ⅰ.はじめに】
前提として申しあげたいのは、『差別してはいけない』だけを目標とするのは問題だということです。これはさまざまな角度から言えます。国が実施した部落問題に関わる調査によれば、「部落問題を知っている」という人のうち、85%ぐらいは「部落差別は不当な差別だ」と知っていると答えています。つまり、「差別してはいけない」ということは、大抵の人は知っているということです。にもかかわらず、差別が起こっているというのが問題です。「差別はいけない」ということを主な目標にしていると、弊害が発生することがあります。
例えば、ある学生がこんなふうに言っていました。小学校6年生のときに部落問題学習をして、感想を書いた。その感想に、「差別はひどい」という内容を書いて、一番最後に「けれども、部落に生まれなくてよかったなと思ってる自分がいることにも気がつきました」と書いたそうです。それを先生に提出すると、次の日の朝、先生は「朝の会」で「このクラスに部落を差別する人がいます。いいですか、今から読みますから」と言って、その人の作文を読んだそうです。その作文の最後に書かれた「部落に生まれなくてよかったなと思ってる自分がいることにも気がつきました」をさして、「いいですか、これが部落差別です。こんな気持ちを持ってはいけません」と言われました。これはその人にとってインパクトの強い体験で、「部落問題学習のときにそういうことを書いてはいけないんだ」「『差別してはいけないと思いました』で終わればいいんだ」ということを学んだわけです。その後、その人は、人権学習のたびに嘘をつかなくてはならないことになりました。中学生になっても、高校生になっても、その学生にとって、部落問題学習の時間は、嘘をつかなければならない学習になったということです。そして、「こんな学習ならしないほうがいいのに」と思うようになりました。
このようなことから、「差別してはいけない」ということは前提として大事ですが、そこで止まってはいけない。「そこから先にどうするか」ということが今の課題になっています。
現代の人権教育に求められているのは、①「自己との関わりを常に位置づける」ということ。また、②「何が差別かを見抜く力を培う」ということ。そして、③「行動力をはぐくむ」ということです。さらに、知識のアップデートが必要です。10年、20年前の知識や情報に基づいて行動していたら、差別する側にまわってしまいかねません。
【Ⅱ.差別と人権教育をめぐる動向】
差別と人権教育をめぐる動向は、この10年間で大きく変化しています。その一つが、個別的な人権問題についての法律が続々とできているということです。主なものだけでも次のようになります。
2016年
「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律(障害者差別解消推進法)」(施行)
「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律(ヘイトスピーチ解消法)」
「部落差別の解消の推進に関する法律(部落差別解消推進法)」
「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律(教育機会確保法)」
2019年
「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律(アイヌ民族支援法)」
「日本語教育の推進に関する法律(日本語教育推進法)」
「ハンセン病元患者家族に対する補償金の支給等に関する法律(ハンセン病家族補償法)」
2023年
「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律(LGBT理解増進法)」
「こども基本法」
2024年
「困難な問題を抱える女性への支援に関する法律(困難女性支援法)」
これらの法律は、多くの場合、党を超えた議員の連盟(議連)が提案をし、国会を通過して制定されています。文部科学省の担当者からすると、国会があるたびに、その議連の座長等から「あの法律ができて、文部科学省はどんな取組をしていますか」と問われることになります。だからというわけではないでしょうが、文部科学省は個別的な人権問題に取り組むことを大切にしています。このように、個別的な人権問題に取り組むことを抜きに、人権教育はありえないというのが今の文部科学省のスタンスになっています。
