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三重のふるさと

渋谷文枝氏

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最初に

 

皆さんこんにちは、仙台から昨日朝の6時半に出まして、着いたのが昼過ぎでした。結構遠いなと思って来ました。本当に暖かくて、海が見渡せて山と山の間に住む私にとっては、素敵な所だなと思いました。それでも、今朝ちょっと雪が降っていましたから、こんなに積もる事はないと、おっしゃるので、これでやっぱり寒いのかなと思っています。私にとっては、すごく今日は暖かいという感じです。今そうですね、出てくる時は50㎝から70㎝くらいの雪が積もっておりまして、雪があるのがあたり前という土地柄でございます。

地域のこと

山形県、宮城県と申しましても、仙台とか石巻とかそれから塩釜とかは、ほとんど雪が降らないのですけども、家の方は、山形県と秋田県の方にくっついた所にございますので、豪雪地帯と言われていまして、最後まで、スパイクタイヤが許された所です。ですから、3月末までは雪がありますし、早い時には、11月半ば頃から雪が降りますので、1年間の半分ぐらいが雪だということで、前は、出稼ぎの多い地域でありまして、冬になると男達は、皆いなくなるということでございました。私の所まで来たら、後は道路が山形県まで続いていかないのです。もう雪で閉ざされますので、そこでストップという所で、他所からお客様が来るという事がほとんどない所ですから、ですから隣の家に見たことがない車があって、知らない人が来ていた、あの人はどこで何のために来ているのだという詮索がなにしろ、お茶飲み話の一番のお茶菓子でございまして、だから今考えますと、今はほんとに色んな人達が色んな所からおいでになって賑やかになりましたけれども、あのころ今から10年ぐらい前までは、ちょっと今の生活は考えられなかったなあというふうに思っています。今そうですね、8千3百人の人口の所に、今から20年前は、1万2千人いたのですけれども、色々若い人達が、出て行ってしまいまして、8千3百人まで減ってしまいまして、過疎地域指定ということになっています。そしてここのところに、今、65万人ぐらいのお客様が入ってくるようになりました。

グリーンツーリズムの取り組みのはじまり

65万人というと私達はすごい人だなと思っていましたけれども、それは、1億ふるさと創生の時にお金を国からいただきまして、町が温泉を掘り当てました。それで、そこの所で温泉お客様にお土産を持って行って頂こうということで、何をお土産に持って行って頂いたらいいかという時に、何も私たちは持って行って貰う物がないか・轣Aせめても野菜を持って行って貰おうということになりまして、自分達が作った野菜を売りたいと、そういう話が出まして、それで130人ばかりそのとき女性が集まったのですが、それで、自分達の土地から取れた物を売り始めました。私たちが土産(どさん)センターと呼んでいますが、その土産センターにその野菜を置き始めて、売り始めました。それが、すごく評判を呼びまして、今はだいたい年に2億くらいの売り上げを出す様になって、女性達の転機になりました。転機になったということは、家の方は、どこも同じかもしれませんが、ほとんどその男の人達の政権なのですね。女達が出しゃばるなんていうことは、ほんとにとんでもないことだった地域だったのですけれども。そういうことで、あまりにもその地域が動かない、町長が、これではどうにもならないから、何とかしようということで、若い後継者を海外に出してやろうという事になったのです。
昭和63年頃から始まりましたね、それで若い後継者達、だいたい5人から10人位でアメリカにやったり、ヨーロッパにやったり、5年間続きました。それで、少しでも何か動いたらいいかなと思ってやっていたのですけども、残念ながら5年間に全然動きがみられませんでした。というのは、男の人達は、ヨーロッパやアメリカに行ってがっかりして帰ってくるのですよ。あんなにスケールの大きい酪農と俺たちは、太刀打ちできない、と言ってもう意気消沈して帰ってきたのですよね。何にも役にたたないわけですよ。それで、町長は業を煮やしまして、翌年度に今度は、男ばかりでなく、女達もやらしてみては何か変わるのではないか?と思われたそうです。若い母ちゃん達でもやってみてと言いましたけれども、なかなか若い母ちゃんというのは、子供を育てるのに忙しいので、結局行ったのは、30代から40代後半の女の人達、だいたい2年続けてやりましたので、25人くらいですね。その人達が帰って来てからです、その動きが始まったのは。

