加藤隆さんと諸戸孝光さん(伊勢湾台風の話その4)
いよいよ加藤隆さんと諸戸孝光さんが語る伊勢湾台風のお話の最終回です。
今度は、鈴峰荘(鈴鹿市に設置された木曽岬町児童生徒避難所)のことについてお聴きしたいのですが。
(加藤さん)被災後、子どもや老人は鈴鹿市にあった「電通学園」(現在跡地が鈴鹿医療科学大学薬学部となっている)と、津市の高田本山(専修寺)に避難していましたが、勉強の関係で小中学生は鈴峰荘という施設に移って、集団生活をしながら授業を受けました。
場所は、鈴鹿市の旭ダウ(現在の旭化成ケミカルズ)や鐘紡(現在、跡地が商業施設「ベルシティ」となっている)の西あたりにあったと記憶しています。
そこでの思い出は?
最年長(中学3年)だったので、身の回りの世話をしなければなりませんでした。また、明けても暮れてもカンパンとソーセージばかりだったことや、炊事や風呂炊きをしたこと、近所にあった澱粉工場でさつまいもをもらって、夜中にみんなで焼き芋にして食べたことなども思い出しますね。
鈴峰荘には小中学生と先生が住み込んでいたのですね?
(加藤さん)そうですね。鈴鹿の皆さんを初め、多くの方に世話になりましたが、三重大学生のボランティアの方々と交流した思い出が印象に残っています。
木曽岬町史によると、すすり泣く子どももいたそうですが?
(加藤さん)何かを思い出し、寂しくて泣く子もいましたし、親戚に引き取られ転校していく友達などは、泣きながら救援物資でもらった教科書や服をダンボール箱に詰め込んでいましたね。
12月に鈴峰荘から木曽岬に戻られたと記録にありますが?
中学生は、2学期末に村へ帰ってきました。
校舎がないので小学校で授業を受け、卒業式は小学校の運動場でした。小学校の1年から中学校の3年まで一緒だったのに、台風によって転校先で卒業した同級生が多数いました。
最後に、何かメッセージがあれば
(加藤さん)伊勢湾台風は木曽岬に空前の被害をもたらしました。
この歴史と体験を語り継ぎ、教訓として生かしていただいて、災害や防災に関する意識を高めてほしいですね。
折しも、来年は伊勢湾台風の50周年にあたりますから、行政には積極的に取り組んでいただきたいと思います。
長時間どうもありがとうございました。
加藤隆さんと諸戸孝光さん(伊勢湾台風の話その1)
加藤隆さんと諸戸孝光さん(伊勢湾台風の話その2)
加藤隆さんと諸戸孝光さん(伊勢湾台風の話その3)