2025年、文部科学省では「人権教育アーカイブ」というWebサイトを立ち上げています。「どこの県の、どんな学校がどんなことをやっているか」がたちどころにわかります。主要な人権教育に関係する文書も掲載されています。
国際的な人権をめぐる大きな動きをみましょう。1993年にウィーンで世界人権会議が開かれました。そこで採択されたのがウィーン宣言です。ウィーン宣言の大きな柱は、私なりにいえば、「人権教育の推進」と「国内人権機関をつくる」ということでした。1995年から2004年は国連人権教育の10年でした。
このような動きと連動して、2011年には「人権教育及び研修に関する国連宣言」が出されました。ぜひ、「ヒューライツ大阪」等にアクセスして見てください。この宣言には、人権教育は「人権についての教育」「人権を通じての教育」「人権をめざす教育」の三つから成り立つと書かれています。前文には、「人権としての教育」、教育機会をきちんと保障することが大事と書いてあります。このように、1990年代から現在まで、日本で紹介されてきた人権教育の4側面が、そのまま書いてあるような宣言です。
さらに2011年には、国連から「ビジネスと人権に関する指導原則」が出されました。国連では、2000年から10年ぐらいかけて、いろいろな企業の協力も得ながら、企業がビジネスを進めていく上で、どのように人権を守ることに貢献するべきか、あるいはすることができるかということを議論しました。その成果として、「ビジネスと人権に関する指導原則」という文書が生まれたのです。
この文書の内容は簡単にまとめると次の三つです。一つめは、国家には人権を守る義務があるということです。二つめは、企業には人権を守る責任があるということです。三つめは、国内人権機関の設置や充実が重要だということです。この三つが、指導原則の一番の柱です。日本には残念ながらこの「国内人権機関」がありません。国家には義務があって、企業には責任があるとすれば、学校には何があるのでしょう。人権に関して学校にあるものは何かと言えば、それは「義務」です。公立学校は、国家の末端という面ももっているのです。これは、まわりから言うときは「義務」ですが、本人がやりたいと思っていたら「やりやすい条件ができている」ということになります。
日本政府も動き、2020年から2025年の間、「『ビジネスと人権』に関する行動計画」を策定して、取り組んでいます。「『ビジネスと人権』に関する指導原則」は、「自分の会社の中で差別をしてはいけない、人権侵害をしてはいけない」ということだけではなく、「契約している会社が、きちんと人権を守っているのか」を見ないといけないと言っています。あるいは「契約しているタレントさん、CMに出てもらっているタレントさんが、しっかりした生き方をしてる人なのかどうか」をきちんと見ないといけないということを言っているのです。
さらに日本政府は、2019年に「AI社会原則」を出しました。「AI社会原則」は7つあります。7つあるAI社会原則の一番めは「AIは人間の基本的人権を侵害しない」ということです。これが結構難しいのです。最近では、人権を侵害する方向には成長していかないように歯止めを掛けるプログラムが組み込まれているAIも出てきています。ただ、すべてのAIがそうだというわけではありません。
最後に「持続可能な開発目標」についてですが、このSDGsの根底に「人権」があることは皆さんもご存じの通りと思います。
もう一つ、言っておきたいことがあります。「今の時代は、明治時代に作られた差別をなくすことを使命とする時代である」ということです。1871年に賤民制は廃止されたものの被差別部落は貧困化、72年に戸籍制、75年からスウェーデンの列車事故にかこつけて色覚検査の実施。1895年には台湾の植民地化、1910年には朝鮮半島の植民地化。その間に明治民法の制定。1899年「北海道旧土人保護法」、1907年には「癩予防ニ関スル件」の制定ということで、この時代に差別を促進したり、助長したりする法律等が続々と作られていったのです。これらの法律や制度は廃止されたものの、これらの影響による差別意識や当事者の不利益は現在も残っています。今、それを変えるべき時期に来ているということです。