母ちゃん達の力

母ちゃん達がどういうふうに見てきたかというと、ヨーロッパに行ってどこでも窓に花を飾っていますよね。ああいう暮らしを私達は、できないものかなっていうふうに思って帰ってきました。窓に花を飾る、家に花を飾る。それだけでも嬉しくなってしまうから。ああいう暮らしをやりたい。やってみよう、私達もやってみたいね、って言って帰って来ていざやり始めましたら今度はお金がないのですよね。自分達で勝手に判断できるお金がない。お金がないことをどうしよう、私たちは何をどういうふうにやったら自分がその自分の決済でできるお金を使えるのだろう。ということでさっきの土産センターに結びついていったのです。
土産センターのメンバーもすべて女ということになっていまして、それで全部女達の貯金通帳を用意したのですね。今まで貯金通帳っていうのは、一家の大黒柱のおじいさんか自分の連れ合いのものでしかなかったものが、自分名義の通帳ができてきてから、100円でも300円でも全部自分の通帳に入るのですね。それがとっても嬉しくなって、女達はだんだん元気になってきました。勿論、肥料代だとか農薬代だとか、それは全部父ちゃんの口座から取られますので、収入だけが母ちゃんの口座に入るわけです。だからほんとにわずかな売り上げですけど、どんどん現金になりまして貯まってくるのですよね。1年、2年、3年ってなると。それでそれをちょっと垣間見た父ちゃん達が、母ちゃんちょっと融資してくれないか、とか貸してくれないかとかというような話がそれぞれの家の中で出てきたって言う話を聞いていました。
そうすると父ちゃん達も母ちゃんに手伝わなきゃなりませんので、父ちゃん達もその野菜を運ぶようになったのです。まあそうですね、ほとんど15万ぐらいの野菜の売り上げをみんな持っています。サラリーマンの人からみれば、たいした額じゃないじゃないと言われるかもしれませんけども、農家の女達が、自分の財布をまかせられるって、家の女達が自分の小遣いとして、自分で10万とか15万を作るっていうのは、すごく嬉しいことだったのですね。
そうしますと女達は欲が深いもので、それだけでやるともう飽きたらないですよ。お金を儲けたらその次に私は何をやりたいのか、次々に欲望がぐんぐん出てくるのですね。それで、ああいう事を勉強したい、こういう事を勉強したい、仙台にはああいうものがあるそうだ、是非行ってみたいそういうものが随分出てきまして、町長もえらかったと思うのですけども、女達が、町長さんこういう所に行きたい、あれを見たい、あの先生の話を聞きたい、直接もう、町長さんの所に行くのですよ。そうすると町長さんは、いくらでも勉強して来いと言って、大した財政もないのにね、女達の動きをほんとにバックアップしてくれました。ほんとにそれから町は変わってきましてね、女達は、すごく元気になったのです。女達も元気になると、男達も元気になりますね。男達が元気になって女達が元気になるっていうのは、ちょっと聞いた事がないですけども、女達が元気になれば、男達も元気になるのです。
そんな中で、お客さんがたくさん来るのだから、私達が料理して食べさせたら、どうなるかね、あるいは、来たお客さんが、ここで食べられる料理は何ですか?と、聞かれるようになったのです。それで25人のヨーロッパに行った女の人達が中心になって、そしたら班を作って班ごとに料理を出してみたらいいじゃないだろうかという話ができました。おもしろそうだからやりましょうということで、1週間交代で、今日は東の地区、その次の週は、西の地区というような感じでだいたい5つの地区に分けまして、それで始まりました。1食千円でした。1食千円でその地区の人達が、最も得意とする料理というもので、餅膳があったり、それからおこわのお膳があっったり、白いご飯もあったりして。ずーと3ヶ月程続けたのです、そしたら町から来る人達が、これがいつでも食べられたらねーという話がありましたけれども、なにしろ農作業もしなきゃならないし、いろいろ忙しい時だったので、だんだんと尻切れトンボになるようになったのですね。これ続けてみる人いませんか?と、言われたときに手をあげたのが私だったのです。私、あまり料理は好きじゃなかったですけれども、私のグループの人達は料理がとても好きな人達ばかりだったので、じゃ私がやってみるわ、ということで、手をあげました。

