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令和03年02月08日

本居宣長記念館 体験レポート
2021.2.8公開


 今回は、松阪市の「本居宣長(もとおり・のりなが)記念館」をご紹介いたします。


<目次>
・本居宣長について
・本居宣長記念館について
・収蔵品の展示について
・開催中の展示
・鈴屋(本居宣長旧宅)
・松阪と宣長

・館の概要


 

本居宣長について


 「本居宣長」といえば、多くの人が知るビッグネームです。歴史の教科書で肖像画とともに大きく扱われています。ただ、「では何をした、どういう人でしょうか?」と問われたとき、同館を訪れる前の私には、以下の表面的な知識を答えることしかできませんでした。
 
・江戸時代の真ん中位に活躍した学者
国学を大成した人
・代表作は『古事記伝』『玉勝間(たまがつま)』
 
 皆様なら、どう答えますか?
 
 有名な小林秀雄が評論のテーマにし、これまで何度も「宣長ブーム」が起きていることからも、詳しくご存じのファンはもちろんたくさんいるでしょう。しかし、たとえば「国学」とはどういう学問か、『古事記伝』はどういう内容の本か、詳しく知る人は限られます。戦国時代や幕末、また同じ江戸中期でも忠臣蔵のような派手な事件とは無縁なこともあり、「本居宣長」という名前の認知度に、業績や人物像の浸透度が追い付いていないように感じます。三重(松阪)の偉人であることも、全国的には必ずしも有名とはいえません。
 
 本居宣長記念館は、これまで宣長に詳しく触れてこなかった人におすすめの施設です。同館は資料数や研究の蓄積から宣長顕彰の聖地というべき場所で、宣長に詳しい方にも大事な施設と思われますが、同時に、展示や講座などを通じて、幅広く宣長の業績と魅力の普及に努めています。
 
 宣長は日本の歴史に名を刻む知の巨人です。三重県民にとっては、郷土が全国に誇る偉人です。そんな宣長について、同館で詳しく触れてみてはいかがでしょうか。きっと知れば知るほど、宣長の業績の興味深さや、人間としての魅力を、強く感じられると思います。
 

 
「本居宣長六十一歳自画自賛像」 教科書で一番よく見る肖像画は61歳の宣長自身の作です。

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本居宣長記念館について

 
 本居宣長記念館には約16000点の収蔵品が保管されています。そのうち1949点が国指定重要文化財となっています。重要文化財は、宣長自筆の書類、自ら描いた絵図面、宣長が研究のため書き込みをした当時の書物などが中心です。
 
 同館は、本居家のご子孫が代々大事に保管してきた貴重な品々が、松阪市に寄贈されたことから設立されました。実物をご覧になれば、保存状態の良好さがわかると思います。ご子孫は、宣長の偉大な業績を広く知ってもらい、近世史研究を深めるため、貴重な資料をただ保存するのではなく、多くの人に見てもらおうと寄贈を決意されました。
 
 
 宣長自筆資料は大変多く残っています。一つには、宣長が何でも書き残す習慣を持っていたからでした。家計簿のような日常の記録や、生業である医業の記録がたくさん残っています。学問という「やりたいこと」だけでなく、生活のために必要な「やらねばならないこと」もおろそかにしない宣長の人物像が浮かんできます。
 
 そして、学問研究についても、非常に多くの資料が残っています。明確に結論が出た研究だけでなく、結論を保留したものも後世に伝え、率直に「わからなかった」と書き残しています。中には、現代の目で見れば明らかに誤った考察もあるそうです。宣長は「学問の発展のためには議論が必要だ」という考えを持っていました。不十分な情報も、ときには誤った結論も含めて、多くの情報が議論を深めるため必要だと考えていたのかもしれません。宣長は、有名な書物以外にも、この時代では異例といえるほど多くの本を出版して、情報の発信と共有に努めています。
 
 江戸時代の学問は一子相伝・門外不出とされたことも多かったと聞きます。その時代に生きながら、恥や批判さえ恐れていないように見える宣長の開かれた姿勢は、現代の合理的な学問研究に通じるものがあると感じました。
 