【Ⅲ.内的葛藤論ってナニ?】
続いて、「自己との関わりというのを抜きに、人権学習・人権教育はありません」というパートに入っていきます。
まずは、内的葛藤論についてお話ししたいと思います。内的葛藤というのは、1950年代にゴードン・オルポートというアメリカ人が、社会心理学の一環で提唱するようになった概念です。「内的葛藤こそが、差別意識を超えていくための手がかりである」とオルポートは書いています。
内的葛藤とは何でしょう。1つ例を挙げます。ある人が、ホテルに予約を入れようと電話をしました。そうすると、ホテルの職員は「予約できる空き部屋があります」と言ってくれたので、予約を完了しました。予約をした人は、黒人の人です。当日、その黒人の人がホテルに行くと、ホテルの職員は「もう部屋がふさがっています」と言いました。この職員の中で、「人種、民族、肌色に関わらず差別をしない」ことがはっきりしていれば、こんなことにはならないはずです。しかし、ホテルの職員は、部屋を貸すのを白人だと思い込んでいる間は「部屋を貸せる」と言っていたのに、黒人とわかったら「貸さない」と言った。これが内的葛藤の例です。他にも、「多くの黒人はだめだ」「中にはいい黒人もいる」という言い方がありますが、こういうことも、「内的葛藤があるから出てくる」と、オルポートは言っています。日本風に言えば、「本音と建前」です。「口では綺麗事を言っているけど、心の中では違うことを思っている」みたいなものです。しかし、オルポートの言う内的葛藤は少し違っています。何が違うかというと、「本音と建前」は、本音はだいたい汚い方の意識をさすと思います。建前というのは、だいたい美しい方をさして使われると思いますが、そうではない。「本音と建前両方とも、それぞれの人にとってはその人自身の心なんだ」というのが、オルポートの発想なのです。
この両方が自分なのだと受けとめて、それから次へ行く必要がある。部落問題学習でも、時折「本音と建前」という枠組みで語られることがあるので、知っていて損はないと思います。「綺麗なことを言っているのと、差別的なことを言っている両方ともがその人なんだ」と受けとめた方が次の取組が見えてくるのです。「本音と建前」という枠組みで考えると、「だいたい人間は汚いものだ」という前提になりますが、これでは次の取組が見えてきません。「両方ともが自分だ、両方ともがその人だ」ということで、考えを深めていきましょう。
ここからは、そういう「差別問題に関わる葛藤」とこの内的葛藤を繋いで、「自分自身に発生するような葛藤」の話を進めます。
わたしは小学校6年生のころ、おねしょをするとか、運動が苦手とか、親を否定的に見るなどで、悶々としている状態でした。小学校5~6年生の頃はクラスの中でひどいいじめがあって、そのひどいいじめに2列めから加担をするという子どもでした。これも自分を責める要因の一つになりました。おねしょするなどは自然に解消します。一方で、それら以外の葛藤は、解決しません。例えば「人の顔色をうかがって八方美人になって暮らしている」というふうに自分の性格を毛嫌いしました。これらの解決しない葛藤は心の底にしまいこんで暮らすようになります。そのままでいると、自分自身あまりそう気づかなくなっていることがあるのです。わたしの場合は、大学に入ったときにこういう感じでした。(下記スライド参照)

【Ⅳ.内的葛藤論にたった人権教育のすすめかた】
内的葛藤論に立った学習をするとどうなるのか。今の世の中にはヘイトスピーチをしたり、それを煽ったりするような人たちがいます。2019年の国が実施した意識調査によると、2.2%の人が「部落差別は不当な差別ではない」と答えています。この人たちはヘイトスピーチをする候補ですよね。それから10.8%は「不当な差別かどうかわからない」と答えています。だから2.2%、10.8%、合わせて13%ぐらいの人は、ヘイトスピーチをするか、ヘイトスピーチを見たら、「もっとやれ」と煽るか、という人たちです。それ以外の人は先ほど言ったように「部落差別は不当な差別である」と思っているのです。