農家レストラン「ふみえはらはん」

 

私の生まれた家は180年程過ぎておりまして、この家で、私の母が脳梗塞で倒れまして。ここの家で暮らすのが、大変になりました。私が背中に負って、トイレに行ったり、お風呂に行ったりしたわけですけども、とても大変になりまして。それで、母が自分でもトイレでもお風呂でも行ける様な小さな家を建てましたものですから、この古民家が空くようになりました。ちょっと一見立派に見えますけども、ここは、洪水の常習地帯でして、そうですね、戸をしっかり閉めても上の方はきちんと閉まっていても、下の方は十何㎝かいつでも斜めにほっそりしか閉まらないのです。それで、これを直そうかなと思ったのですけれども、大工さんに、これを直すのだったらば、建てる以上にかかるからやめたほうがいいって言われたので、このまま使いましょう、ということでなったのですけども。そして直したのが、ここの部分です。(写真を示して。)ここは、牛小屋だったのですね。ここの牛小屋を台所に改造して、飲食店営業というものをとったのです。別に飲食店営業をやろうとも思っていたわけではなくて、私達の世代が歳をとっていく、そして私達の前の世代が、こういう古い家から普通の新しい家になって、遊びに行くところがなくなってしまったのです。普段だったらば、ここが縁側になっていまして、いつでも開けっ放しになっていて、年寄り達がいつでもそこに腰掛けてお茶を飲めました。どこの家に行ってもお茶が飲めました。ところが、こういう家じゃなくて新しい家になりましてから、用がなければ行けなくなったのですよね。そうすると若い嫁さんでも、「お婆ちゃん、お婆ちゃん達を呼ばないでね」とか言われるようになったという話も聞いて、年寄りだけっていうのは、みんなに、歓迎されないのかな、悲しいものだなと思って、私達もすぐそういう時代が来るよという話で、そうならば、自分達の遊び場というのは、自分で確保しておかなければいけないなというのが、私達の世代の私達の地区の話だったのです。それで丁度我が家の古民家が空いていたということもあって、ここをいつでも、気兼ねなくみんなで集まれる様な場所にしておこう、という話になったのですね。それで、改装の時、やはり力仕事や何は、女の人達じゃなくて、父ちゃん達ですよ。ここの中の煤を払ったり、それから余計な物をとってくれたりしてくれたのは、父ちゃん達だったのです。農家の男の人達というのは、非常に力があって、大工仕事関係のセメント、電気工事そんなのを朝晩みんな暇な時に集まって、朝晩手伝ってくれてここができたのです。だから本当に材料費だけでここはできました。だから手伝ってくれた人達で、ここの家は自分の家だと思っている人達がたくさんいらっしゃいます。
それでその人達が今度、俺が直した家があるから遊びに来いというふうにそれぞれに、口をかけてくれたのですね。なんぼ農家の父ちゃん達といっても農業ばかりやっているのではなくて、昼はちゃんと働きに行って、会社に行ったり、色んな仕事をやったりしていますので、仕事関係の人達とか、その人の友達を順繰り連れて来てくださる様になったのです。そしてその人達に料理をお出ししているうちに、いつのまにか農家レストランという名前をいただいたのですけども、料理を作っているのは、私が住む原班地区の母ちゃん達と私で、「ふみえはらはん」という名前をつけました。そしてお出ししているのは、何にも目新しいものではなくて、漬け物だとか、おみおつけだとか普段食べている物が多いのですけれども、町から歩きに来た人達は、こういう物がやはり食べたいのだと言うのですね。男の人達は魚だの肉だのなければ、そんなの料理ではない、と言うのだけれども、女の人達若い人達は、別にそんなのなくたっていいと、レストランで出される料理とか、それからスーパーで売っている菜っ葉でない、自分達で食べている菜っ葉だとか、縮こまった大根だとか、それはそれなりにやっぱり食べ方があって、うまく食べられるのが、農家の強みじゃないかと思うのだけれども、そういう物を利用して、お出しすると本当に喜ばれるのだなということが分かったのです。
それで面白いのは、春になると野菜がなくなるのですね。3月末、雪どけがあった時には、大根の残った青葉だとか、それからほんとにわずかな、青い葉しかない。そのとき今度は野草が、先に出てきますよね。あの草の4分の3が食べられるのですよね。ほとんど食べられます。だから春は、鳥達がつっついているから私は食べられるかなと思ってそれを天ぷらにしたり、お浸しにしたりしてあげると、珍しいですね、とすごく感激して食べていただけるのですけれども、だから田んぼにある畦畔が私の野菜をとる場所なのですね。あそこに行くとなんでも取れます。これは、男の人達では、無理かもしれませんけれども、女の人達だったらば、分かり合えると思います。
だからそういう物も使える。それから勿論その残っていた大根や葉っぱも使える、勿論味噌や漬け物なんかは、貯蔵してある、だから素材がなくてお客様に出せないということは、ほとんどないわけです。一番の強いところですね。それとご飯とお味噌汁はありますので、ご飯は、さっき申し上げました様に洪水常習地帯で、すごくお米の味がいいのですよ。それからお味噌っていうものは、やっぱりその地域の味で、(店で)販売している物は、お味噌に熱を加えているので、その酵母が死んでいるから香りがないのですけども、自分の家で作ったお味噌は酵母が生きているので、すごく香りがあるのですよね。日本のいろんなお味噌をごちそうになりましたけれども、やはりその地区の味の香りだなと思います。だからそれは、その地区の売りなのだなと思います。