 
 その宣長の姿勢は、ご子孫にいわば家訓のように受け継がれたのでしょうか。ご子孫の決断のおかげで、同館に来れば、現代の我々が宣長の人柄と思考と思想を詳しく知ることができます。
 



 
同館1階の宣長に関するインフォメーションコーナーです。2本の動画プログラムが順番に流れます。

 
1階にあるテーブルには宣長クイズがありました。ふたを開けると答えを確認できます。
 
 
2階の講義室です。こちらで講座などが開かれます。宣長関連の書籍がたくさんありました。

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収蔵品の展示について


 豊富に揃った貴重な収蔵品を広く人々に公開することをいわば使命とする同館では、展示に次々と「国重要文化財」が登場します。とても贅沢な空間です。
 

続日本紀(しょくにほんぎ)【国重要文化財】 日本書紀に続く正史として編さん。宣長の書き込みがあります。
 

石見国地名図(いわみのくにちめいず)【国重要文化財】 宣長手書きの今の島根県の地図です。
 
 
 同館に常設展示はありません。季節ごとに年4回の企画展を開催し、毎回違うテーマで、様々な角度から宣長を紹介しながら別の収蔵品を展示します。
 
 同じ物を展示する場合でも、光の当て方はいつも同じではありません。たとえば、同じ宣長自筆の書の展示でも、書かれている内容を解説するときと、美術品として書を解説するときがあります。
 
 それでも、多くの企画展で共通する部分があります。観光で全国から人が訪れ、また三重県民でも宣長をよくは知らない人がいることから、同館の学芸員さんは、切り口を毎回変えつつ、常に宣長の研究や人生の全体像に触れられる展示を心がけているそうです。
 
 とくに、宣長といえば『古事記伝』ですので、宣長自筆の『古事記伝』は基本的に毎回展示します。
 

古事記伝(こじきでん)再稿本 巻8【国重要文化財】
 

 この『古事記伝』をはじめ、宣長自筆の書は美しいものばかりです。宣長は「立派な学問というには、内容だけでなく見た目の美しさも大事だ」という趣旨の文章を残しています。学芸員さんが付した「いつもていねいな筆跡」という説明に、何事もおろそかにしない宣長の人柄が端的に表現されているように思いました。
 
 それに加えて、宣長の字は、いわゆる「達筆」ではありません。クセがなく全く崩さない字です。とても読みやすく書かれています。読みやすい字には、学問発展のため他者と議論する際に、内容を正確に伝える機能があるように思いました。もしかしたらこの点も、宣長の開かれた学問姿勢と関係があるかもしれません。

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開催中の展示


 私が訪れた2021年1月に開催されていたのは次の展示でした。
 
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開館50周年記念 冬の特別展
宣長が見た日本
令和2年12月8日(火)~ 同3年3月7日(日)

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※上記期間の経過後は別の展示になります。
その時点の現在の展示は同館公式サイト内「展示・催し物」ページでご確認ください。

 

 
 
 
 同展は16個のトピックの章立てで、それぞれの角度から宣長が「日本」をどのように探求したかに迫ります。なかなかイメージしづらい「国学」についても、宣長の多くの学問成果を通じて、どういった学問だったか考えることができます。
 
 

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鈴屋(本居宣長旧宅)


 常設展示のない同館ですが、「鈴屋(すずのや)」がそれに相当します。宣長が12歳から72歳で亡くなるまで暮らした家です。
 
 本居家が長年暮らし続けた家屋を文化財として保存するため、松坂城跡の敷地内に移築しました。記念館がオープンした昭和45年よりはるか前の明治42年のことです。元々の場所は松坂城下の魚町でした。旧長谷川治郎兵衛家の近くです。昭和28年に「鈴屋」は国特別史跡に指定されています。
 
 宣長は鈴の音が好きで、書斎には紐でまとめられた鈴がぶら下がっていました。そのことから書斎の名前が「鈴屋」と名付けられ、今では建物名にもなっています。現在、2階の書斎には入れませんが、1階の居住部分に記念館と共通の入場料で、靴を脱いで上がることができます。
 
 江戸時代の偉人が実際に暮らしていた場所に立つと、とても神妙な気持ちになりました。
 
 

 