ところが「部落差別に関心がある」と答えている人は20%ぐらいなんです。どういう関心かを抜きにして、一応前向きな関心だとすると、13%プラス20%ですから33%ぐらい。3分の1は、一応プラスマイナス両方含めて「関心がある」ということです。残り3分の2は「差別はいけないと思うが関心がない」という人なんです。無関心差別とはそういう人たちのことをさしています。言い方を変えると、「わたしは差別しないから関係ない」と思っている層です。そういう意識に対してうまく働きかけるかどうかが、「自己との関わり」を見出せるかどうかの分かれめだということです。その際のポイントが内的葛藤です。一方では「わたしは差別しないから関係ない」、けれども、そう思っている人はもう一方でどう思っているのかというと「部落問題については、あまり近づかない方がよい」と思っているわけです。そういう人たちが、人権学習で最初に出会うのは差別の現実を学ぶということです。
例えば、結婚差別に関わる事例を学生たちが聞くと「ひどい差別や」と思うけれども、その一方で「そんな状況になるんやったら、被差別部落につながる人とは結婚しない方がいいかもしれない」と思ってしまうことがあります。差別の現実を学ぶことは、「差別してはいけない」という気持ちと、「差別してしまいそうになる」という、気持ちの両方を強めます。「被差別部落出身じゃなくてよかった」や「被差別部落出身の人には近づかない方がいい」「先生は、何かしなさいと言っているけど、わたしたちにそんなことできない。クラブで忙しいし、わたしたちの本分は勉強、高校進学もある」等と思ってしまったりするわけです。これをどうすればよいのかと考えつつも、こういうときに人が逃げ込むのは次の3つです。
被差別者責任論。この場合で言えば「被差別部落につながる人が悪いからこんな差別があるんだ」ということです。「被差別部落につながる人がもっときちんとしていたら、こんな差別がなくなるのに」という考えです。
それから逆差別論。「被差別部落につながる人は、自分たちだけがよかったらよいと思って、同和対策事業等を通して、たくさんよい思いをしている」というような話です。
それから3つめ、取組否定です。「差別をなくそうと思っていろいろ言うのをやめた方がいい」という言い方です。「寝た子を起こすな論」もこの1つです。

この3つは部落差別だけではなく、他のさまざまな差別でも同じです。女性差別や障がい者差別に関わって、立ち上がった被害者に向けられたメッセージの内容は、ほとんど「あなたたちに責任がある」「自分たちだけよかったらいいと思うな」「取り組み反対。声あげるな。黙っとれ」というこの3つです。私はこれらを「怖い」「ずるい」「黙れ」と短くまとめています。端的に言えばこの3つが、今の差別問題を考えるときのポイントです。「怖い」というのは、部落差別の場に出やすいですが、これを「悪い」と言い換えて「悪い」「ずるい」「黙れ」の3つと考えると、およそどの差別でもこの3つです。
これら3つを自分の中に意識化させた後、自己との関わりを見出すことや行動力を身につけることに進んでいきます。自分にも、差別されているような面があることを振り返ったり、特別措置の必要性や、ユニバーサルデザインの考え方を理解したり、アライ、連帯者として行動したりするように意識を発展させていくことが大切です。
●内的葛藤論にたった人権教育のすすめかた
(Step 1 ◆心をあたためあう)
内的葛藤論に立ってどのような順番で進めるとよいか、に入ります。
ステップ1として、最初にやるべきは、心を温め合うことです。冷え切った状態にあると、「いじめをなくそう」「差別をなくそう」等と思いにくいです。むしろ、ストレス解消のために「いじめてやろう」「差別に加担しよう」という気持ちが出てきやすいかもしれません。その状態を脱していくために、プラスのメッセージをお互いに出し合い、受けとめ合うことで、心の温度が上がっていきます。ある人はこれを、「絶対零度だったのがだんだん上がっていく」というふうに言います。小学校1年生で10度上がり、2年生20度上がり、3年生で30度上がりというふうにして、中学校を卒業するぐらいにようやく0度になったとします。マイナス170度から160度になっても、氷であることは変わらないですがマイナス10度から0度、あるいは、プラスになったときには氷は溶けるんです。