 

そういうものが喜ばれて、レストランというものを続けているのですが、冬場休みで1月から3月まで冬休みに入りますが、だいたい3000人ぐらいおいでになっています。だいたい単価が、2千円から2千5百円位で、ほとんど野菜です。ただお肉は、私の所で合鴨の方で米を作っていますので、その合鴨が、だいたい3百羽からいるのです。その3百羽を秋には、蒸して、お出ししています。タンパク質は、だいたいそのくらいとそれから鶏を育てていますので、鶏の卵と肉ぐらい、後、近頃はドジョウとかタニシとかも取れるようになってきましたので、そのドジョウも料理には出ます。後はほとんど野菜。それだけで、やっています。
これが家の看板です。「ふみえはらはん 饗の厨」になっています。おもてなしの台所という意味だと友達が、書いてくれて、持ってきて貼ってくれました。家でリンゴも作っていましてね、こういうスタイルでその土産センターに出しています。そしてこの帽子を裏に番号を付けた帽子をかぶって出荷しに行きます。これが、「ふみえはらはん」を後ろから見たところです。この手前に見えるオブジェ、これはですね、私の同級生が、県の芸術祭参加作品だからと置いていきました。これで芸術作品だそうです。

 

これは、家の中です。玄関ですね。どこを皆さん取ってくれたかというと、ここの所に天井があったのですけど、この天井が邪魔だからって言って、全部取ってくれて、それであの明かりは、桑かごがあったので、桑かごにライトを入れた照明です。これなんかも全部その男の人達がやってくれた作品ですね。
ここで3部屋を使っています。食べ物はお漬け物だとか、小豆のお汁粉だとか、かぼちゃのなんとか、見た目はあんまり良くないです。見た目はいいことなくても、身体にいいから、ということで食べていただいているのですけれど。私全然メニューがないのですね、365日毎日その日にあるものが多いです。だから何を出したか、ちょっと覚えてないです。でもメニューがないっていうのは、普通の農家の主婦だったら、お分かりですよね。同じ素材でも、なんか別の手法でやっていますので、手法だなんておこがましいのですが、まあ自分のお家の食事に二つくらい足したぐらいの感覚でやっています。それが一番無理なく続けられるのですね。当初、メニューは何ですか?と聞かれましたけれども、近頃、メニューは?って、聞く人はいなくなりました。これは、鴨鍋です。これはお汁粉ですよね、小豆も一杯取れますから、小豆をお汁粉にして、それから、後は小豆煮にして、ご飯の上に乗せて食べていただいています。

農家民宿「おりざの森」

 

古い家に食事にみえた方が、古い家でもこういう家だったら泊まりたいと言うようになり、それを受けて民宿をやってみようかなと思いました。町役場でも支援するということで、民宿をやることの足がかりになったのですけれども。(民宿の写真を示して)これちょっと一見新しいようですけども、だいたい120年ほどたっているものを移築してきたのですが、これを今娘が責任者としてやっています。私、2人娘がいて、1人息子がいるのですけれども、末娘がこれをやりたいと言い始めましたものですから、私の代で農家が終わるかなと思っていましたが、娘が、「母ちゃんが、近頃にこにこして、元気がいいから。その前に、忙しい、忙しいってゆとりがなかった母ちゃんが、近頃は笑って話して、仕事している。