加藤隆さん、諸戸孝光さん(伊勢湾台風の話その3)
加藤隆さんと諸戸孝光さんが語る伊勢湾台風のお話の3回目です。
台風が過ぎ去った後の状況を教えてください。
(加藤さん)新聞や写真でご存じの方も多いと思いますが、一夜にして変わり果てた村を呆然と眺めた時のことは忘れられません。
「もう住むことはできないな」と思いましたね。
わずかに残った家が点々と見え、中学校は壊れて屋根だけ、小学校は遠くにポツンと海に浮かんでいました。
気になっていた人もいたんじゃないですか? (加藤さん)「友達は無事だろうか?」、「助かりっこないなあ・・・」みんなのことが頭に浮かびました。 倒れた稲穂の上を押し流されながら助かった人もいれば、稲穂を掴んだまま亡くなった人もいたと聞きました。 |
資料を見ながら説明する加藤さん、諸戸さん |
(諸戸さん)当時はまだ刈り取りが終わってなかったですから。
(加藤さん)もし昼間だったら、助けようとして亡くなった人が続発して地獄絵図のような状況になっていたと思います。
ほかにはありませんか?
(加藤さん)同級生に、流されまいと鴨居に妹と一緒に掴まっていたら家が倒れて流された、という者がいるのですが、妹の「助けてえ」と叫んだ声が耳に残っているということと、自分も濁流の渦に巻き込まれて「もうだめだ」というところまでいったが、裏庭にあった1本のイチジクの枝にはじかれて水面に浮かび上がり、ちょうど背中に当たった流木に抱きついて、流されながらも助かったと言っていました。
そうですか・・・
(加藤さん)その後、彼は消防団の人に聞きながら妹を捜し回り、変わり果てた姿で発見されたそうですが、下着に縫いつけてある名前で妹と認めざるを得なかったとも聞きました。
また、台風の翌朝、夢遊病者のように堤防を歩いてる女性がいて、よくよく尋ねたら「松蔭」(桑名市長島町)から流されて助かった人だとわかったことも覚えています。
流されながらも生き延びた人が結構いるのですね?
(加藤さん)数まではわかりませんが、多くの人が逃げまどい流された割には助かっていると思います。
しかし、両親が家を守ることに必死で、親の手元から離れていた子どもが多かったのか、小学校1、2年生が最も多く死んだように記憶しています。
諸戸さんはいかがですか? (諸戸さん)消防団の仕事から一旦家に戻ったのですが沈んでましたね。でも、家族は無事でした。役場もだめになったので、残った民家をお借りして仮の役場ができたことも覚えています。 |
次回に続きます。