例えば中学校3年の担任の取組を通じて、ある子がすてきな笑顔を見せるようになったとします。それには、多くの場合、小学校1年、あるいはそれ以前の、家とか幼稚園、保育所からの関わりがあって、今ようやくその子は、0度を迎えることができたのだ、と考える方がいいかもしれません。氷が溶けて0度になることを願いつつ、取り組むというのがステップ1です。
(Step 2 ◆内的葛藤を強める)
ステップ2は、「内的葛藤を強める」ことです。先ほど言いましたように、人権問題に関わる葛藤を強めるために、我々が差別の現実を伝え、「差別に中立はない」「差別と闘うか、差別を許すか、このどっちかなのだ」と立場性を問い掛けます。さらに、被害性と加害性の両面から、自分をとらえ直し、自分の内面を丁寧に見つめるようアプローチしていきます。
(Step 3 ◆疑問に答える)
内的葛藤は大きくなったり小さくなったりします。授業中は葛藤は大きくなるんです。でも授業が終わるとしぼんでいくんです。なかったかのようになるんですね。膨らんだり小さくなったりを繰り返すのですけれど、何回か部落問題学習等を繰り返すと、心の中に残るんです。こういうときに、よく出てくるのは「そっとしておけばよいのに、先生がわざわざ教えるから、わたしの中にこんなに不純な気持ちがわいてきた」ということです。そこで、「そっとしておけばよいのに」とか、「特別措置は逆差別だ」とか、「取り組み方に疑問がある、あんなこと言うからいけないのだ」ということに答える必要が出てきます。差別の現実を聞いて学んで、葛藤が大きくなった。そういうときにしがみつきやすいのは、この三つですから、これについて答えることが必要になります。このことを学習して、ようやく部落問題でも在日外国人問題でも障がい者問題でも、素直に向き合えるようになるんです。素直に向き合えるというのは、自分の心の中を見つめるスタンスができる、ということです。
(Step 4 ◆葛藤をつないでいく)
次のステップは、葛藤と葛藤をつないでいくことです。ここで再び、部落問題や、在日外国人問題、障がい者問題についての葛藤と、自分自身の人生の中で重要だった葛藤とをつなぐことが出てきます。「自分自身にとって重要な葛藤と、人権問題についての葛藤が結びついたとき、心の根っこのスイッチが入る」と言う人もいます。
私とほぼ同い年で、識字学級に通っていた人がいます。父親は、子どもの彼に対して「今日は一緒に仕事に来い」と言って、仕事に連れていった。彼は学校が好きで、いろいろ勉強したかったそうです。ところが、親が「仕事を手伝え」というので、だんだん学校に行けなくなります。たまに行けても、みんなは勉強をわかっているけど、自分はわからない。だから、荒れます。近くの子にちょっかいを出したり、先生にたてついたりするようになっていきます。そうすると、みんなから疎んじられるようになる、それで余計に荒れる、というふうになっていったそうです。
(Step 5 ◆心の扉を開けて……)
その彼がおとなになって、識字学級に行き、部落問題学習をして、いかにこの地域が仕事のない、安定した仕事を得にくい地域であったかというのを学びました。そんな中で、地域の人たちが編み出したのが、彼も手伝った地域産業なのだということを知り、その仕事をしながら親が自分を育ててくれたということを知るようになって、「親をかわいいなと思うようになった」と言っていました。
それを聞き、わたしも自分を振り返りました。「なぜ自分は、両親を、あんなに嫌がってたんだろう」というので、これは歴史をたどる必要があるということで、家の中を探しました。親が残しているものはないかと、タンスというタンスを開けて調べましたら、いろいろ出てきました。
そんなふうにして、人は自分の意識をとらえ直すのです。そうすると、以前にも増して自分の暮らしや生い立ちを丁寧に見つめ始めて、それを交流して、お互いに鍛え合って成長していきます。これが内的葛藤論を土台に据えた人権学習というものです。
【Ⅴ.差別をとらえる3つのモデル】
ここからは、「差別をとらえる3つのモデル」についてです。