そういうふうになったら私も家にいたいなーと思うから、私にさせて。」という話が出まして、嬉しくなりまして、かなり借金しながら、「おりざの森」をやり始めたのです。こちらは、中は土壁を白壁に代えまして、明るくなりましたし、古い家ではそのままですけど、昔の古い農家とここと違う所は、高断熱高気密という今の手法を取り入れまして、床の下に1m20ばかりの空気の層をはめ込む層を作って、循環するようにやって下さったものですから、ずっとここは、18度から20度の間で温度が、変化していまして、とても暖かく過ごせる様になっています。
それで、ここに泊まりに来られるお客様は、何しに来られるかっていうと、何もしないで来られる、多分この後体験のお話があると思いますけども、家においでになる方は、ほとんど体験なしのお客様です。何もしないで、とにかくじっーとしていたいというお客様が、ほとんどですね。役場のほうでも体験というものを用意したらいいのではないかといわれまして、色々用意しましたけれども、別に体験したいという人は、来ないです。とにかくじっとしていたい、のんびりしていたい。鶏の声を聞いていたい、そんな所なのです。始めたばかりの時は、1人で一晩泊まってお帰りになるという人達が多かったですけれども、近頃は2泊、3泊ですね、今年は、7泊という方が2組いらっしゃいました。何をしているかというと、何もしていないですよ。ほんとに疲れているのかなーというふうに思うのですが、まだまだ日本人の休暇の過ごし方というのは熟してないのかなと思うのですけども、とにかくじっとして、山を眺めていたい、田んぼを眺めていたい、それだけです。だから、まだ、私の所では、体験まで考えたことは、ないかなというふうに思います。ただ役場の方で、近頃総合学習の一環として、子供達も受け入れるようになりまして、子供達もその学習で田植えだとかそれから草取りだとか、牛の世話だとか、そういうものをさせて欲しいという子には、やっておりますけれども、ここに泊まりにくるお客様は、ただ本当にじっとしていらっしゃいます。ここの周りは、ほとんど田んぼなんです。何もないです。田んぼと後ろに大きな川があるだけで、ほとんど緑の田んぼで減反している田んぼもほとんどありませんので、ほんとに見事な田んぼだけです。何もない田んぼだけ、そこの中にこれが、ぽこんとあるだけですけれども。だからまるきり観光と感じが違うかと思います。何のためにここに来るのかなと思いますけれども、自分でもこんな所にお客さん来るのだろうか?というような半信半疑でやってましたれども、今の観光に飽き足らなくなった人達が、別の接点を求めておいでになるというような。いろんな話を聞いて、いろんな土地の食べ物を食べて、ゆっくりしたいということで、もう、リピーターが随分増えまして、あの時期にあの人が来るね、ということが3年目、4年目で分かる様になってきています。それで、人に会いに来ているのかなというふうにも思いますね。食べ物は、よそ様と違ったものを出しているわけではないですから、お話をしたいということが、私の所では強いようです。それから、私と一緒にここのおりざの森と一緒に立ち上げた人がもう1軒ありまして、そこの人にも話を聞きましたけれども、彼女の所でも「魚をつかむ(体験)」くらいはしたいなーということで、それでもやっぱり、何もしないで、ゆっくりしたいって言って、のんびりしているとゆうことです。