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松阪と宣長

 
 宣長の学問は日本全体を対象とし、知名度も全国的なため、「三重の偉人」と意識されにくい面があります。もしかしたら、たまたま松阪に生まれただけで、どこに住んでいても同じように偉人になったと思ってしまうかもしれません。
 
 しかし、宣長が『古事記』などの古典を研究したのは、「日本」を知るためでした。そこには、宣長が松阪に生まれたことと深い関係があります。
 お伊勢参りの通り道である松阪には、日本中から人が集まりました。言葉が違い、好んで食べるものも違う人々を、幼い宣長は目撃しました。そんな様々な場所で異なった暮らしをする人々をひとまとめにする「日本」とは一体何かという疑問が、宣長に生じました。
 その疑問への答えを探るため、様々な書を読み、様々な研究をして、結果的に「日本」というものを深く考える「国学」を大成することになりました。
 
 また、宣長の学問には、松阪にいたおかげで可能になったものが多くありました。
 たとえば、宣長は古典に登場する土地の記述を読み解くため、日本各地の人と連絡をとりました。通信手段の限られた江戸時代ですが、お伊勢参りを通じて彼らと知り合うことができました。遠国在住の有名な学者などと面識を持ち、その後、文通で情報収集や意見交換をしました。
 その松阪ならではの情報量が、宣長の学問を支えました。
 
 さらに、江戸時代の松阪には、武士が少ないため皆が比較的自由に行動できたという特徴がありました。商売を自由にできたことは、松阪に多くの豪商が誕生した理由の一つです(参照:松阪市立歴史民俗資料館体験レポート旧長谷川治郎兵衛家・原田二郎旧宅体験レポート)。
 武士が「国学」の研究を妨害するのは想像しにくいかもしれません。実際、キリスト教禁止や鎖国と結びついて弾圧されやすい「蘭学」と違い、直接の規制は少なかったようです。しかし、江戸幕府の公用学問は「朱子学」です。儒教の一派で、中国の宋で活躍した朱子が作り上げた学問です。とくに宣長の時代には、公の場で朱子学以外を学ばせない「寛政異学の禁」も発令されています。「日本という国を知るためには中国由来の学問とは別の方法が必要だ」という宣長の思想は、幕府の方針と必ずしも一致しませんでした。
 
 
 松阪にいるからこそ自分の学問が進むことは、宣長も痛感していたようです。高名な宣長には各地の大名から仕官の誘いがあったのですが、宣長は「松阪(坂)に住み続けても良いなら仕官します」と答えていたそうです。
  各大名が参勤交代する江戸や、出先機関を置く京・大阪と違い、「~藩・松坂屋敷」は聞いたことがありません。実現していたらどう仕官したのでしょうか。結局、宣長の仕官先は、松阪を治める紀州徳川藩でした。宣長の松阪への愛着とこだわりがわかります。
 
 
 加えて、私の個人的な印象ですが、学問の成果を公表し役立ててもらおうとした宣長の学問姿勢や、宣長のレガシィを皆に提供したご子孫のお考えには、深い教養を有し蓄えた財を公共のために投じた、松阪の豪商たちや原田二郎ら松阪武士たちの公共心と共通するものがあるように思います(参照:上記レポート記事)。
 
 松阪人である宣長の成功には、松阪という地域で人々が育んできた文化的な背景が大きく寄与している、そんな気がしました。

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 館の概要

 
本居宣長記念館

松阪市殿町1536-7
0598-21-0312

9:00~17:00(最終入館は16:30)
休館日 月曜(祝日の場合は翌日)・年末年始

大人400円・大学生300円・子ども(小学4年から高校生)200円 ※30名以上団体は割引あり
JR・近鉄松阪駅下車徒歩15分/三交バス松阪市役所下車徒歩5分

駐車場15台(近くに市営駐車場)

公式サイトはこちらから。「本居宣長について」という非常に詳しい解説コーナーがあります。
HPでのご紹介はこちら

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本ページに関する問い合わせ先

三重県 環境生活部 文化振興課 〒514-8570 
津市広明町13番地
電話番号:059-224-2176 
ファクス番号:059-224-2408 
メールアドレス:bunka@pref.mie.lg.jp

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