国連は今、障がいをめぐって4つのモデルがあると言っています(下記スライド参照)。医療モデル、慈善モデル、社会モデル、人権モデルです。これまでは、医療モデル(個人モデル)と社会モデルを対比して説明することが多かったです。要するに、医療モデルは、「障がい」はその人の側にあり、その人が機能訓練や治療等をして社会に入っていけるようにするべきだという考え方です。それに対して、社会モデルは、「障がい」は社会が発生させているもので、社会の側にあるという考え方です。そのため、「社会の側は、その人たちが十分社会参加できるようにバリアをなくすべきだ」という考え方が社会モデルです。これらのことについて、国連では「障害者の権利に関する条約」(以下、「障害者権利条約」)をつくる際に議論を重ねて明確にしてきたのですが、その議論の中で、社会モデルでは不十分だということがはっきりしてきました。そして今、国連が提唱しているのが、4番めの人権モデルです。人権モデルとは「障がい者にも、すべての人と同じように『人権』があって、それを保障するのが国の責務だ」という考え方です。

人権モデルと社会モデルを比較して説明します。社会モデルは「不利益状態の原因は社会のバリアにある」という考え方です。例えば、駅のホームまで上がるのに階段しかないという状態だったとします。それでは車椅子ユーザーは上に上がれません。それは、駅の側あるいは社会の側が、障がいがあるないにかかわらず上がれるようなツールを用意していないからです。社会モデルの中心テーマは、そのバリアを取り除くことです。それに対して、人権モデルはさらに、まず「不利益状況の原因や責任は社会にある」ということが加わります。また、その状況の問題について知るための「被差別当事者の自己主張を尊重することが重要」ということも加わります。このことは、国連で先ほどの条約をつくっているときの、「Nothing about us without us」というスローガンに象徴されます。障がいのある人の思いを聞き、それを反映させるところから人権保障が始まるということです。そして、「保障すべき水準は、条約や法律に書いてある中身」だということも加わります。そうすると、「障害者権利条約」に、「移動権」はすべての人にあることが書いてあるので、「移動権を保障するため、エレベーターが必要なんだ」ということになります。さらに「国や自治体は、ガイドラインを定める責任がある」「4年に1度は、国連に政府は報告する義務がある」ということも「障害者権利条約」に書かれていることですから、人権モデルに立つということは、こういうこともしなければならないということを意味しています。
以上は障がいに関するモデルのことですが、それをさまざまな人権問題について適用したらどうでしょう。自己責任モデル、慈善モデル、人権モデルがあるというのがここでの話です(下記スライド参照)。慈善モデルは、国連の4種類のモデルの中に既に入っていました。自己責任モデルは、先ほどの医療モデルと同じようなものです。「不利益状況の原因や責任は個人にあるのだから、本人の努力が重要だ」という主張です。この考えでいると、障がい者問題の場合で言えば、分離教育に進みやすくなります。それに対して、人権モデルというのは「不利益状況の原因や責任は社会にある」という考え方です。さらに、「被差別当事者の自己主張を尊重することが重要」「保障すべき人権の水準は条約や法律」というのも、人権モデルだということです。これはすべての人権問題、例えば女性や外国人の人権に係る問題等でも同じだということです。ちなみに、外国人に関する「国際人権規約」という条約は、内外人平等、すなわち、日本で言えば「日本国籍を持っていようが持っていまいが、保障されるべき人権に違いはない」という考え方に基づいてつくられています。そのため、外国人差別の問題でも、人権モデルというのは十分存在しうるし、存在しなければならないということです。

ここまでお話したとき、人権教育における仲間づくり(下記スライド参照)は、仲良くなるということよりは、「それぞれが直面している課題を解決するために人権モデルの観点に立って社会に発信するための取組」と言ったほうがよいと思います。
ここで、予定の時刻になりましたので、終わります。
どうもありがとうございました。