最後に

グリーンツーリズムというように、思い切り、こう肩肘張って何もやることがなくって、私の思いは、自分の生活をもう少し楽しむために、よその人を受け入れるというような感覚でいいのではないかと思います。何かこうレストランだとか民宿だとかすると、すごい仕事をしたような気になりますけれど、決してそれはたいした事ではなくて、自分ができる事をほんのわずか一つやる、自分が持っているものを一つだけ席を分けてやる、つまり大きな家をお持ちでしたらお部屋を一つあけてお客さんをお泊めする、あるいは、自分の土地が一杯あるのだったらば、その畑を貸して、別の人に貸してあげて楽しんでもらう。そういう空間が、農家であれば何か一つあるのではないかなと思います。だからそこの一つの席を隣の人に貸してあげるくらいの気持ちでもって人を受け入れたり、それからご飯でも食べさせてあげたりすると、別の風が吹いてくるのですね、色んな新しい風が吹いてきて、そしてその風が自分に色々教えてくれるということがあるのです。農業ばかりやっていると、つい足元ばかり見て面白くないな、というような考えがすごくしていましたけれども、その人達と話す事によって、とっても楽しい事が増えてきました。
ですから農家レストランをするのは、すごく楽です。一坪ぐらいの台所さえあれば十分それで、営業許可がとれますし、それからちょっと難しいのは、農家民宿ですけれども、それは、それぞれの県のやり方がありまして、その方はかなり面倒だったです。一部屋ごとに、一つのトイレとかお風呂とかつけなさい、ということで、そこをクリアするのに随分余計なお金をかけてしまったのですけれども、今は安心院方式などがありまして、楽にクリアする部分が生まれてきました。ですから、やりたい方は、自分ができる所から、始められたらいいのではないかと思っています。
私達の宮城県では、一坪の台所からレストランができる、食べていただける所は、外でも軒下でもどこでもいいというので、それなら出来るという母ちゃん達が、だいたい今40人ばかり農家レストランというものを始めています。彼女らと話をするのですけども、すごく楽しくて、すごく充実しています。だから自分達ができることから、少しずつでもいいからやり始める、それでその資金はどうするかといったら自分がやりたいからやるという決断ですけれども、私の決断の時は、息子が高校を卒業しまして就職しました。その時に、「母ちゃん車買ってください」と言われて、私は何ともなくああそうかって言って、百万のお金を息子に渡しました。その時百万の金を目にした時に、私自分のためにこの百万使ったことあったかな?と思いました。何で高校出たばかりの息子にこの百万すぐに渡すのだろうなと思ったのですね。自分のためにこの百万使えないものだろうか?と思ったのです。だからそれからは、自分のために使うと思うとすごく、自分は楽しくなるのですよ。だから気持ちの持ち方だけだと思うのですけども、ぽんとこう一歩踏み出すと面白い事が待っていますので、レストランでも、民泊でも、是非なさった方がいいと思います。ご静聴ありがとうございます。

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